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News Item 201811010
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「隠れろ」に含まれた国家暴力と嫌悪

[人権の場所]済州海軍基地建設でも変えられない

ミョンスク人権活動家 2018.11.15 11:28

▲生命平和ミサ[出処:キム・ヨンウク]

済州空港に降りるとすぐ暗雲が急速に空を覆い、 荷物を待っていると遂に雨が降り出した。 しまった、台風が日本できていると言っていたのに…。 済州道はソウルからはるかに遠いので、そこまで考えることができなかった。 陸に住む者の無関心を考えながら江汀に入ってきた。

午前11時を少し過ぎた時刻、海軍基地に通じる交差点のテントで10数人の人たちがミサをしていた。 何年か前までミサをするテントは警察と海軍、用役とぶつかった工事現場の正門にあった。 海軍基地完工が膚で感じられる。

海軍基地が建設されても平和への旅程が終わったのではなく、 生命平和ミサは月曜から土曜まで丹念に開かれる。 文正鉉(ムン・ジョンヒョン)神父はミサの後に青瓦台の行政官が村をごたごたにしていると憤激を放った。 国際観艦式のイベントのためだった。 だからだろうか。 ミサの最後に奉献ソング「江汀」は悲しかった。 文神父は肩と背中を弓のように曲げて全身で歌を歌った。 歌ではなく、打てばすぐにでも痛哭が出てきそうな泣き声だった。 怒りであった。 携帯メッセージではなく肉声が伝播する痛みと悲しみがテントをとり巻いた。 いつのまにか私の目に涙が溜まる。

「江汀、君はこの島で一番小さな村だが、 君から全国の平和が始まるだろう。 倒れて倒れても起きあがるだろう。 私たちは君と共にするだろう。」

▲消えてしまったクロムビの端のメップリは海軍基地を一番近くで見られる。[出処:キム・ヨンウク]

海軍基地の建設でも変えられない

ミサが終わって、済州平和人権センターのホン・ギリョン所長と会い、 メップリと三叉路食堂、江汀入り江に行くことにした。 政府が江汀に海軍基地を作ると発表した2008年から、彼は海軍基地反対の闘争をした。 現在「済州軍事基地阻止と平和の島実現汎道民対策委」の執行委員長だ。 前は主に移住労働者人権活動をしていた。 ホン執行委員長は 「地域住民共同体に関心を持ち、女性・障害者・青少年・移住労働者と共にした後で 多くのことを経験したが、江汀の戦いはもうひとつの悩みを抱かせた」とした。

われわれは風雨を受けながら江汀川を通り、メップリに行った。 基地建設の真っ最中だった時、江汀川の橋の入口で百拝をしたのに… メップリは江汀川と江汀海が出会う所で、チェジュ・オルレ7コースとつながる。 今は消えたクロムビの終わりなので、海軍基地を一番近くで見られる所だ。 歩いているとメップリバクという、 平和活動家が海軍の不法工事行為を監視していたテントが見えた。 人はいなかった。 少し歩くといよいよポム島がある海だ。 海軍基地の中に停泊している軍艦も2隻が見えた。 あの美しい海に漁船ではなく軍艦とは、海軍基地建設をまた実感する。 戻って出るところに祭壇が見えた。 毎年1月に村まつりをする所だと言う。 海軍基地の闘争で、賛成側と反対側に別れ、村まつりもなくなって村の運動会もなくなって、 最近は日の出のイベントの後に安寧祈願祭をまたするという。

▲三叉路食堂[出処:キム・ヨンウク]

昼休みなので、中徳三叉路にある三叉路食堂に先に行った。 三叉路食堂の入口に着くとチュンドク(犬の名前)が熱心にご飯を食べている。 三叉路食堂は農作業をしたキム・ジョンファン・サムチュン(済州道でははまわりの大人と知人を男女の区別なくサムチュンと呼ぶ)が2012年にクロムビに建てたテント食堂だ。 クロムビの爆破後に三叉路に移転した。 江汀の住民と平和守備隊がここで昼食を食べる。 三叉路食堂に入るとミサをした住民と海軍基地正門の前で宣伝戦をしていた平和活動家がご飯を食べていた。 予定された国際観艦式関連の活動の話をしているところだった。 ホン執行委員長は江汀で人権の場所として三叉路食堂は欠かせないといった。

「三叉路食堂は、ある意味、私たちを食卓共同体にしました。 何をしてもお昼はここで一緒に食べるので、 こうして続けられました。 (米軍基地がある)沖縄の人たちがきて、三叉路食堂を見て驚きました。 すごいと。」

昼食を食べて海軍基地が見える江汀の入り江に行った。 台風の影響で強まった風のせいで、からだを真っ直ぐにするのも大変だった。 海軍基地に多くの建物ができて、以前とは違う風景だった。 政府は民軍複合港だと言いはったが、 まだクルーズ港の工事は終わっていない。 入り江に上がると文正鉉神父が海軍と戦って墜落したテトラポッドの表示が見えた。 消えた風景の代わりをするかのように、激しい闘争の記憶が次から次へとわいてくる。 あそこでボートに乗って、海洋汚染監視活動もしたのに…

新山公園、クィアーの場所として出直す

われわれは済州クィアー文化フェスティバル(以下済州クィアー・フェスティバル)が開かれる新山公園に行った。 新山公園は済州市にあるので急がなければならなかった。 済州市に入ると確かに車が増えて遅くなった。 新山公園の近くには多くの警官が見えた。 今年で二回目になる済州クィアー・フェスティバルに 同性愛嫌悪キリスト勢力が集まって祭りを妨害することが続いているので 警察が動員されたのだ。

▲デモ行進を防ぐ嫌悪勢力を突破して道路に走っていくクィアー文化フェスティバル組織委[出処:キム・ヨンウク]

いくら嫌悪勢力が妨害しても、楽しく遊んでこそ祭りだ。 済州にあるいろいろな性少数者団体と市民社会団体がブースを作り、簡単な行事を行った。 ちょうど平和活動家が手を握って取り囲んで踊っていた。 何か平穏な感じ、他の地域祭りでは見られない風景だ。 少し後にデモ行進を知らせる楽しい歌が流れた。

デモ行進の前に済州クィアー文化フェスティバルのキム・ギホン組織委員長と少しの会って話をした。 キム組織委員長はカミングアウトしたクィアーで、 今年、緑色党性少数者比例代表として地方選挙に立候補した。 彼がカミングアウトした契機は昨年の大統領選挙の時に 洪準杓(ホン・ジュンピョ)候補が文在寅(ムン・ジェイン)候補に 「同性愛に反対するのか」と尋ねると、文在寅候補が「反対します」と答えた放送討論だった。 大統領候補の嫌悪表現に声でもあげなければならなかった。 彼は音楽教師で、自分の性アイデンティティは男性と女性を区分しないノンバイナリ(女性と男性性別に区分されない性)であり、 性的指向はバイセクシュアル(両性愛)だと説明した。 まだ性アイデンティティを探しているところだが、 両極端な性分割に馴染んだ人々は境界を乱す人を珍しく思うだろう。

彼は自分の人生がクィアー・フェスティバルをする理由だといった。 青少年の時、自分の性について悩んだ時、 楽に人に会って考えを分けあう空間がなかったとし、 クィアー・フェスティバルが開かれる新山公園はクィアーにとって象徴的な場所だと話した。

「クィアー・フェスティバルはクィアーらの存在を見せる表面化戦略だと考えます。 また、クィアーたちが行ける場所はトランスジェンダーの店やゲイの店程度という状況で、 青少年が行く所はあまりありません。 そして昨年、フェスティバルを準備する過程で、 正義党済州道委員会に性少数者委員会ができました。 クィアー芸術団体などさまざまな団体もできて、 済州大学校にクィアーサークルもできました。」

あるいは場所を新山公園にした意味があるのかと尋ねたところ、偶然だといった。 初めは咸徳海水浴場や市庁などを考えたが、 嫌悪勢力の抗議電話によって移動した。 市庁の前はセウォル号集会だけでなく、嫌悪勢力の集会も開かれる政治的な場で、 そこも念頭に置いたという。

新山公園は、済州4・3 50周年の1998年にできた「4・3解怨防邪塔」がある所だ。 悔しさを解くという意味の解怨と、4・3事件のような邪悪な気勢を防いでくれという意の防邪塔が意味深く感じられた。 嫌悪勢力を見るのでもうその塔は国家暴力だけでなく少数者嫌悪という邪悪な気勢をはね除ける使命も与えられるのではないかと思う。

昨年、済州市がクィアー・フェスティバルの場所を認めなかったので行政訴訟をした。 クィアー・フェスティバルが勝訴したが、嫌悪勢力が済州市のあちこちにクィアー・フェスティバルに反対する横断幕を付けた。 おかげでとても広報ができた。 しかし今年は嫌悪勢力がイエメン難民を嫌悪するために、済州クィアー・フェスティバルは疎かにしたようだとキム組織委員長が冗談を言った。 その一方で彼は「昨年は町の人たちも祭りを見て、モチを分け合って食べたりもしたのに、 今年は嫌悪勢力の行動が過激になって警察がフェンスを打ったために 美しかった祭りの姿がなくなった」と惜しんだ。

パレード隊列を遮る嫌悪勢力のためにデモ行進が40分遅れた。 その上、キリスト嫌悪勢力はデモ行進の途中にも乱入し、 車両の前に横になり、止まったトラックの下に入った。 それもくやしいのかデモ行進の車両が市民を轢いたというフェイク・ニュースも配布した。 もちろん少し後に事件の真相がマスコミの報道で明らかになったが、こうした攻撃は性少数者らを隠れさせる。

フェスティバルの参加者はデモ行進を終えて新山公園に入ってきたが、名残惜しさで帰ることができなかった。 互いが互いの力になる祭り、互いの存在を消さない祭りなので、 性少数者嫌悪で満ちた世の中に出て行きたくないのかもしれない。 江汀守備隊であり平和活動家でもあるクィアー・フェスティバルのチェ・ヘヨン組織委員は 「生き残っていることがどれほど難しいことなのか、本当に全身で感じた一年だった」とし 「クィアーとクィアーの友だちが貴重な友だちを守り、来年会おう」と言って終えた。 私たちも名残惜しさを後にして江汀にきた。

▲フランシスコ平和センター近くの菜園チョン・ソンニョ会長. [出処:キム・ヨンウク]

つらいことを忘れさせてくれる土地

フランシスコ平和センターで一夜を眠り、起きると空は晴れていた。 牛島から江汀にきて、江汀守備隊として活動するチョン・ソンニョ公所会長と会った。 ピーナッツ農作業をしている農民らしく、裏の畑で草取りをして豆畑を見回っていた。 江汀守備隊と共にピーナッツ農作業をする菜園は、廃棄物を積んでいた所なので 2〜3年は無償で賃貸したという。 小さな菜園だが、農作物を見る彼の目は光っていた。

「牛島で有機農農作業をしながら、土地を生かしたかったのです。 それでここにくるのに心の対立がありました。 2007年から毎年江汀にきて、2012年にはまったく荷物をまとめて来ました。 しかし来るとすぐ警官のためにとてもストレス受けます。 『土に行こう!』小さな時から農作業をしていると雑念と苦痛を忘れたことが思い出せる。 初めは共同墓地2千坪を借りて農作業をした。 村所有の共同墓地だが墓がなく、5年契約で畑を作った。 そこに行くととても幸せだ。それでまたここに畑を作った。」

もう六十になった彼が平和運動に関心を持つようになったのは、4・3のためだ。 4・3の時にお父さんが銃で打たれて苦いむのを見て育った。 祭祀の時は位牌がない先祖膳をこしらえて、誰のものかと聞くと大人たちは 「知ろうとせず、聞こうともするな」と言った。

「カラスも知らない祭事は4・3の時に行方不明になった人、 死んでしまった親戚だ。 それでもまったく話ができなかった。 連座制のために隠したのだろう。」

その上、彼が暮らしていた慕瑟浦には60年代まで米軍がいたが、 戦闘機やヘリコプターが空に上がると島全体がぶるぶる震え、 住民が感じた恐れは言葉にできないほどであった。 「恐怖がそのまま体内に積もっても」そのまま暮らさなければならなかった。 しかし彼は自分の世代からは変わったようだと言う。 4・3を経験した大人たちはトラウマのために軍や警察から暴力を受けても声もあげられなかったが、 自分は堂々と警察と海軍に間違いは間違いだとはっきり言うと力を入れた。 そして「4・3は本当に反人権的で非民主的なテロ」だと胸をなでた。

▲江汀入り江から見た海軍基地. [出処:キム・ヨンウク]

▲海軍基地前の百拝[出処:キム・ヨンウク]

隠れ場を提供した冬栢東山

4・3事件は大韓民国政府樹立前の1948年4月3日から1954年9月21日まで、 済州道で米軍政体制に対する不満と単独選挙と単独政府に反対する闘争、 その過程で起きた民間人虐殺を含む。 4・3の痕跡がない所はないと言っても過言ではないほど、済州のあちこちが4・3遺跡地だ。 4・3遺跡地と言われるところはナクソン洞城跡とムクシムルグル、 北村オムパン畑とノブンスンイ、銅鉱クンノルクェなど、主に虐殺の場所だ。

われわれは虐殺場所で、映画〈チスル〉の撮影場所でもある冬栢東山に行った。 住民たちが木も切って炭も焼いて売った冬栢東山は、コッチャワルだ。 コッチャワルは「コッ」と「チャワル」を合成した新語だ。 コッは森を意味し、チャワルは木とツルなどがからまって茂みのようになったところで、 北方界植物と南方系植物が共存する所をいう。 海抜100〜600m地域にあるが、済州道の面積の6%程度を占める。

▲ムクシムルグル[出処:キム・ヨンウク]

村の人々は森を守る約束の中の一つが「椿は切らない」だと言う。 木を切るより椿(冬栢)から油を取るほうが経済効果が大きいからだ。 そのおかげでうっそうとした冬栢東山は30万坪にもなる。

冬栢東山湿地センターで済州生態観光協会のコ・チェリャン代表と会った。 コ代表は環境の専門家で2010年から国立湿地センターの支援を受けて8年間、住民力量強化事業をしている。 彼は環境専門家なので、地域に行けば自然が住民にどんな役割を果たすのか把握する。 ソヌル1里住民に冬栢東山の供給サービスは何かと聞くと、その答にとても驚いたという。

「この村の人々に生態系サービスの中で供給サービスが何かと聞くと、 溶岩洞窟の隠れ場所の提供だと書きます。 供給サービスに隠れ場所だなんてとても笑わせるでしょう。 実や燃料のように直接物を与えてくれるのが供給サービスですね。 住民はこう言います。 4・3の時に(冬栢東山が)私たちを隠してくれたではないか!」

国家は裏切ったが、自然は隠れ場所を提供して住民を守ったのだ。 1948年10月、武装隊を討伐するとして、山間地域に哨戒令が出た。 ソヌル1里の人々は3日がんばればいいとトンネルに隠れた。 しかし誰かの告発で隠れ場所が発覚した。 11月21日、討伐隊は200人ほどが隠れていたムクシムルグルと50人ほどが隠れていたトトゥルグルに手榴弾を投げて迫撃砲を撃ちまくった。 遺体回収も出来ないように燃やした。 恐ろしい虐殺だった。 住民たちが4・3について口を開いたのは昨年からだ。 被害遺族を沈黙させる程、虐殺は強烈だったし、連座制への恐れが強かった。

▲ムクシムルグル内部[出処:キム・ヨンウク]

「地域で共同体活動をする人たちに古い対立があれば大変です。 古い葛藤を解いて、私たちが目標を共にたてて親しくなることが基本なので言ったのですが、 お年寄りたちは触るな、和解は絶対できないと言います。 後でわかったのですが誰かのお父さんが話したので、自分のお父さんが竹槍で刺されて死んだのに、 どうして和できるのかといいます。」

密告した人や西北青年団出身、警察出身家族が隣に住んでいるのに、 彼らと笑いながら話をすることはできなかった。 70年前の両親の時から続く苦痛とトラウマは現在進行形だと彼は話を続けた。

「一昨年に村住民130人ほどが集まって、冬栢東山のために何をできるかを議論したのですが 70以上のお年寄り何でもすると意欲を見せてくれました。 それで始めたのが毎週一回ずつセンターに出てきて、これまでの人生を絵本に描く作業なんです。 それを1人が1冊ずつ本に作ったところ、14冊なんです。 私たちの村には作家が14人ですね。ハハ。 しかしすべての話に4・3が出てきます。 生きてきた曲折が各々違うのにです。 ブック・コンサートをすると、話をするお年寄りも泣いて、 聞いている私たちも泣きました。 お年寄りたちこう言うんです。 『まあ気がせいせいする』 『厄払いした感じだ』 これまで聞く人がいなかったのに、絵本を描いて解けたのですね。」

これまで4・3について話しても聞く人がいなかったのに、 今は話す事もでき、聞く人もいる。 そのためか、前よりも住民の表情が明るくなったという。 慰霊碑をたてようという話も最近になって出てきた。 行くことを敬遠した冬栢東山にも行く。

▲冬栢東山[出処:キム・ヨンウク]

台風が通過した青い空を見て考える。 国家暴力の犠牲者と少数者に隠れろと沈黙しろと強要する世の中で、 何をするべきなのか、少しは分かったようだ。 彼らがもう沈黙して隠れていないように、 語り切れなかった話をもっとか聞かなければならないな。 表面化戦略ほどに重要な社会的なヒアリング戦略は、 もうひとつの冬栢東山を作る仕事ではないか。[ワーカーズ48号]

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2018-11-05 16:19:23 / Last modified on 2018-11-20 20:33:02 Copyright: Default

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