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セウォル号のリボンをつけたベトナム虐殺被害者、軍靴の派越老人

ベトナム虐殺被害者が大邱を訪問...枯れ葉剤戦友会が抗議

パク・チュンヨプ記者 2015.04.10 16:13

#ウンウイェン・タン・ラン(当時15歳): 午前4時、爆撃が始まった。 慌てて防空壕に入った。 7時から銃声が聞こえた。 ますます近づいてきた。 人々のうめき声が聞こえた。 お母さんは祈った。 16時、虎のマークを付けた軍人が出てこいと手まねをした。 お母さんに銃口を突きつけた。 老人や子供たちも引き出した。 丸く集まって座らせた。 頭を上げさせないようにした。 韓国軍が大声を上げた。 手榴弾が飛んできた。 腕と足が切れ、はらわたが、脳髄が流れた。 私のかかとに手榴弾が落ちた。 気絶し、目覚めた。 村の人々が妹を埋めた。 お母さんも埋めた。 お母さんの祈祷はとどかなかった。 私はまた気を失った。 また目を覚ますと、この世に私一人になっていた。

#ウンウイェン・ティタン(当時8歳): 兄さんが先に出て行った。 銃で撃たれた。 五歳の弟は水際まで走った。 叔母は銃に撃たれなかった。 軍人たちが家に火を付けた。 叔母が驚いて立ち上がった。 刃物でめった切りにされた。 私は台所まで走った。 腹を銃で撃たれたのに痛くはなかった。 弟は息をするたびに血を吐いた。 抱けなかった。 助けるにはお母さんを探さなければならなかった。 突然喉が渇いた。 水を飲もうと頭を下げるとはらわたが出てきた。 押し込んでお母さんをまた探した。 また見つからなかった。

ベトナム戦争終戦40周年をむかえ、 民間人虐殺被害者たちが4月9日に大邱を訪問した。 ウンウイェン・ティタン(NGUYEN THI THANH、57)氏と ウンウイェン・タン・ラン(NGUYEN TAN LAN、64)氏だ。

▲左からウンウイェン・ティタン、フイン・ノクボン、ウンウイェン・タン・ラン氏

ウンウイェン・ティタン氏は、フォンニィ・フォンニャット虐殺の生存者だ。 1968年に海兵隊青龍部隊は村住民70余人を虐殺した。 ウンウイェン・ティタン氏は平和博物館(代表イ・ヘドン)の招きで韓国を訪問することになり、期待で膨らんでいた。 永い歳月が過ぎたので、韓国にくれば参戦軍人がきて手を握ってくれるかもしれない。 申し訳ないと言うかもしれない。

だが参戦軍人は、また軍服と軍靴で彼らを出迎えた。 アカの声を聞いた。 胸に長い間埋めておいた痛みがまた浮び上がった。

ウンウイェン・タン・ラン氏はタイビンサのビンアン村虐殺生存者だ。 1966年、海兵隊猛虎部隊が通った3日間で、近隣の15の村で民間人1004人が死亡した。

「私の心臓から申し上げます。 この話は体で体験した事実です。 歴史の真実を聞かせるためで、怨恨や憎しみのためではありません。 私は民間人虐殺の生存者です。 ありがとうございます」。 この日の夜に開かれた懇談会で彼が語った言葉だ。 ウンウイェン・タン・ラン氏は派越軍人を許した。 彼とウンウイェン・ティタン氏は胸にセウォル号の追慕リボンを付けた。

彼らと共に懇談会に参加した後、フン・オク・バン(HUYNH NGOC VAN)ホーチミン市戦争証跡博物館長は、 「ベトナム戦争で3百万人が命を失った。 このうち2百万人は民間人だった。 2百万の負傷者が発生し、数知れない人々が枯れ葉剤で被害を受けた。 30万人以上の不明者がいる。 今も当時投下された不発弾で命を失う人がいる」とし 「戦争の惨状を知らせ、教訓を得ようということだ。 憎しみを持っているのではない。 不当な戦争自体が犯罪だ。 二度と起きないことを望む」と話した。

枯れ葉剤戦友会100余人が「講義主題変更」を要求
物理的な衝突はなく

一方、枯れ葉剤戦友会大邱支部と派越老人100余人は、 懇談会の前から慶北大学校に集まった。 彼らは「講義主題変更」と「取材中団」を要求して記者会見を行い、抗議した。

老人たちはどんな心情でデモに出てきて熱を上げたのだろうか。 ここに出てきたパク某(71)氏は猛虎部隊出身だ。 朴氏は「23歳で強制的に派兵に行った。 私も行きたくなかった。 だがベトナムの共産化を防がなければならなかった」とし 「派兵で末梢神経に疾患ができた。 ベトナム戦参戦で大韓民国が生き返った。 私たちがいなければ暮らせなかった。 韓国は尊重してくれない。 だが尊重してもらうためにこうしているのではない」と話した。

名前を明らかにしないA(70)氏は 「6.25は戦線があって、衝突して戦えばそれだけだったが、ベトナム戦では戦線がなかった。 私が死にたくなければ銃を撃たなければならなかった。 ベトナムの人を見ると私もうれしくはない。 だが死んだ人は全部ベトコンだ」とし 「枯れ葉剤をまいたのは米国だが、理解する。 人を死なせないように除草用を撒いた。 私たちが良民虐殺したと言うので、ここに集まった。 当時八歳(ウンウイェン・ティタン氏を指す)に何が分かるか」と主張した。

キャンパスで軍服姿の老人がデモをする珍しい風景に、慶北大の学生と教授は眉をひそめた。 政治外交学科のチェ・ジャンス教授は 「彼らも被害者だという側面はあるが、米国と政府の誤りを認めない。 これはそのまま自己否定になるからだ」と話した。

枯れ葉剤戦友会は7時30分頃、 自主的に解散した。

付記
パク・チュンヨプ記者はニュースミンの記者です。この記事はニュースミンにも掲載されます。チャムセサンは筆者が直接書いた文に限り同時掲載を許容します。

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2015-04-11 21:42:46 / Last modified on 2015-04-11 21:42:46 Copyright: Default

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