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韓国的なもの? 何かアンバランスながらうまくマッチ?[ワーカーズ]ソン・チャンウン、「現代韓国語の英語化変異現象に対する中国同胞と北朝鮮離脱住民の言語態度および言語アイデンティティの比較研究」、西江大学校修士学位論文、2018
キム・ソンユン(文化社会研究所研究員) 2018.11.19 11:25
![]() 「韓国的なもの」とは何だろうか。 韓国的な映画というと何を思い出すか。 タク・ソクサンの「韓国のアイデンティティ(チェクセサン、2008)」という本が 「韓国的なもの」に関する固定観念を破って10年も経つが、 相変らず西便制(邦題:風の丘を越えて)や王の男のような映画を思い出す人は少なくないだろう。 われわれはなぜ、つまらない安堵感(「韓国的なものは世界的なものだ」)と ツーリズム(「ワオ! コリア ビューティフル」)以外に 何の役にも立たないものに執着するのか。 恨、興、シンミョン、曲線…。 韓国的と習ってきた価値のことだ。 今日の文では論文自体を要約して著者の問題意識を紹介するよりも、 そこで特定の一つ論点を捉えて集中してみたい。 月を指す時は月に注目しなければならないのが冷酷な原則だが、 時には月についたしみを面白がることも意味があるのではないかと思うような発想だと見れば良い。 つまり、今回の論文は韓国的なものに対する固定観念の実体を明らかにするわけでも、 かと言って何が本当に韓国的なものなのかを主張するようなものではまったくないが、 少なくとも私たちが知っている常識を壊すためにすばらしいヒントをあたえる論文だということだ。 ソン・チャンウンの修士学位論文 「現代韓国語の英語化変異現象に対する中国同胞と北朝鮮離脱住民の言語態度および言語アイデンティティの比較研究」は、 「英語化される韓国語」と「漢字語と融合した韓国語」、 そしてこうした韓国語に対する「北朝鮮離脱住民」と「中国同胞移住民」の反応を研究した社会言語学の研究物だ。 簡単に言えば、「とてもディテールにデコして何かアンバランスだがうまくマッチするような感じ?」といった時、 北朝鮮離脱住民や中国同胞移住民がどう思うのかということだ。 まず私が勝手に解釈するにしても著者に対する礼儀は守らなければならないので 論文全体を三行要約してみれば次の通りだ。
世宗大王ゲームというものがある。 多くの人が集まって、誰かが英語を混ぜて話せば罰を受けるゲームだ。 例えば「さあ、これからゲーム開始!」といえば「ゲーム」という言葉を使ったので すぐに罰酒を飲むというようなゲームだ。 だが(やってみた人々は分かるだろうが)このゲームは思ったより難しい。 罰酒が乱舞する状況になる。 その上、後で罰酒を避けるために皆が沈黙する不祥事が起きたりもする。 それだけ現代韓国語から英語を排除するのは不可能に近いということだ。 純粋韓国語主義者にとっては遺憾だが、 コングリッシュがない韓国語、外来語がない韓国語は想像することは難しい。 こうした事例はその上、タク・ソクサンさえ疑いえない韓国固有のものとして拠論する韓国語さえも 事実はいつも「形質変換」の途中だという話とも通じる。 純粋韓国語主義者は「オデン」や「シマイ(仕舞い)」を 「オムク」と「マガム」と純化するべきだという。 そのたびに感じる疑問はこういうものだ。 オムク(魚ムク)やマガム(?)には漢字があるから中国語からきたと見なければならないのではないか? そのためか、原理主義者はそのような言葉もまったく「純ウリマル(私たちの言葉)」とに変えなければならないという。 多分こうした考えのためであろう。 純ウリマルを使うことが正しい言語習慣で、それによりわれわれのアイデンティティを守って主体的に暮らせるということ。 英語や日本語に汚染されていない(そして激しい場合には漢字語からも独立した) 韓国語を使うことこそ韓国的だという論理というわけだ。 しかしわれわれはソン・チャンウンの論文で(事実は誰も守らない) こうした常識に対抗するような大きなヒントを得ることができる。 彼がインタビューしたある中国同胞研究参加者はこうした話を聞かせてくれる。 「およそ2年ほど経って、その時からは適応して自信もできました。 韓国の人々が話すこと(英語化された韓国語)はほとんどみなわかる… ああ、これで韓国の人になったようだ。ハハハ。」 相変らず私たちの多くはTVに出てくる外国人がキムチをもぐもぐ食べる時、韓国の人のようだと感じるかもしれない。 しかし彼らは全く韓国的ではない現象のように見える「英語化された韓国語」を きちんと聞き取ったり駆使できるようになれば、始めて自分が韓国人になったように感じると話す。 驚くべきではないか。 彼らが知らせる「韓国的なもの」だ。 よく考えてみると、こうした話からいくつかの教訓を得ることもできるだろう。 最初に韓国人が想像する韓国的なものと、 外部の人が観察する韓国的なものの間には何かの乖離がある。 二番目、私たちが学習し、内面化した韓国的なものに関する信頼は、 実は虚構かもしれない。 三つ目、本当に韓国的なものは、当初から固定的で純粋な実体として存在しているのではなく、 ただ無数のことが互いに出会った結果として現れた。 (社会言語学的に)ソン・チャンウンはコングリッシュが乱舞する韓国で、 移住民が戦略的に言語アイデンティティを形成する過程に注目したのだが、 これは実際のところ驚くべき逆説を発見した形でもある。 逆に考えると、こういうことだ。 (言語社会学的に)ソン・チャンウンは移住民が英語化した韓国語を受け入れることにより 結果的にはハイブリッドに満ちた韓国的なものの構成に終止符を打つという事実を発見したのだ (もしかするとそんな不らちな発想から論文を準備したのかもしれない)。 2000年代中盤か、映画理論家が集まってナショナルフィルムについて討論をしたことがあった。 自然に西便制(邦題:風の丘を越えて)のようなもの思い出すだろうが、 彼らはむしろオールドボーイを一番韓国的な映画に選んだという。 いったいどんな理由なのだろうか。 今回は読者の皆さんが直接推論をしてみるても悪くない。[ワーカーズ48号] 翻訳/文責:安田(ゆ)
Created byStaff. Created on 2018-11-05 16:19:23 / Last modified on 2018-11-21 07:38:38 Copyright: Default 世界のニュース | 韓国のニュース | 上の階層へ | |