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1990年、拘置所にジンスクが姉さんがきた

[寄稿]キム・ジンスクの復職、350台の希望車

李美卿(イ・ミギョン)(1991年キム・ジンスク監獄同期) 2020.12.15 19:06

ジンスクが姉さんがきた。

私が5507番で、死刑囚のような赤い名札を付け、 国家保安法事犯で0.7坪の独房に隔離されて特別保護を受けていた1990年、 チュレ拘置所にジンスクが姉さんがきた。

私は1階右の突き当りの部屋だったが、 姉さんは2階左の突き当りの部屋が配分された。 姉さんが配分された部屋は8人が一緒に使う合部屋だった。 その部屋に赤い名札をつけた5010番死刑囚がいたが、 死刑が確定したという理由で24時間手錠をかけられていた。

姉さんは拘置所に入ってくるとすぐ、5010番の手錠を解けと強く抗議して、 運動も面会も弁護士の接見もできない懲罰房に手足を縛られたまま投げ込まれた。 文字通り投げ込まれた。 ずいぶん殴られたりもした。 その時、学部出身者は誰も殴られなかったが、 労働者だからひどくやられたのかと考えた。 今考えると姉さんは本当に気性が生一本で強く戦った。 刑務官が怖くなるほど恐ろしい目をしていたので、耐えられずに殴ったのだろう。 その後ももたくさん殴られ、何度も懲罰房に入った。 どこに行っても人が不当な扱いを受けることに耐えられない。 そして必ず改善させる。

拘置所側と厳しく戦っても、仲間たちには、また服役者たちには、限りなく暖かかった。 ある日、拘置所の掃除人が姉さんが送った手紙を持ってきたくれた。 ボールペンも紙も部屋に持ち込めないそこで、姉さんはどうやって私に手紙を書いたのだろうか? 監房から監房へと、こんなに長い文を受け取って読んだ人は多分、私が初めてだっただろう。 牛乳パックの内側のアルミホイルに几帳面にぎっしり書かれた手紙を姉さんはよく送ってきた。 その手紙を読みながら、私はいつもこう考えた。 私が読んだどの文より、とても良いと。 良い時期に会えて文学を業にしていれば、立派な作家になっただろうと。 このアルミホイルの手紙は家の大掃除のときに家族の誰かが捨てた。 イ・ジュンソプ アルミホイルの絵よりさらに大事な芸術品を。

「美景! 良く眠れ!」

晩の点呼を終えて、ちょっと寂しい夕方。 はきはきした声がいつからか全ての宿舎に響く。 「そうだ、私は5507番ではなく美景だ」。 美景、おやすみ、姉さんが声を高める時、 そこにいた人々も皆、心の底からなつかしい人の名前を呼んだだろう。 あるいは自分の名前を…

アルミホイル手紙の話をすると、その手紙を伝えてくれた掃除人を思い出す。 名前さえ出せば誰でも知っている会長さんと一緒に入ってきたが、 囚人服を着てもとても可愛い人だった。 その掃除人が出監後に姉さんが働く団体事務室に訪ねてきたという。 スーツ姿のボディーガード何人かと。 姉さんがすることを金銭で支援してあげたいと。 姉さんが有難いが大丈夫だというと、 そうだと思っていたと言ってとても大きなダイヤの指輪を緊急な時に使えと言って渡したという。 姉さんはそれも返したというが、その可愛い掃除人の姉さんは、 ジンスク姉さんにいつか一度はしっかり助けたいと名刺を残して事務室を出て行ったという。 私はその可愛い掃除人の心にジンスク姉さんが何を投げたのか分かる。 いつも一緒にいる人の面倒を見る暖かい人、 それもよどみなく、自分の身一つ守ろうとしないまともな人を見破ったのだ。

長い歳月、姉さんと会うことができなかった。 2011年の85号クレーン高空籠城309日、 その期間にも私はやっと一度だれ姉さんのところに訪ねて行った。 私の人生が気に入らず、とても重い時間を送っていた時だった。

[出処:労働と世界]

「姉さんに恥ずかしくて訪ねてくるのが大変でした。」

「何を言う? お前が幸せなら良い。幸せに暮らせ!」

姉さんが坑癌治療でして人と会わなかった2019年。 時々会ってきた泉川を共に歩いて病院にも一緒に行った。 ガンに対してそれなりに勉強もした。 坑癌治療をするには姉さんが釜山を出なければならないと考えた。 多くのことを忘れ、もう良い空気を吸って楽に暮せば坑癌治療に勝てると考えた。 行く所も調べてみた。 ヨンギョン姉さんはカプサを、チョンヒャン姉さんは沃天がいい、そうしなければと言った。 姉さんに何度も話をしたが、少しうなずくようだがいつも結論は「釜山を離れない」だった。 釜山を離れれば気持ちが楽ではないという。

「子どもがいるわけでもなく、死んだ恋人がいるわけでもないのに、 なぜ釜山を離れないのですか?」 何度も言いたかったが耐えた。 温泉川を一緒に歩いても、姉さんはいつも大邱嶺南大病院のパク・ムンジン委員長の心配、 馬事会で自殺したムン・ジュンウォン騎手や騎手家族の心配、 高空座り込みをしているサムスン労働者の心配、いつも心配だ。

「いつもあんなに心配していたら、体調が良くなるわけがないでしょ?」 また心の中だけでつぶやく。

検索もできない5年を越えた携帯電話を持って、 釜山九浦で嶺南大病院までまた一人で歩くという。 風雨が吹付けて屋上のテントとパク・ムンジン委員長が一緒に飛んで行くのではないかと思って心配で寝られない。 大邱まで歩きながら、姉さんはとても明るくなった。 やはり姉さんは人々と連帯する時、一番幸せに見える。 そのつらいい体で偉業を終えたのだから、ちょっと休もうと言うと、姉さんがこう言う。

「もう私の復職闘争をしなければならない。 いつも最後に先延ばししてきた私の復職、一度も忘れなかった私の復職闘争を!」

姉さんの復職だけ除いて団体交渉が終わった時、 姉さんの復職だけがいつもできなかった時、 他の仲間の復職を明るく笑いながら祝って家に戻った夜、 一人でどうだったのだろうか? その厳しい夜をどうして和らげたのだろうか?

乳ガンが再発して手術してから一週間も経たないのに、 もう別のガンの手術を医師と相談しなければならない。 色々な日程を考え合わせると、手術はまたはるかに延ばされるかも知れない。

姉さんは必ず復職しなければならない。 韓進重工業に一分一秒通っても、韓進労働者として足を踏み入れなければならない。 その歩みは故パク・チャンス、故キム・ジュイク、故クァク・ジェギュ、 故チェ・ガンソ烈士と共に踏み出す歩みだからだ。 その歩みに一緒にするために、12月19日、 また350台の希望車(希望に満ちた車)が釜山にくるという。 全く同じ気持ちだろう。

12/19釜山韓進重工業へ!

全国350台キム・ジンスク復職ドライブスルー希望車参加申請リンク

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2020-12-31 17:20:23 / Last modified on 2020-12-31 23:02:50 Copyright: Default

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