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ヘイト[ワーカーズ]ワーカーズ辞典
チェ・ヒョジョン(政治学者、慶煕大フマニタスカレッジ解雇講師) 2018.08.10 11:38
[出処:キム・ヨンウク] ハイデッガーは恐怖と不安の差を、その対象の有無により区分する。 恐怖を感じる時と不安を感じる時、われわれは似た心理状態に陥るが、 その二つの気分は全く異なる情緒的作動だ。 恐怖は明らかな対象がある。 したがって恐怖の原因を除去すれば恐怖は解消され、平穏が訪れる。 しかし不安は対象を知らない。 原因が分からないので根源的な解消は不可能だ。 心理的平穏は、不安を無視するだけで可能だ。 不安は霧のようなものだ。 森の中で聞こえる野獣の鳴き声は、私たちを恐怖に震えさせるが、 野獣から逃げたりそれを殺すことで恐怖から解放される。 しかし霧は誰が敵で、誰が味方なのかの区分そのものをできなくさせる。 霧を避ける方法は目をとじることだけだ。 例えば軍部独裁政権下で抵抗勢力が感じるのは恐怖だ。 独裁者に対する恐怖であり、銃刀に対する恐怖であり、拉致と拷問と虐殺に対する恐怖だ。 それは怪物に対する恐怖だ。 その恐怖が大きいほど正面から闘うのは難しいが、 結局はその怪物をなくさずには解放されないことを知っているので その対象に対する戦いに立ち上がらなければならない。 だが新自由主義的な統治は不安を通して作動する。 独裁権力と違い、市場権力は市場の秩序に従わない人々を殺さない。 生きようが死のうが放っておくだけだ。 自分で判断して暮らせというのが市場権力の統治術だ。 市場の秩序に反すれば飢え死にするという「不安」は、 いうことを聞かなければ殺されるかもしれないという恐怖よりはるかに強い力で個人を抑圧する。 その上、その抑圧さえも自分自身の選択、自分への命令に変身させる。 市場の論理はすべての日常の中に空気のように入り込み内在化されている。 生活の公式になってしまった市場の公式と戦うのは、 独裁者に正面から闘うよりも難しい。 その上、その戦いの対象はまさに自分自身でもある。 だから不安と戦う人は、自分自身との戦いで疲れていく。 憎しみと嫌悪は、恐怖と不安に対する心理的反応と関係がある。 われわれは抑圧と苦痛の原因になる対象を「憎悪」する。 しかし不安の対象の原因が分からないように、 嫌悪にも説明可能な合理的理由がない。 嫌悪はただ不安なことに対する嫌悪だ。 憎しみの背景にはその憎しみが生じる根源が存在する。 しかし嫌悪の原因はそれぞれ多様な契機を持ち、懸案によって流動的だ。 憎しみが理念と価値の影響を受けるとすれば、嫌悪は好みの影響を受ける。 同じ対象に向けた集団的憎しみには ―それが悪いことでも良いことでも― 共通の価値を発見できるが、 集団的嫌悪ではその嫌悪以外の他の共通的集団価値を発見するのは容易ではない。 「済州難民受け入れ不可請願者」の中には 「キュウリを嫌いな人の会」ほどに、何か他の懸案では対立的な立場を持っていたり、 他の部分で互いを嫌悪することができる人たちが入り乱れている。 憎しみと嫌悪は権力関係と方向にも差がある。 憎しみは下から上へと作動する。 嫌悪はほとんど上から下へと作動する。 つまり嫌悪は権力的な優位にある時にのみ可能な感情であり、優越的視線を反映する。 男性優越主義社会、女性嫌悪が蔓延する社会において、 女性が男性に対して感じるのは恐怖であり、憎しみだ。 男性が女性の見慣れない姿から感じるのは不安であり、嫌悪だ。 だから「女嫌(訳注:ミソジニー)」という概念は成立しても、男嫌という概念は成立しない。 韓国人や中国人が日本を憎悪するのは、過去の植民地の記憶と経験のためだ。 慰安婦のおばあさんの日本に対する感情は憎しみだ。 パレスチナの人々がイスラエル軍隊に持つ感情は憎しみだ。 しかし日本の極右派の在日朝鮮人に対する感情、パレスチナ難民に対するイスラエル国民の感情は嫌悪に近い。 嫌悪は優位の感情なので人間は猫を嫌悪できるが、猫は人間を嫌悪できない。 猫は人間を憎悪するだけだ。 嫌悪は見慣れない対象に対する不安の感情でもある。 恐怖は過去の経験から生じるが、不安は経験されない可能性から生じる。 その点で、恐怖は過去からきて、不安は未来からくるものでもある。 今日の「見慣れない未来」という未来の論理は、社会に不安を注入する効果的統治手段だ。 不安の圧力が臨界に達した時、見慣れない他者的存在が出現すれば、社会的ストレスは極に達し、 その見慣れない存在が弱者であれば、個人はためらう事なく嫌悪を表出する。 見慣れない他者は既存の秩序を威嚇する不安な存在と認識され、 それによって嫌悪の対象になる。 最近の「フェミ嫌悪」や「難民嫌悪」、「朝鮮族怪談」のようなものはすべて同じ脈絡を持つ社会的嫌悪の事例だ。 ゴキブリを嫌うような個人的な嫌悪は問題ではない。 問題はその嫌悪を共通分母として 「ゴキブリのような人間を嫌いな人々」として社会化する時だ。 そのような嫌悪の社会化をわれわれはどうすれば克服できるのだろうか。 アリストテレスは政治学で国家(polis)の目標は正義(dike)の樹立だと話す。 政治は、何が私たちに正義かを問い続けて成立する。 正義は信義秩序とも自然の法則とも区分される、人間が正しいこと正しくないことの基準を作り出し、打ち立てなければならない人間の秩序であり、 人間だけが守らなければならない法だ。 不安を統制できるのは、その正義が樹立されている時だ。 政治共同体が公的に打ち立てる正義に対する信頼がある時にのみ、 憎しみが嫌悪に転換したり、弱者に対し簡単に噴出することもない。 その時、社会は集団的不安状態から抜け出すことができる。 不安は市場の道具だ。 市場は不安を商品化して、利益は不安マーケティングの上で誕生する。 不安と競争のマーケティングは政治共同体の市民を互いに不安の対象にして 常時的な心の内戦状態に追い込む。 治安国家は市民の不安を管理して統治する。 統治の技術は恐怖を不安に転換させて、国家に対して市民が安全と秩序の保障を強力に要請するようにする。 同僚市民全体を内部攻撃者、あるいは潜在的犯罪者と規定する治安国家は、 政治共同体にとっては致命的な害になり、反民主主義的である。 市場国家と治安国家は双生児だ。 労働嫌悪、女性嫌悪、少数者嫌悪など、権力的弱者に対する嫌悪を止められるのは、 権力の格差をますます減らしていくことであり、 そのような嫌悪を「不正なことだから」嫌うのだ。 逆説的に聞こえるが、嫌悪を憎悪することだけがそれを止められる。 さらに正確に言えば、嫌悪を発生させる条件を憎み、それを撤廃するために努力するのだ。 政治的正しさを基準として行為に対する結果論的な断罪のことではない。 重要なことは「嫌わずに愛せ」ではなく、 この嫌悪がどこから生じたかを知り、 私たちが何を憎悪するべきかをしっかり判断することだ。 それでこそ、正しい方式で正しい対象に対して憎悪する力をつけることができ、 抑圧された怒りが弱者に向けられた嫌悪ではなく、 抵抗の形式として表出され、出てくることができる。[ワーカーズ45号] 翻訳/文責:安田(ゆ)
Created byStaff. Created on 2018-08-04 09:28:19 / Last modified on 2018-08-21 08:47:54 Copyright: Default 世界のニュース | 韓国のニュース | 上の階層へ | |