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竜山惨事10年、都市開発と不動産の欲望

[ワーカーズ]連載

イ・ウォノ(竜山惨事真相究明委員会事務局長) 2018.11.13 16:51

[編集者の言葉] 2か月ほど後の2019年1月20日は竜山惨事10周年だ。 10周年を前にして〈竜山惨事10年、都市開発と不動産欲望〉というテーマで 3回の原稿を掲載する。 第1回は竜山惨事と都市開発暴力の歴史を、 第2回は今の開発と都市再生に対する診断を、 代3回は不動産独占の時代と竜山の悲劇を扱う予定だ。

[出処:キム・ヨンウク]

今、ここの竜山惨事

2016年春、蘆原区仁徳村の再建築地域で撤去用役の暴力で住民23人が肋骨を折るなどして全治2〜6週の負傷をした。 血が散乱する当時の場面は私たちがどのような時代に生きているのかがわからなくさせた。 同年、麻浦区新水洞の再建築地域撤去民は用役が噴射した消火器の粉末をかぶったまま引きずり出された。 彼は3年間、区庁前でテント座り込みをしているが、それさえも何回も撤去された。 2017年の年末と今年のはじめにかけての冬、 長位ニュータウン地域と鷹岩再開発地域ではソウル市の冬期撤去禁止原則が面目を失うように 数回の暴力的な冬季撤去が行われた。 昨年5月、開浦8団地の再建築地域でも400人の用役が商街賃借人10人が集まっていた狭い空間に消火器8台を乱射しながら引き出した。 9月には、生まれてから70年間暮らしてきた家を奪われることになった阿蜆洞の撤去民が 建物3階の足場鉄筋の端にしがみつき、強制執行に抵抗した。 開発地域ではないが、商街賃貸借紛争を味わっている西村の宮中チョッパルでは 午前4時に建物の中に人がいるのにリフト車で扉に突っ込み、 建物の前面を壊して強制執行を強行した。

竜山惨事から10年、「もう暴力的な撤去はない」という宣言があった。 しかし強制撤去は今この時間にも行われ、 過去の事件であるかのように孤立させられようとしている。 都市開発のパラダイムが都市再生に転換する時代だと言うが、 「第2の竜山惨事」と書かれた横断幕を張った地域が随所にある。 開発と強制執行がある所は、相変らず戦場を彷彿させる。

都市開発その暴力と抵抗の歴史

ソウル市楽園区幸福洞。 1978年に出版されたチョ・セヒ作家の「小人が打ち上げた小さな球」に登場する撤去村の名前だ。 20日以内に自主的に撒去して出ていけという撤去戒告状が貼られた町。 戒告期間が過ぎたとして食事中に突然押しかけた撤去班がかなづちを持って勝手に入り込んで壊した町。 楽園でもなく、幸福でもないと思った貧しい撤去村の名前が楽園区幸福洞だ。 この名前は楽園のように華麗な都市を作るために、暮らしの場所から追い出されなければならない貧しい人々の地獄のような現実を冷笑的に表現したのかも知れない。 あるいは誰かの楽園のために破壊するこの町が、 たとえ貧しくても頼り合って暮らしていく小さな幸福がある町という意味かもしれない。 だから小さな存在のお父さんは、この死んだ土地を離れて鉄球に乗って月の国に行こうとしたし、 息子ヨンホはその家から出ることはできないと粘ろうとしたのかもしれない。

「撤去班が来ると子供たちは遊びながらも『お母さん、撤去班のおじさんがツルハシ、棒を持ってきた。はやく出てきて!』と叫びます。 裸足であたふたと飛び出して、世帯道具をまとめ、板切れでも壊れないかと一つ一つはがす時は 本当に息が詰まって心臓が高鳴り、耐えられません。」(1975、中浪川辺里門洞撤去民要請文「お母さんの呼び掛け」) [1] 圧縮的経済成長を体験した韓国社会における開発は、 経済成長、発展の象徴だった。 産業化と都市化が貧困を克服するプロジェクトとして提示され、 開発による華麗な都市への変化は私たちの生活の豊かさを見せる発展の効果的な手段として宣伝された。 開発により追い出される人々の問題は、発展のためにやむを得ない付随的なことか、 国家全体のために譲歩すべき個人的な被害ぐらいに片付けられた。 都市の発展と住宅供給、劣悪な住居環境の改善などのあらゆる修飾語を付けても、 これまでの都市開発の歴史は一言で「暴力の歴史」だった。 1975年、中浪川辺が撤去され、テントを張って生活した住民代表が朗読した「お母さんの呼び掛け」や 「楽園区幸福洞」から40年の時間と空間が過ぎたが、 相変らず大韓民国の撤去民の時間と空間は剥製にされている。

都市開発暴力の歴史は急速な産業化を経て、増えた板子村(貧民街)などの無許可定着地の摘発から始まった。 どの社会でも都市貧民が居住する無許可定着地は、 都市の環境美化や土地の効率的活用を阻害するという点で、 または社会の不満勢力や疎外集団の大規模居住地だという点で、 各種の規制と摘発の対象と見なされた。 産業担い手という名前で都市に押し出されるようにして流入した人々のうち、 既存の公式な住宅市場に進入する経済的基盤がない人々が河原や 山の空地を無断で占有してテントと板張りの粗末な家を作って生活し、 無許可定着地での都市難民の生活を送った。 1950〜60年代の開発は政府主導で行われたため、 摘発という名の撤去と撤去民の復旧が繰り返され、 撤去民の抵抗も警察、区庁職員との衝突や臨時方便的な水準の要求に留まった。 そのうちに60年代の後半から70年代の初め、 経済成長で効用価値が高まった清渓川一帯などソウル都心地の無許可の板子村を大々的に撤去して、 郊外周辺の集団移住定着地に移住させる政策が進められ、あちこちで衝突が発生した。 1971年、数万の群衆が官公庁などの主要拠点を掌握して抵抗し、 当時、暴動と呼ばれた光州大団地事件は、厳酷な朴正煕(パク・チョンヒ)軍事独裁政権時期にも 都市開発の深刻な暴力により押し出された撤去民の怒りを見せた。

1980年代の開発の暴力は、集団移住定着地として作られたタルドンネ(月の街の意。貧民街)地域をアパートに開発する過程でさらに深刻になった。 当時、不良住居地整備という政府の政策的な必要性と、 中東建設から戻ってきた遊休建設装備と資本を投資する活路を見出した建設資本の要求がかみ合って、 民間主導の新しい開発方式が展開された。 1983年に導入され、今も続く合同再開発方式がそれだ。 合同再開発は、土地と住宅の所有主が組合を結成し、 建設会社とともに開発する民間主導方式で、 利益追求の動機が明らかになった開発方式はさらに暴力的な様相を帯びる。 1986年、暴力組織が設立したイプサン開発など撤去業務を代行する撤去用役業者が本格的に登場した。 70年代に掘っ立て小屋を摘発した区庁の「撤去班」ではなく、 本格的な「撤去用役ならず者」の会社が登場することになったのだ。 特に86年のアジア競技大会と88年のオリンピックを控えて強行された撤去の暴力性は深刻な社会問題として台頭した。 86年の1年間、撤去現場で5人が死亡し、86年から88年の2年間に14人が強制撤去により死亡したという。 「86、88が人を殺す」という言葉も出回った。 この時期の撤去暴力について、1987年に国際住居連盟(HIC)は韓国を南アフリカ共和国と共に「最も非人間的かつ残忍に撤去する国」と指定した。

撤去暴力が深刻になるほど、撤去民の抵抗もさらに組織化された。 1983年の木洞撤去民闘争を原動力として 舎堂洞、上渓洞、楊平洞等の賃借人が激しく闘争した。 こうした流れで強化された撤去民運動は、1987年7月17日に各開発地域の共同闘争組織である 「ソウル市撤去民協議会」を創立するに至った。 当時の撤去民の闘争は、不動産暴騰問題とからんで社会的共感が広がり、 1987年の民主化運動の過程で撤去民の闘争が合流して拡大した。 このような大規模開発に反対する抵抗の80年代の撤去民闘争の過程で建物の瓦礫に押しつぶされたり、 悲観自殺、用役ならず者の暴行、放火などで数十人が死に、数百人が怪我をした後、 1990年前後に永久賃貸住宅政策導入などの賃借人用賃貸住宅政策が導入された。

1990年代は、多くの撤去民闘争が勝利した意味ある時期だ。 しかし撤去暴力もまたさらにあくらつだった時期でもある。 90年代は開発期間中の臨時住居施設の仮移住団地争奪と未該当者に分類された撤去賃借人の公共賃貸住宅争奪が主な争点だった。 ドキュメンタリー「杏堂洞の人々」で有名な錦湖杏堂、下往十里洞のソンハク村の撤去賃借人102世帯による 1995年の仮移住団地争奪を始め、三養洞、弥阿洞、ムハク村(ハワン1-3)、パタン村(クモ6)などが続々と仮移住団地を争奪し、 賃貸住宅に集団再定着した。 しかし撤去暴力はさらにあくらつだった。 イプサン開発から出た人々が設立した撤去用役ならず者業者であるチョクチュン開発(その後にタウォン建設)が ソウル市の再開発現場を独占したも同然になり、 クギを打った角材を持って押しかけるなどの刃傷沙汰と集団暴行、性暴力などのあくらつな暴力を行った。 当時、人権社会団体が「タウォン建設(旧チョクチュン用役)の司法処理のための共同対策委員会」を構成して対応までするほどだった。 暴力に抵抗するこの時期、撤去民も櫓闘争をはじめ、命までかけてさらに危険な闘争に立ち上がるほかはなかった。

1997年のIMF救済金融事態以後に新自由主義政策が本格的に導入され、 都市空間もソウルを中心として全地球的都市との競争のための都市戦略が推進された。 劣悪な住居環境改善という名分も消え、地球的資本によって支配される都市のための開発だった。 新自由主義都市化を構成するプロジェクト ファイナンシング(PF:Project Financing)等の不動産金融化が本格化し、 既存の建設財閥に金融勢力と地方の群小土豪勢力までが結集する強力な開発同盟体制が構築された。 2002年から当時、李明博(イ・ミョンバク)ソウル市長が進めたニュータウン広域開発プロジェクトは、 新自由主義都市のこうした欲望を集結させた。 「タウンドリ」 [2] と指摘された政治的欲望と、住宅価格の上昇という個人の欲望が結びついて、 開発の欲望と幻想は風船のように膨張した。 そしてその欲望の頂点で、われわれは元に戻せない残酷な竜山惨事と必然のように出会うことになった。 この時期、ニュータウン幻想により追い出される撤去民の抵抗は、 商街賃借人の闘争として現れた。 すでに商圏が発達していたソウル都心に大規模ニュータウンの広域開発と商業地開発が始まり、 商街賃借人の生存の問題が広く発生した。 結局、商街賃借人だった竜山撤去民が生きるために櫓に上がり、死んで降りてきた。

私たちの竜山と彼らの竜山

竜山惨事が発生した龍山4区域の竜山漢江路一帯は、 当時ソウル駅から漢江に至る区間まで、 ソウルの新副都心開発のための大規模開発プロジェクトが進められていた。 サムスン物産が代表コンソーシアムとなり、 26の金融、建設財閥が総出動して財務、戦略、建設部門の投資家となって、 事業費50兆に達する大規模開発プロジェクトを作り速度戦で押し通そうとした。 その狂乱の暴走の中心に「檀君以来最大の開発」事業と称される竜山国際業務地区開発事業があった。 結局これは2013年の「檀君以来最大の詐欺」という不渡り事態に帰結した。 六人が死亡した竜山惨事を「惨事」と表現するのではなく「事件」と表現しようとした朝鮮日報は、 メガ開発プロジェクトである竜山駅勢圏開発事業が最終的に不渡り処理されると、 その事件を「竜山惨事」と表現していた。 資本とそれを庇護する者の立場から見れば、 竜山開発の不渡り事態は何人かの国民の死より恐ろしい惨事だったのだろう。

サムスン物産が代表コンソーシアム施工を担当した龍山4区域開発はどの地域よりも早く、暴力的に推進された。 83%を占める地域の賃借人たちは対策もなく追い出されることになり、 生計まで奪われることになった商街賃借人たちが櫓に上がった。 竜山惨事発生から1年をはるかに過ぎた2010年10月、 裁判所は龍山4区域開発事業に手続き上の重大な違反があったとし、 管理処分認可の無効を判決した。 六人が遺体になって地面に埋められ、全てが撤去された後にである。 そうして誤った開発の惨状を重ね重ねはっきり見ろというかのように、 7年以上、龍山4区域の開発は止まり、なんとか駐車場として使われていた。 7年間放置されていた竜山惨事現場は施工者が変わり 「竜山セントラルパーク ヘリントンスクエア」という馴染みもなく曖昧ささえ感じる名前が付けられて新竜山時代を知らせ、 惨事の痕跡を消そうとするかのように高層の住宅商店複合を積みあげている。 しかし私たちの竜山が、彼らだけの竜山で上塗りされるだけではない。 今も繰り返される第2の竜山の絶叫を見るだけでも、 われわれは竜山惨事を2009年1月20日にあった過去の一事件として閉じ込めてはおけない。 赤黒く燃え上がる火炎の強烈なイメージだけで剥製にしてはおけない。 物理的空間の惨事の痕跡が消されたとしても、 刻印された私たちの怒りと記憶は消せない。 今も行われる戦争のような開発暴力と抵抗を消すことはできない。 近付いてくる1月には竜山惨事10周年だ。 私たちが相変らず決して忘れてはいけない理由がここにある。[ワーカーズ48号]

[1] 韓国都市研究所、1998、撤去民が見た撤去

[2] 2008年18代総選挙で、無分別なニュータウン公約で大挙当選した議員を「タウンドリ」と呼んだ。

原文(ワーカーズ/チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2018-11-05 16:19:23 / Last modified on 2018-11-14 09:35:11 Copyright: Default

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