韓国:コルトコルテック・ギター労働者1000人連帯宣言に連帯を | |||||||
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お前のようなコンドリに何が分かる[寄稿]コルトコルテック・ギター労働者1000人連帯宣言に連帯してください
ソン・ギョンドン(詩人) 2015.11.12 17:43
1991年の冬だったという。 目隠しを取って見ると地下の小部屋、拷問室だった。 映画に出てくるような場所。 小さな法廷のように片方に壇があって、少し高くなっているそこに一人の男が判官のように座っていた。 話だけで聞いていた安全企画部(現国家情報院)の安家だった。 合法的な拘束令状のようなものを要求するのは笑い話だった。 彼はそこで5日間拷問を受けた。 眠らせず棒で殴打を続けるのは基本、裸にして性器を殴る恥辱も与えた。 当面の拷問よりも恐ろしいのは、もうすぐ実際のことになって近付いてくるかもしれない恐ろしい脅迫だった。 「お前はここから生きて出て行けると思うか?
お前のようなやつは誰も知らないうちにこっそり冷凍車にのせてあの海に落としてしまえば終わりだ。
軍部隊の裏山に埋めてしまってもいい…。
娘の名前はミンジュで、1984年4月15日生。
4月15日は金日成の誕生日だが、それに合わせて産んだのか…。
お前の妻を連れて来てもいいんだ。」 彼らは労働組合の日常活動内容まで、すべてを知っていた。 酒とギョーザでなだめる組も別にあった。 だが彼は本当に言うことがなかった。 労働組合の教育宣伝部長を担当していたのだが、彼らが知りたがる組織活動に加担したこともなく、聞いたこともなかった。 いっそ何でも知っていることがあれば良いとも思った。 はやく彼らが願うものを与えて、その部屋から出たかった。 虚偽の事実でも、印鑑を押して認めろと言われれば頑張ることができたのか自信がなかった。 「ジェームズ・リー」という当時、労働運動内で悪質だとして有名だった労組破壊専門家が自分の会社労務担当にきた時、 ただではおかないと角材で暴れた事を後悔もした。 彼らはそんな彼を鋭意注視していて、ちょうどその工場に自分たちが探していた活動家がいるという機密情報を入手した時、当然そのことだろうと決めつけた。 それだけなのが本当に幸いだった。 彼は5日で解放される代わりに、そこでの事を絶対に口外しないという覚書を書かなければならなかった。 彼らは見ているといった。 それから2年ほどたったある日、富平駅前の集会場、道の反対側で自分を見ている男に会った。 解放された彼は、自分が行ってきたところを話せなかった。 同僚が見ると「理解できない」、「おかしな人」だった。 とても恐ろしかった。 二度とあそこに連れて行かれたくなかった。 常に尾行されているという考え、盗聴されているという考えで、 気楽に人々と会うこともできず、電話一本するにもいつも迷った。 他人に話すことができず「大馬鹿こと」を何年もしなければならなかった。 「もう話せる。隠しながら数人の親しい人以外には話せなかった。」 もうひとつの拷問の歳月仁川コルト楽器労組支会長バン・ジョンウンの話だ。 ▲金武星処罰要求法律家団体記者会見。 多くのマスコミが金武星(キム・ムソン)氏の話を引用して報道したが、今日まで誰も謝罪も訂正報道はしていない。 コルトコルテック楽器は今日も「インドネシアのスラバヤと中国の大連に所在する最先端生産工場で、年間100万台に迫るギターを生産輸出している(コルト楽器ホームページ企業紹介)」。 2012年12月には、韓国知識経済部が選定する世界の一流商品としてコルト・ギターが選ばれた。 株式上場もしていない1人支配会社のコルト楽器の朴栄浩(パク・ヨンホ)社長は 「噂になった本当の金持ち」で、韓国長者番付120位に選ばれた。 解雇の根拠として使った「経営上の危機」は、エレキギターを生産していた仁川のコルトにも、アコースティックギターを生産していた大田のコルテックにもなかった。 朴栄浩社長が整理解雇をしようとしていた時点には、大田のコルテック工場には労働組合さえなかった。 仁川のコルト楽器では当時、労組執行部が素直に希望退職書に印鑑を押してくれた。 その不当性を受け入れられなかった50余人の解雇労働者たちが10年間、戦い続けている。 朴栄浩社長はさらに多くの利益のために、工場を海外に引き出して国内の労働者を不当解雇し、工場を偽装廃業した韓国の代表的な食い逃げ企業家でしかない。 ところが突然、執権与党の代表がコルトコルテックは強硬労組のために潰れたという。 だから労働組合の弾圧が必要で、そのための労働法改悪が必要だという。 我慢できなかった。 これまで「真実」を明らかにするために、コルト・コルテックギターを作っていた労働者はあらゆることをした。 幸い命は助かったが焼身した組合員もいた。 国会がよく見える楊花大橋の送電鉄塔で高空ハンストもした。 抗議するためソウル市登村洞の本社に入って1時間も経たないうちに警察の特殊部隊に全員引き出されることもあった。 世界の音楽家と楽器の販売商に対し、朴栄浩社長の蛮行を知らせようと、 米国、ドイツ、日本など合計6回の海外遠征闘争にも行った。 作り方だけは知っていても、弾くことになるとは思わなかったギターを一足遅れて学び、 「コルベン」というバンドを作って歩き回ったりもする。 文化芸術家の参加でドキュメンタリー映画も2本が作られ、演劇にも作られた。 空の工場をギャラリーにしようとした美術家もいた。 弘大前のクラブ「パン」では7年間ほど毎月最終水曜に「コルトコルテック・ギターを作る労働者のためのコンサート」を開いてくれている。 暮らしが苦しく、ある時はタワシを作って売ったり、何年も味噌やコチュジャンを作って売り、なんとか10数年頑張ってきた。 涙とともに離れていった「同僚」がいて、「家族」がいた。 ▲汝矣島コルトコルテックのハンスト場で音楽家との連帯と基金用意バザーが開かれている。 これまでしてきた民事、刑事、行政訴訟を入れると法律的な攻防だけで数十件になる。 内容的には負けられない裁判だったが、保守的な裁判所は資本の側に立つことが多かった。 2012年2月23日、大法院では同じ件なのにコルトでは不当解雇だが、コルテックでは不当解雇だったという高裁判決をひっくり返し、また事件を高裁に破棄差し戻した。 破棄差戻審では裁判所が指定した会計法人でも経営上の危機がなかったということを確認したが、 高裁に続いて開かれた大法院の再上告審では「未来の経営上の危機」についても整理解雇が正当だという「とんでもない」判決を出した。 この判例は、コルテックを超えて2000万労働者全体に今後適用されることになるので危険千万なものだった。 コルトでは大法院の不当解雇判決が出たのに復職どころか大法院の判決から3か月も経たないうちに、 国内に工場がないという理由で再解雇し、また至難な裁判が続いている。 長い間の法律紛争で労働者たちの血が枯れ、金を止めることも、この社会が労働者に加える代表的な弾圧の一環だ。 やむを得ず「法」に頼ってもみるが、結局「法」は持てる者たちのための堅実な城壁でしかない。 どうすれば私たちも人間になれるのか「労働部でも解決しようと言い、 仁川地域の先輩もまずコルトぐらい先に整理しろという圧迫が強かった。 大法院の判決が出て、コルト解雇者も年齢も年齢なので整理しようともしたし、 実際、苦しい時が多かった。 しかし『良心』のためにそれはできなかった。 コルトを整理したらコルテックの仲間たちの戦いがさらに難しくなるという心配もあった。 朴栄浩社長が小細工を働かせているのに、法人を分割したからであって一つの工場じゃないか。 一緒に戦ってきたのだから、整理するときも一緒にしなくちゃ。 それが労働者たちの義理だよ。 また私たちがただ、わずかな金で終わらせたとしましょう。 朴栄浩のような悪い社長の態度がすべて正常な事になってしまうわけだ。 他の労働者たちにその被害が及ぶ。」 牛のように馬鹿正直なバン・ジョンウンは、闘争する間中、あちこちであらゆる虐待とのけもの扱いを受けた。 闘争が長引き、イジメのような位置に立つこともあった。 意地はあっても何の悪いところもない彼は、いつも軽く見られて攻撃される側だった。 しかし彼は誰がなんと言っても長い間、黙黙と「良心」と「義理」を守ってきた。 また「バカじゃないか」という声を聞きながらも、コルトコルテック共同行動の枠組みを破らなかった。 牛のようにこつこつと自分の闘争を超え、「連帯」という仕事を怠らなかった。 訥々として話もうまくない人だったが、誰と会ってもコルトコルテック労働者たちの闘争の「真実」を伝えようと努力した。 そんな彼が少しずつ痩せていく。 五十八で始めたハンストで、途中で何があるかもわからず、 ハンストの後遺症がどうなるかも大言壮語できない。 暗にいいかげんやめたらどうかと言えば、少年のように即座に目をきらめかせて「大丈夫、私は頑張る」と言う。 涙が出る。 死を覚悟しても闘争できるのなら幸せな人たちの言葉が骨身にしみる。 ▲漫画人が描いたバン・ジョンウン支会長. 家族には少し長い修練会に行くと言って出てきたという。 娘と息子が高学に通い、大学に通う間、一回も授業料を出してやれなかった親父の心情が分かるのかと言う。 自分が解雇された後、ずっと介護人として働いて生計を支えてきた妻に申し訳ないという。 息子も娘も非正規職として働いているという。 物質的なことには何もしてやれなかったが、ぜひともこの戦いに勝って、彼らに恥ずかしくない夫、お父さんになりたいという。 いつまでも苦しみながら戦う人々の場所で、頭数一つになりたいという。 初めて会った7年前から今まで、いつもカバンに入れて歩くコルトコルテックの資料を見せながら、自分たちの戦いがこれから戦う人々のための貴重な資料になればうれしいという。 歴史教科書を国定化するという朴槿恵政権、労働法を根こそぎ改悪しようとする朴槿恵政権を見て、 ときどき1991年の冬に連れて行かれた安全企画部の地下の安家を思い出すという。 この世を全てそんな安家にしようとする恐ろしい試みだという。 防がなければいけないと、自分たちのセヌリ党舎前の闘争がそんな社会的な闘争に一つの突破口にでもなればうれしいという。 そんな優しいバン・ジョンウンを見て、私は時々涙が出る。 そうして4人で守るみすぼらしい座込場が私に涙を流させる。 今日で不当に工場から追い出されて3207日目になるという。 翻訳/文責:安田(ゆ)
Created byStaff. Created on 2015-11-13 23:00:30 / Last modified on 2015-11-13 23:00:31 Copyright: Default 世界のニュース | 韓国のニュース | 上の階層へ |