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コルトコルテック労働者と『夢の工場』[寄稿]メイド・イン『夢の工場』
ユン・ジヨン(詩人、東義大国文科教授) 2010.10.20 14:08
シャツを買って来た。価格表に『メイドイン・ベトナム』と記されていた。 『メイドイン・チャイナ』から今はベトナムなのかと考えた。新自由主義時代 とか目新しいこともない。 ところが突然思い付いた考え。どんなに目が大きくて明るい微笑のベトナム人 がこの濃い紫のシャツを作ったのだろうかと思った。彼は自分が作った服が韓 国に行くことを知っていたのだろうか、韓国の大型スーパーに陳列されて私の ような人の手に入るだろうと想像ぐらいはしたのだろうか、そんなことを考え た。彼らはどんな空間で、いくらぐらい受け取って働くのか、また彼らが受け 取る決して十分ではない報酬は、誰のためにどう使われるのか、とも思った。 そして秋のヤグルマギクのような色のこのシャツが気に入ったと話したいと思っ た。恐らくこの前見たドキュメンタリー映画「夢の工場」のためのようだ。そ して、そのドキュメンタリー映画の主人公のコルト-コルテック・ギターを作る 労働者のためのようだ。 ギター? そう。ギターだ。若い時に「長い髪の少女」のコードを聞いて弾いた、 「アルハンブラ宮殿」の旋律で遠い異国に対するあこがれを育てた、芝生に輪 になって座り、力強い前奏に合わせて悲壮な声で「真の労働者」を歌った、あ るいはイングヴェイ・マルムスティーンの神懸かりの演奏で喜悦を感じた、そ してカート・コバーンの憂鬱で暗いギターに虚無を味わった、またそして今も どこかで響いているギターの話だ。 そして、もう一つのギターがある。ソン・ギョンドン詩人が「夢の工場のため に」という詩でいち早く詠じたように、「自分の指紋を/消してしまうギターの 胴ように/残金一つなく突き進ませる」「自分の肺をギターの胴のように/絶え ずに穴をあけ、小さな呼吸でも鳴るように」といいながら自らギターになって しまったギターを作るコルトコルテック労働者がまさにそのギターだ。
▲映画「夢の工場」の一場面
映画は『夢の工場』という映画の題名にふさわしく、夢に関するインタビュー で始まる。中年を超えたおばさん、おじさんがカメラを見て慎ましく話す。若 い時から機械を触るのが好きだった、TVに出る仕事をしたかった、今は夢が何 だったのか覚えてもいない等等。コルト・コルテックでギターを作る労働者の インタビューだ。いや、正確に言えば『作っていた労働者』といわなければな らないだろうか。 大統領や科学者になりたいという、これまでの世代の大層な夢とも違い、芸能 人やCEOになるという最近の世代の華麗な夢とも違う。素朴な夢、しかしある者 は、そんなことが夢なのかという夢。そんな思いは彼らの現在の夢が何かを聞 けば、さらに明らかになる。映画の最後に提示される彼らの夢は、またギター を作ること。 ところが、彼らのインタービューが行われる所はギターを作る工場ではない。 この映画のどこにも、現場で汗を流して作業する姿は見つからない。彼らは果 樹園のように見える急斜面に座り、花畑なのか荒れた政畑なのかわからない空 地の真中に立って、飲み物を配達するトラックの運転台の前に座って、そして ホコリが積もった机だけがだだっ広いところに置かれた仮設の建物の机の前で、 インタビューをする。彼らはまた、ドイツと米国と日本の路上にある。全世界 の音楽家が集まる所の街頭でデモをして、人々にパンフレットを配り、署名を 集めて下手な身振りで公演をする。どこも彼らがいるべき所、彼らがいたいと 思う所ではない。 彼らがギターを作っていた手で闘争の歌を歌いながら、世界のあちこちを飛び 交うようになったのは、2007年の整理解雇の後だ。最低水準を少し上回る賃金 で、通気もされない作業室に座り、12時間以上、強い薬品のにおいをかぎなが ら、あるいは工場を閉じるという社長の脅迫を聞きながら、それでも社長は給 料はきちんと払う、会社があってこそ私たちが暮せると、歯をくいしばって働 いて、短くて10年、長くは30年。しかし彼らはあっという間に整理解雇される。 名目は経営損失。 しかし、コルト・コルテックが売られる世界の楽器市場で3分の1のシェアを占 め、10年間の純利益は年100億を越える。その上、社長は韓国で120番目の金持 ちだという。社長の話を信じて一足遅く労組活動をして知った事実だ。中国と インドネシアに工場をたてたのも、単に事業拡張のためでなく、偽装廃業と安 い労働力を確保する手順だったことを知ることになる。だから、不当解雇だと、 復職を要求するのは当然だ。高等法院でもこのような事実を認め、解雇されて 2年後の2009年には「廃業と解雇をする程に緊迫した経営上の必要性はなかった、 解雇は不当」と判決したのだ。しかし状況は変わらない。判決から一年が過ぎ ても、彼らは相変らず路上にいる。 資本家が自分の資本を投資し、労働者を雇用する。さらに多くの利益をあげる ために、皆そのようにさらに賃金が安いところに工場を移すのが何の誤りかと 聞かれる。私はそれに対する合理的な返事は知らない。経営倫理とか人道的な 次元とか言って、常識的な線で話すことはできるだろうが、常識は、それが通 じる人だけに常識だ。ただし、投資した資本と創出された利益の間に天文学的 な差異があれば、その過程には何か途方もなく不思議なことがあるということ は言える。そしてその不思議の一つが労働力の搾取だということも言える。 しかし「夢の工場」は、資本の搾取と韓国の労働の現実を話そうとしているよ うには見えない。この映画はいぶかしい程、コルトコルテック労働者の作業環 境や、労働現場の劣悪さを見せない。あるいは、そんな話はキム・ソンギュン 監督が昨年作った「ギター(其他、Giutar)の話」ですべてしたのかもしれない。 汗と涙が固まった労働者の呼び掛けの代わりに、監督は彼らが作ったギターと、 そのギターでまた別の夢を歌う人々の話を入れる。韓国のインディ・バンドと ドイツ、米国、日本で会ったミュージシャンが、ギターに関する彼らの夢の話 をする。自身がいつどのようにギターと出会い、音楽家の道に入ったのかから、 フェンダーのネックがどうだとか、アイバニーズの音がどうだとか、ギブスン のボディがどうだとかという話まで。 ミュージシャンたちのギターの話が展開するほどに明らかになることがある。 ギターという製品を挟んで巨大な深淵が存在するということ、二つの巨大な無 知がうず巻いているということ。ミュージシャンは知らない。彼らが好む有名 ギター・ブランドの相当数が韓国のコルトコルテックで作られるという事実と、 彼らが支払ったギターの値段は、搾取された労働力が代価になっている事実を。 労働者も知らないことがある。自分たちが作ったギターがどこの国の誰に行っ て、どんな孤独な魂を慰める歌になるかを。そしてその歌を聞くことはできない。 しかし4年間の闘争の末に今は分かる。コルトコルテック労働者は、彼らが作っ たギターが、ただよく作られた工業製品ではなく、誰かの告白を、誰かの怒り を、誰かの呼び掛けの代わりに、魂の共鳴筒であることを、そしてその誰かが 自分たちになるかもしれないことを信じる。ミュージシャンたちも同じだ。会 社側の非人間的な処置を知った後、そのギターで歌う歌がどうして以前と同じ であるだろうか。何十回ものペーパーがけで指紋がすりへって切断機に指が切 られても、労災処理さえ受けられない苦労の中で作られたのがそのギターであ ることを知って、どうしてそのギターが以前と同じだろうか。それはすでに労 働者のため息から泣き声を飲み込む労働者の胴ではないだろうか。それが不当 解雇以後、4年間の命賭けの闘争を通して得たものなら……、あまりに感傷的だ ろうか。 そんな意味で、このドキュメンタリー映画はギターを作る労働者とギターを演 奏するミュージシャンの、孤立して疎外された夢が互いに連帯していく現実の 過程を見せていると言える。それだけでなく、互いに異なる時空間に存在する ミュージシャンと労働者の夢を併置し、それらが最後に一つの夢に溶け込む編 集は、この映画を現実の再現からさらに踏み込み、自ら現実を具現する連帯の 場にさせている。それだけではない。映画により労働者とミュージシャン、そ して市民ともう一つの連帯の場を開いてくれさえする。 このドキュメンタリー映画が、初めて世の中に披露された日もそうだ。青黒い 海雲台の夜の海を背景に、ギターを作る労働者の手とギターを演奏するミュー ジシャンの自由な手が出会った。〈ハヌムパ〉、〈日曜日の敗北者たち〉、 〈キングストンルディスカ〉が「No Workers、No Music. No Music、No Life」 を叫んで音楽を演奏する時、最も熱烈な声で歓呼して非常に楽しそうに拍子を 合わせた彼らは、他でもないコルトコルテックの労働者たちだった。そして彼 らのTシャツに書かれた「Song for Worker」という文字と、その字を踏んで立 つギターだった。イ・ユニョプ版画家が彫った版画だった。音楽と映画と絵で、 一番疎外された人々が、今、音楽と映画と絵の真中に立っていた。 だが私はコルトコルテックの労働者と初めて会った瞬間を忘れない。彼らを初 めて見た巨大なショッピングモールのロビーでも、映画が上映されることになっ ていたその建物7階のマルチプレックスでも、赤くかすんだ顔にシワが深い初老 の労働者たちは、招かれざる客のように見えた。他の人たちはみんなこの映画 祭の主人で、陳列された商品の主人で、自分が主人公でもない映画さえ、主人 としてためらう事なく飛び回るのに、どうして労働者だけがこれほどぎこちな く見られなければならないのだろうか。 キム・ソンギュン監督は前にも話したように、コルトコルテック労働者の話で すでに前作を作った。それで長い間、彼らのそばで彼らの話を聞きながら撮影 をしたのだろう。しかし前作の〈ギター(其他、Giutar)の話〉も、この〈夢の 工場〉もそうだが、コルトコルテック労働者たちの声を代弁することに目的が あるようではない。その代わりにこの映画を見る人々、労働者であり、自身が 労働者であることを忘れて暮す人々、自分がどんな見えない巨大な鎖の中に席 を占めて座り、誰かの血と怒りと悲しみを餌として、自分の夢をかなえている のかを全く考えられない人々、つまり私のような人々に質問を投げるかけるこ とが目的だ。 その質問は、映画の中でまずミュージシャンたちに投げかけられた、まさにこ れだ。「このギターが労働者の搾取で作られたことを知っても買うか」。 ミュージシャンは答える。「買うと思う」。 その質問は今私たちに投げられる。われわれはなぜ、ある商品が搾取の代価で 作られたことを知っていても購買を放棄できないか。それは一個人の意志と道 徳性の問題として片付ける問題なのか、あるいは、この極めて利己的で矛盾的 な返事こそ、核心的な秘密を含んでいるのではないのか。投げかけられた質問 はまたある。労働の搾取と疎外が韓国で起きなければいいのか。ベトナムと中 国、インドネシアの労働者ならいいというのか。メイドイン・ベトナムでもな く、メイドイン・チャイナでもない、メイドイン「夢の工場」で商品を作るこ とはできないのか。 こうした種類のドキュメンタリー映画は、なかなか見当たらない。幸い「夢の 工場」は、釜山国際映画祭のワイドアングル・ドキュメンタリー映画コンペ部 分で上映された。その上、映画祭の一環として配給支援作に選ばれたという。 少なくとも、みたい人は見に行けるようになったようだ。大ヒットしたり興行 までできれば良いが、そうでなくても2007年に始まり、まだ進行中の、しかし 相変らず知っている人より知らない人のほうが多い事件が広く知られる機会に なったことだけでも、十分に歓呼すべきことだ。 2008年から毎月最終週の水曜、弘大のクラブ パンでコルトコルテック・ギター を作る労働者と共にする水曜文化祭が行なわれている。150チーム以上の文化芸 術家たちが参加したこの公演は、今月、10月27日にも変わることなく進められ る。さらに詳しい情報はコルトコルテックの公式ブログ http://cortaction.tistory.comで読める。 翻訳/文責:安田(ゆ)
Created byStaff. Created on 2010-10-21 01:48:17 / Last modified on 2010-10-21 01:48:19 Copyright: Default 世界のニュース | 韓国のニュース | 上の階層へ | |