| 韓国:生活の不確実性から来る苦しさ | |
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生活の不確実性から来る苦しさ[ワーカーズ]リレートーク
パク・セヨン(解職教師、全国教職員労働組合) 2018.09.04 10:34
[出処:キム・ハンジュ記者] 私は解職教師だ。解職生活3年目になろうとしている。 2015年に専従になったので、専従生活は4年目になる。 私は階級意識が透徹しているわけでもなく、 資本主義についてよく知っているわけでもなく、 他の労組の活動に対してもよく知らない、 それこそ私が属する支会だけで活動してきた現場組合員だった。 そんな私がなぜ解職教師になったのか。 1999年に発令を受けた翌年、私が通う学校では20人ほどの先生が一度に全教組に加入した。 私もそんな流れに乗って加入をしたが、活動はせずに会費を払うだけの組合員として過ごした。 そのうちに学校の不条理と不合理な慣行が一つずつ目に映るようになった。 校長室に行って初めて校長に問題提起をした日、校長は返事の代りに教室の扉をガッと開き、 授業中の私に対して子供たちの前で怒鳴った。 授業が終わり、休み時間に校長室に向かった。 行動は考えていたほど静かにならなかった。 私もさっき校長がしたように、校長室の扉をガッと開いて大声を出した。 もう一回やったら次には黙っていないと。 その後、再び校長が教室の扉をあけて大声をあげることはなかった。 そうして始まった分会活動では、良い日より悪い日の方が多かった。 しかし2009年以後、私の人生は完全に変わった。 全教組ほどはやく昇進させてくれる組織はないというが、私もやはりそうだった。 2009年の一斉試験で波乱を体験し、闘争力が急上昇したというべきか。 不正に抵抗するという自負心があったが、初めての戦いは本当に大変で難かしかった。 請願審査委、懲戒委を行き来して、心臓が胸の外に飛び出すような怒りと胸の震えで1年を暮らした。 そして自然に支会の執行部になり、支会長になったが、 ある時に支部の専従がいないからと、何度も薦められ、私ができるかと思いながら思わず受諾し、 そうして支部で1年働いていたとき、突然解職になった。 解職教師という言葉は厳酷な時代を代弁する言葉だと考えたが、 『イミョンパククネ』を経て文在寅(ムン・ジェイン)政府でも、 相変らず解職教師とは、本当に情けない。 時々誰かに職業を聞かれれば、「教...」(師)と答えようとしたが言葉を続けられない。 最近のようにアイデンティティの混乱を感じたことはない。 私のアイデンティティの9割を占める教師としてのアイデンティティを失えば、 私の職業は何かということを超えて私は誰なのかと悩むようになる。 その上、これほど切実に学校を懐かしんだことがあるか。 初めは単に休みが懐かしかった。 充電して、必要な研修を受けて、私が学ぶ全てが授業の資料になったその休みが切実に懐かしかった。 休みの峠を越えると、さらに切実に思い出すのは子供たちの笑い声であった。 子供たちが成長する声、子供たちが泣く声、私の言葉と考えに共感を示す多くの目、 表情と行動、教室をいっぱいに満たす活気に満ちた子供たちの声が切実に懐かしい。 子供たちが帰った後、子供たちが残した痕跡と共にやってくる静けさと外の食べ物に飼い慣らされた4年の学校給食さえ懐かしかった。 また学校で戻れば授業ができるのかと思うほど、今の私の人生は学校とはあまりにも遠く離れている感じだ。 われわれは止められない退職したある先輩が、集会でこんな話をした。2年専従をすれば、もどかしく空腹感を覚える病気にかかると。 誰でも2年ほどはすべての情熱で最善を尽くして専従生活ができるが、 続く緊張とストレスに耐え抜くことはできない。 初めての専従生活に適応するのもやさしくはなかったが、 まさかと思った解職が現実になり、 いつかはできると信じていた復職が遠ざかれば (最初から青瓦台には期待もしていなかったが、もう期待することさえ贅沢だったことを悟った) ぎゅっと引き締めた糸一本がぷつんと切れた感じだ。 始まりはあっても、終わりがどこなのかがわからない道の上に立っているようだ。 もうすぐ定年になる委員長が、猛暑の中で命をかけて1か月近くハンストをしたが、青瓦台は無返答だ。 『イミョンパククネ』の時もやろうとしなかった政策を一つ二つと施行しようとするのを見ると、 この政府の本質が細かくあらわれる日も遠くないようだ。 教育と労働に対する正しい政策なく、この政府が成功するのは難しい。 そればかりか教育に対する原則と献身で一貫してきた全教組がなければ教育を語るのは形容矛盾でしかない。 労組をする権利、労働者たちが当然、享受すべき権利を守ろうとしたが、34人が解職された。 解職以後の人生は、地面に足を付けずに暮らしているようだ。 この4年間、わずかな日常の人生がなくなり、これまでの人間関係も切れた。 その他の集まりにも参加できない。 家はただ寝るだけの所になって久しい。 動かないからだを起こして出勤した多くの日々の中に疲労は累積し、からだは各種の症状と兆候で信号を送っているが、 病院に行くのも心の余裕がある時のことで、そのままにしていた症状は病気になって訪ねてくる。 組合の禄を食むことがどんな心情なのか、体験したことがない人はわからない。 限りない責任感、少しでも遊んだり休めばやってくる自己検閲といつもつきあわなければならなかった。 何か物事をしようとすると、日課時間では足りないことに気付くまでに長い時間はかからなかった。 集会や記者会見、各種会議はもちろん、誰の仕事だということもなく足りないところがあれば埋めなければならず、 集中して働ける絶対的な時間そのものが足りない。 それで夜勤をして、週末を返却したり休日や連休にも働くことが多かった。 限られた数の専従で教育部のさまざまな問題を防ぐには力不足だからだ。 振り返れば専従としての多くの経験の中で、私は成長したようだ。 私の人生でこれほど主体的な生活を送ったことはなかったようだ。 支会の活動だけをしていた時には見えなかったことが見えるようになったし、わかるようになった。 全国の多くの組合員が全教組をどれほど愛しているのか、 彼らにとって全教組はどんな組織なのか、 自発的な活動家が如何に多いのか、 彼らがいかなる献身でこの組織を守ってきたのかがわかるようになった。 以前は全教組が必要だから活動していたが、 今では私が全教組に必要な存在になったこともわかるようになった。 資本主義の矛盾が深刻化されて行くように、 この政府の矛盾ももはやどうしようもなくなる時がくるだろう。 そしてわれわれは勝利するだろう。 なぜならわれわれは止まらないからだ。 いや正確には止められない。 われわれは戻るべき所があるからだ。 誰かにこの席を差し出して、わずかな日常を生き延びて、 また教育労働者として子供たちを教えるという成就感に一度にひたってみたい。[ワーカーズ46号] 翻訳/文責:安田(ゆ)
Created byStaff. Created on 2018-09-22 22:30:42 / Last modified on 2018-10-03 00:18:54 Copyright: Default 世界のニュース | 韓国のニュース | 上の階層へ | |