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韓国:8350ウォンが社会主義と出会った時
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8350ウォンが社会主義と出会った時

[ワーカーズ]社会主義探求領域

カンフ(社会運動に関心が多い) 2018.08.13 11:07

[出処:キム・ヨンウク]

#1.『今日だけ生きる』私はなぜみじめなのか

「1年だけ暮らして死ぬのか?」

2年ほど前、勇ましく「独立」を宣言した時、母親は情けなさそうに私にこう言いました。 独立そのものに反対したのではありませんでした。 もう三十歳になる子供といつまで一緒に暮らしたくはないと言ったのです。 問題は、あまりにも純真な私の独立「対策」でした。 節約して貯めに貯めたのに、手中の金は200万ウォンほど。 軍隊を転役した直後なのでまだ収入源はなかったが、私の貯金は大体こうでした。 大学の時に自炊していた丘の上のワンルームは保証金100万ウォン、月家賃30万ウォンだったので、 今持っている200万ウォンなら3か月は頑張れる、その3か月に仕事を見つければ良いと考えました。 当時はとりあえず月100万ウォン程度の雇用を見つけた状態だったので、 独立した時を仮定して、この収入を前提に計算機をたたいてみました。 家賃、食費、交通費、通信費など、生存維持水準で最大限緊縮財政を適用すれば、 1か月に残る金が約10万ウォンでした。 それで月々この10万ウォンを熱心に貯めて少しずつより良い生活をしてみるぞと計算した内訳を母親に「根拠資料」として見せたのです。 その結果、私に返ってきた反応は、上のようでした。 それで考え直してみると、確かにあの生活が前途有望とは思えません。 家主が保証金や家賃を上げたり、医療費のように想定外の支出があったり、 あるいは友人と会って、酒でも一杯飲めばすぐ私の口座はめちゃめちゃになってしまいますから。 そして悟りました。 持続可能な人生を作ることがこれほど窮屈なんだな。 なぜこうして暮らさなければならないのかと思う自己恥辱感が混ざった疑問もわきました。

最近、来年度の最低賃金決定をめぐり、あれこれ考えてみると反発が強いです。 最低賃金委員会が決めた2019年の最低賃金は時給8350ウォン、 所定勤労時間を適用して月給に換算すれば約174万ウォンでしょう。 企業主と経営者は集団で反発していて、不服従宣言まで出しました。 最低賃金が上がり、雇用が減り、経済が萎縮するという脅迫的な展望もしばしば見られます。 5月末に国会が最低賃金算入範囲を拡大し、実際の最低賃金を削減する改悪を強行したのに続いて、 今度は週休手当てまでを最低賃金の算入範囲に入れるとか、 賃金体系改編、最低賃金業種別差別適用と外国人適用排除など、 なんとかして実際の賃金を削る試みが続いています。

ここでは現在の最低賃金をめぐって行われる議論をいちいち扱いません。 ただ質問したいのは、果たしてあの最低賃金が労働者に持続可能な暮らしを保障するのかという問題です。 今年、最低賃金委員会が分析した「非婚単身勤労者実態生計費」は2017年基準月平均193万ウォンでした。 1年前の2016年には約175万ウォンでした。 物価が上がり2018年、2019年には200万ウォンを軽く越えそうです。 つまり、今回決めた2019年度の最低賃金は、2019年基準生計費どころか2017年の生計費にも至りません。 統計庁によれば、韓国の労働者の半分は月240万ウォン未満で暮らし、 その中でも半分は150万ウォンよりも少ない月給で生計をたてます。 保育も、教育も、老後の最低限の補助の他にはそれぞれ自分で何とか解決しなければならないこの国で、 あの金で働いて、結婚して、家を持ち、子供を生んできちんと育てて暮らせと言うのでしょうか? 将来はともかく、今日生きることさえ手にあまる現実。 われわれは必ずこうして暮らさなければならないのでしょうか?

#2.「成長と分配の二分法」に陥ったこと:誰が、どのように、何のために?

まず一つ確かめることがあります。 韓国社会の物質的水準がまだ構成員の人間らしい生活を保障するには足りないということでしょうか? 全く違います。端的な指標を一度見ます。 サムスン、現代自動車、SK、LG、ロッテのような国内30大財閥グループが蓄積した社内留保金は、 2017年末基準で880兆ウォンに達します(財閥社内留保金還収運動本部、『2018年財閥社内留保金現況』)。 そしてこの分析によれば、30大財閥の社内留保金金額のたった7%にあたる約60兆ウォンさえあれば、この国のすべての労働者の最低賃金1万ウォンを直ちに達成できます。 一方、財閥の社内留保金はこの1年間で約75兆ウォン、2年で120兆ウォン増加しました。 最低賃金1万ウォンの実現に必要な60兆ウォンと比較すると途方も無い富が、 30大財閥の手の中に毎年追加で蓄積されているのです。 もちろん時給1万ウォン(月換算209万ウォン)がすぐ人間らしい生活を保障するというのではありません。 先に言及した実態生計費を考慮すれば、月200万ウォンほどでも貯蓄は難しく、 多少ギリギリで暮らさなければならないことはあります。 だが明らかなことは30大財閥が蓄積する天文学的な利益を社会的に活用できれば、 最低賃金1万ウォンは難しくなく、それよりはるかに豊かな人生が実現可能だという点です。

しかし資本主義は皆が豊かになれる物質的可能性を封鎖します。 そしてこれは、いわゆる分配だけの問題ではありません。 さらに賃金を上げたり法人税のように利益の一部を集めて社会的に再分配するのは必要なことですが問題を根本的に解決しません。 たとえばさらに税金を賦課すれば、資本は 「企業活動が萎縮して、雇用が減る」と威嚇します。 あたかも今日「最低賃金を上げたから雇用が減った」と主張しているようにね。 そしてこれは単なる威嚇だけではありません。 利益を蓄積し続けようとすれば、すぐ生産を減らすこともできないので、訳もなく雇用を削減することはできませんが、 一定水準以上に利益が圧迫されていると判断すれば、 資本はいくらでも労働者を解雇したり生産を縮小し、社会全体を危機に追いやることができます。 これは生産自体を資本が統制するから可能なことです。 結局、私たちが新しい分配の原理を実現するためには、 その分配を可能にする生産の権力を資本ではなく、 労働者と社会全体が確保しなければなりません。

社会主義者たちはこれを「生産手段の私的所有廃止と民主的統制」と呼びました。 しばしば私的所有の廃止に対して 「個人の物品まで共有しようということか」という誤解、 あるいは皮肉に接することがありますが、 これは事実ではないばかりか、私もやはり個人のノートパソコンや携帯電話、好きなグループのアルバムCDを他の人と共同で使いたいとは考えません。 むしろ社会主義者はこうした「個人的所有」をさらに豊かに享受するためにも、 生産手段に対する「私的所有」を撤廃しなければならないというのです。 それでこそ、資本が排他的に占有している利益を社会の構成員が共に享受できるからです。

これはまた、いわゆる「現実社会主義」で現れた命令経済とも違います。 たとえ生産手段の私的所有は消えたとしても、労働者が民主的な過程を通じて生産を社会的に統制する権限は、相変らずなかったのです。 その場を巨大な国家機構と官僚層が占めていて、労働者は彼らの意思とは無関係に、 国家官僚と少数経営陣の指示によって特定の生産量に合わせることを強要されました。 社会構成員の必要を充足する生活必需品の生産は不足し、 「労働者階級の自己解放」という社会主義の核心価値は消えたまま、 政治、経済、社会、文化などすべての生活は労働者と遊離した権力の統制下に置かれました。 これに伴い、分配も民主的な決定ではなく権威主義的な命令によってなされるほかはありませんでした。

生産手段を社会的に所有して、労働者が集団的に統制する社会主義社会は、 もはや個別企業の利益を極大化するためには生産しません。 その代わりに社会構成員の必要を充足させるための生産を計画します。 それなら社会構成員の必要はどう判断するのでしょうか? 生産の主体であり消費の当事者でもある労働者が民主的手続きによって、自ら決めます。 1917年のロシア革命で現れた労働者評議会(ソビエト)がその代表的な萌芽的機関といえます。 作業場ごとに作られた評議会は、地域評議会を組織して、さらに全国評議会を構成します。 作業場の労働者は評議会議員を選出し、いくらでもリコールする権利を持ち、 代表者は労働者の平均所得を受け取る以外、どんな特権も与えられません。 もちろん、社会主義社会になったからといっても、自然に乳と蜜が流れる地上の楽園が生まれるのではありません。 知らないことはともかく評議会で労働者たちは生産において、 どんな社会的価値と必要を優先するのかをめぐって激しく論争し、討論しながら、 どたばたするようになるでしょう。 しかし生産者であり消費者である労働者が直接自分たちの豊かさをどう作り、分けるのかを決めることによって、 少なくとも今のように、一方では何の社会的寄与もなくただ蓄積のための蓄積に社会的富が浪費される反面、 他方では一日の暮らしも難しい人々が増える非合理を防げるでしょう。

#3.nパンといえば社会主義だ?

社会主義的生産はこのように社会構成員の必要を根拠としますから、 それ自体が分配と直結しています。 少し前は評議会で労働者が社会的必要と、それにともなう分配方法を決めるようになるだろうと書きました。 これは結局、労働者自身は自らの労働に対してどんな補償原理を作るのかという問題です。 もちろん今すぐ新しい社会の具体的な姿を詳細にモデル化するのは可能ではありません。 それは集団的な意志決定とさまざまな試行錯誤を経て作られ、変化しますから。 ただし、抽象的でもスケッチしてみることはできるでしょう。

まず、社会全体的に生産した富で、消費に分配せず控除する(あるいは残すべき)部分があるでしょう。 労働が困難な状況にある人たちにも人間らしい人生は保障するのが当然ですから。 また、未来のための研究開発や(環境と調和を作り出せる方式の)生産拡大のために必要な部分があるでしょうし、 万一に備えた余裕分も残さなければなりません。 その上、公共部門の拡充のために必要な投資もあるでしょう。 前述の最低賃金の話で(そして私の境遇を愚痴りながら)現在の賃金では生計費でギリギリな現実を見ました。 まさに生存と基礎的な生活に必須の支出だけでも負担が相当です。 社会主義者は住居、交通、通信、保育、教育、医療など、 現代生活で人間らしい暮らしのために必要な公共性を帯びた財貨とサービスを社会の責任の下で提供することを主張します。 これを通じて資本主義では個別に支出する費用を節減できます。

このように控除した後、残った部分はどんな原理で配分するようになるでしょうか? たいてい「資本主義は機会の平等、社会主義は結果の平等」と言います。 私としては両者とも事実と違っているようです。 皆さんはこの資本主義社会で李在鎔(イ・ジェヨン)副会長と平等な機会を享受していますか? 入社して10年で役員になり、あらゆる経営の授業を受けて、 贈与と相続で何もせずに会社の支配権を譲り受ける財閥や企業主一家と本当に同じ機会を保障されていると考えますか?

逆に、社会主義として1/n式の同じ結果を分配しなければならないというのは違うと思います。 もちろん人間らしい生活を享受できる水準の補償は基本的に形成されなくてはいけません。 また深刻な不平等を引き起こすような格差が生まれてもいけません(これは労働者たちが直接分配方式を決めることによって相当部分防止できる問題でしょう)。 ただし、つらくても社会的にぜひ必要だが、人々が敬遠する仕事もあり、 高度な熟練や専門性を要する仕事もあるでしょう。 したがって機会の平等は徹底的に保障するが(例えば、医者になるためには一定の資格要件が必要だが、 その資格要件を備えるための教育と修練医機会は誰にでも保障します)、 社会的価値判断によって補償の差はいくらでも存在できます。 そしてその判断は変わり続けるほかはありません。 構成員の必要と欲求が変わり、それにより生産と分配の割合も変えなければなりませんから。 重要なことは、その社会的価値判断の基準がさらに多くの利益ではなく、 構成員の必要だということで、 判断の主体は資本とエリートではなく労働者たち自分だということです。 社会主義は何か完成されたユートピアでもなく、歴史の終焉でもありません。 多数の直接生産者自身が自分の人生を決める、新しい歴史の開始でしかありません。[ワーカーズ45号]

原文(ワーカーズ/チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2018-08-04 09:28:19 / Last modified on 2018-08-23 16:33:17 Copyright: Default

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