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旧全南道庁、痕跡を消して真実が歪んだ[ワーカーズ人権の場所]国家暴力と抗争の復元…暴力の時代は終わらない
ミョンスク(人権活動家) 2018.06.15 13:47
[出処:キム・ヨンウク] 光州民主化抗争記念日を控えて光州に向かった。 KTXが停車する光州松亭駅は、光州抗争の中心地の錦南路と旧全南道庁がある東区から距離が少しあった。 80年の光州抗争の時に市民軍が最後の抗争を行った旧全南道庁は、アジア文化芸術を体験して交流するための 「国立アジア文化の殿堂」になっていた。 無慈悲な全斗煥(チョン・ドゥファン)政権の虐殺に対抗し、 光州市民が民主主義と人権のために最後まで抵抗した歴史的な場所とは想像するのが難しい。 盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権が光州市を文化都市にすると公約した後、 アジア文化の殿堂の議論が本格化した。 建設の候補地として旧全南道庁建物を指定したことで問題が生じた。 光州民主化団体をはじめとする市民社会の反発で、建物の一部だけを壊してリモデルした。 結局、別館が原形を少し残して2015年11月25日、アジア文化の殿堂が開館した。 本来、旧全南道庁の建物は本庁だけでなく、別館、警察庁、民願室など6棟の建物がある大きな空間だった。 今は道庁の建物のうち最前列の建物を切断し、 中に四角型の骨組みだけが残る3階の空っぽの鉄筋構造物だけがあった。 後ろの建物が見えるように作った建築物だという。 建物を見て鉄筋構造物の横には「5・18最後抗争地! 旧全南道庁」という文字が刻まれていた。 以前は横断幕だったのに、最近文字を刻んだという。 「文化の殿堂駅(1号線)」という駅の名前も光州抗争とは距離が遠く、いぶかしかったのだがまだ幸いだと思う。 それでも文化と歴史がそれぞれ別に遊んでいるような奇怪な感じだった。 なぜ政府は光州民主抗争の歴史的な場所にアジア文化の殿堂を作ったのだろうか。 旧全南道庁は日帝強制占領期間の1930年に建てられたコリント式(ギリシャ伸展の柱様式)の建物で、 建築史的にも意味がある建物なので選んだというが、歴史は薄くなっていた。 痕跡を消して、真実が歪曲された「復元というのは20年、30年経っても、写真を見たり空間で説明を聞いた時、 それを感じられる所でなければなりません。 ところが今は、説明してもそれが何の話なのか分かりません。 80年の5・18当時を想像できない空間になってしまったのです。」 旧全南道庁を共に回った後、光州で人権活動をしてきたチェ・ワンボクの言葉だ。 彼は光州で生まれ育ったが、5・18当時は高校生だった。 全南道庁の反対側の尚武台の近くに自転車に乗って出てきたところ、 空挺部隊に捕まりそうになった記憶は鮮明だという。 錦南路で空挺部隊が銃を背中に担ぎ、棒を持って道路を封鎖して、大きな声をあげて道路を行き来しているのを見た。 夜には銃声が立ち込めた。 天文学者が夢だった彼の人生が変わった。 軍人が市民に銃口を向ける世の中で星を見るのは贅沢だと思った。 市民は弾丸を防ぐため、窓にふとんを重ねて当てた。 ふとんの綿に弾丸がからまり、人が銃に撃たれるのを避けられるといううわさに、 家ごとに窓にふとんをかけた。 一種の民間療法だった。 武装した国家暴力をせいぜいふとんで防ぐ民間療法とは。 みじめだった。 彼は旧全南道庁の建物が復元されれば人々が国家暴力の実状を体で感じられるのではないかと言った。 そうすれば、光州抗争当時に光州にいた人たちと、いかなつた人たちの間隙を越えられるといった。 彼は今、旧道庁の建物はミニチュアもなく、当時の雰囲気は想像するのが難しいという。 「道庁がアジア文化の殿堂にリモデルする前には、廊下に立つと現場感が生々しかった。 今のように切られた廊下ではなく長い廊下だから。 窓の間から市民軍が外を見ていただろう。 6棟もの大きな建物に、残り少ない市民軍が感じた孤立感と不安感、 その気持ちを想像できるだろう。 しかし今ではあまりにも清潔に整理されて... その現場感を言葉で説明して理解できるだろうか。」 それで旧全南道庁の中には、2016年9月10日から全南道庁の復元を要求して光州の市民社会が座り込みをしていた。 600日を越えた。 五月お母さん会の人々と会って話を聞いた。 五月お母さん会は、光州抗争当時犠牲者のお母さんや妻、兄弟姉妹の会だ。 チェ・ヘソン事務局長はお母さんたちが座り込む理由を 「歴史の現場を生かして、後代にこのような不幸なことをなくし、 死んで子供に会ったときにお前たちが守ろうとしたことを残してきたと堂々と話し、恨も解くために」と言う。 彼はまだ光州抗争の真実があまり明らかになっていない上に、 これを歪曲して蔑視する人もいて、真実が水面下に完全に沈んでしまったという。 保守政権の期間中、真実を語る人々を捕まえて、偽りが真実の代わりになった。 光州抗争に対する北朝鮮軍介入説を主張した池萬元(チ・マノン)や犠牲者を嘲弄して市民を暴徒で描写したイルベの言葉が事実であるかのようにさまよっている。 1月に新しく発表された米国の中央情報局CIAの秘密情報文書にも、 北朝鮮軍の介入はないと書かれていたが、 フェイク・ニュースは保守言論を通じて広がっている。 痕跡をなくせば記憶も歪曲されるものだ。 よほどでなければ虐殺者の全斗煥が5・18回顧録を発行するだろうか。 池萬元やイルベを名誉毀損で告訴して裁判をしているが、 嘲弄した彼らの便宜を見てやるだけの裁判所のおかげで お母さんたちは釜山へ、ソウルへと忙しく動いた。 イムグンダンお母さんは5・18の初めての犠牲者である息子の死について話した。 墓地番号1-1キム・ギョンチョル。 息子は子供が生まれて100日経った頃、友人と遊びにでかけると言ったが、 遺体になって帰ってきた。 とても見られなかった。息子の頭は真っ二つになって目が飛び出していた。 どのようにして死んだのかは最近「死を越えて、時代の闇を越えて」がまた発行されて、具体的に知った。 食堂で食事をして出たとき、空挺部隊の棒で殴られて倒れ、 統合病院に運ばれて死んだとお母さんは涙を流した。 イムグンダンお母さんは二十六で死んだ孫を自分で育てた。 最近真実がさらに明らかになり、遺族のトラウマが激しくなっているが、 真実が明らかになって歴史として残されれば、死んでも気楽に息子と会えるといった。
[出処:キム・ヨンウク] ヘリコプター射撃があったチョニルビルと望月洞墓地光州抗争38周年だが、まだ真相究明は充分ではない。 責任者が処罰されていないからだ。 ヘリコプター射撃などの新しい真実が明らかになっているが、 発砲命令体系や命令者・ヘリコプター射撃・戦闘機出撃待機、 民間人虐殺究明および闇埋蔵発掘などが残っている。 最近では女子高生集団性暴行や、デモに参加した全南大学生への性暴行の証言まで出てきている。 明るい場所に引き出さなければならない埋められた痛みと隠蔽された5・18国家暴力は、 まだ多い。 われわれは5・18の当時、市民が遺体を確認できるように棺桶をおいた旧全南道庁建物の反対側の尚武台ビルに向かった。 ただ平凡な体育館だが、遺体が置かれた場所だからか、寒気がした。 真相究明どころか名誉も回復されない現実のためかもしれなかった。 すぐに建物を出て、後にあるチョニルビルに行った。 最近、ヘリコプターからの銃撃の事実が明らかになったところだ。 90年代までは肉眼でも見える程、銃弾の跡が鮮明だったというが、 今は建物の中柱に濃い銃痕が見られる。 5月18日から27日までの負傷者の規模は3000人を越える。 われわれは5・18犠牲者が埋められた、二つの墓地がある望月洞に行った。 当時の不明者を含む死亡者は350人にのぼる。 望月洞は北区にあり、車でしばらく走った。 80年当時、公園墓地に埋められて1997年に神妙駅に移葬された。 現在は「望月洞民族・民主烈士墓地」になり、2015年の民衆総決起の時は放水銃で倒れたペク・ナムギ農民とキム・ナムジュ詩人の墓もあった。 その近くの神妙駅には「518国立墓地」があった。 入口から対称形の大きな塔は、国家権力の臭いを漂わせた。 国家暴力で犠牲になった墓地に国家権力の臭いだなんて、苦々しかった。 暴力の時代は終わらない西区にある光州広域市庁で、地方政府と正面から闘った清掃労働者と会った。 公共運輸労組光州全南支部光州市庁公務職支会副支会長のイ・メスンは、 2007年に解雇に対抗して同僚と一緒にした闘争の話を聞かせてくれた。
[出処:キム・ヨンウク] 新庁舎に引っ越してきて3年後の2007年、勤労時間も守らなかった市庁は突然契約満了だと言って集団解雇通知をした。 3月7日の晩、朴光泰(パク・クァンテ)市長との面談を要求して3階の廊下に24人の女性組合員が座り込んだ。 しかし市長には会えず、退勤した職員がまた出てきて組合員を引き出そうとした。 瞬間、不安になって、同僚と上衣を脱いで下着だけでデモをした。 まさか女性の私たちのからだに手を付けるかと思ったが錯覚だった。 彼らにとって、労働者の抵抗を簡単に押さえ付けるノウハウがあった。 職員たちは一人ずつふとんをかけて2階にあるセミナー室(現在特別補佐官室)に連れて行った。 組合員を引き出す前、廊下にかけられた絵が損傷することをおそれてまず絵を取り外した。 こわごわと絵を取り外した時とは違っていた。 絵よりも下に扱われる人.... 雪が降る翌朝、彼女たちは市庁の建物の外に追い出された。 残念なことに3月8日、国際女性デーだった。 7歩1拝で望月洞墓地まで行進するなど、長い闘争の末に2009年、彼女は本来働いた市庁に復職した。 だが管理者たちは労組活動をするイ・メスンをアカだと言って除け者にした。 軍部独裁に抵抗した市民をアカと言って虐殺した政権と似ていた。 彼女は光州虐殺は、私の場合とは較べものにならないと手で遮りながら話した。 「とても犠牲が多くて残念だが、5・18の時は光州が一つになって戦いました。 しかしわれわれは周辺の人に何のために戦うのかと、 他の職場に行けばどうかという声をたくさん聞きました。」
[出処:キム・ヨンウク] ハッと気が付いた。 私たちが国家暴力を認識できないのは、様相が違うからだけではないんだ。 私たちが、苦しむ者、戦う者の気持ちを理解できない時、 権力の暴力は、個人が避けようとすれば避けられると思われ、 国家はそれを慣行のように行うということを。 まだ暴力の時代は終わらない。[ワーカーズ43号] 翻訳/文責:安田(ゆ)
Created byStaff. Created on 2018-07-17 20:24:16 / Last modified on 2018-07-17 20:24:18 Copyright: Default 世界のニュース | 韓国のニュース | 上の階層へ | |