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韓国:大邱地下鉄惨事17周年、安全な公共交通のための旅程
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大邱地下鉄惨事17周年、安全な公共交通のための旅程

[ルポ]大邱鉄道地下鉄労働現場踏査の話

ヨンジョン(ルポ作家) 2020.03.11 10:52

▲中央路駅火災惨事現場を保存した記憶空間で嗚咽する遺族[出処:ヨンジョン]

皆さんの事業場は安全ですか?

2月17日午後、 大邱広域市1号線中央路駅の近く。 全国鉄道地下鉄労働組合協議会が主催する 「2・18大邱地下鉄火災惨事17周期鉄道地下鉄労働者追慕集会」が開かれた。

「大邱地下鉄火災惨事が発生してから17年が流れました。 17年間、私たちは何を変えればいいのか、いつも悩みながらきました。 『こんにちは(訳注:韓国語の表現は“安寧ですか”)』という言葉の代わりに 『安全ですか?』でごあいさつします。 仲間の皆さん、皆さんの事業場は安全ですか? 17年前の大邱地下鉄は安全ではありませんでした。 安全ではなかったので、192人の死傷者と151人の負傷者が発生しました。 資本の論理と利益追求の先頭に立った焚きつけ(よく火がつく資材で作られた)電車の導入と、 列車運行中に列車全体の責任を持たされる1人乗務制がその原因でした。 そして垂直的で、権威的で、抑圧された労働現場が問題でした。 今はどうですか? 1人乗務は変わりましたか? 組織文化が変わりましたか? 何も変わったものはありません。」

最初の発言者の大邱地下鉄労働組合のユン・ギリュン委員長は、 火災惨事以後に一部の施設補完があっただけで、 軌道労働者が要求する安全人員の補充はなかったと話した。

「安全人員と安全に対する教育訓練はほとんどなく、さらに悪くなりました。 1人乗務が無人運転に変わり、多くの駅が1人駅と無人駅に変わっています。 金よりも安全、国民の生命を優先するという文在寅(ムン・ジェイン)政府が発足しました。 本当に鉄道と地下鉄の運営がそのように変わっているのですか?」

全国鉄道地下鉄労組協議会のチョ・サンス常任議長は、 文在寅政府も 人員運営の効率化の手綱を握っていると批判した。 また、大邱地下鉄火災惨事以後に制定された鉄道安全法は、 労働者と市民を鉄道安全の主体とせず、 統制と責任転嫁の対象にして、むしろ鉄道の安全を危険にしているといった。

大邱地下鉄火災惨事で犠牲になった市民・労働者を追慕して、 鉄道・地下鉄の安全問題を労働者の立場から考えるために、 鉄道地下鉄労働者約200人が全国から大邱にきた。 彼らはこの集会を始め、火災惨事現場検証と教育、 翌日に大邱市民安全テーマパークで開かれる2・18火災惨事17周年追悼式まで、 2日間の日程に参加する予定だ。

労働者は同じ犠牲者扱いを受けられませんでした

追慕集会が終わり、鉄道地下鉄労働者が大邱地下鉄火災惨事現場を踏査するために中央路駅に移動した。 大邱地下鉄で駅員として働くチョン・ソンギ氏(2003年大邱地下鉄労組前政策室長)の案内で、 中央路駅に続く階段を一歩一歩慎重に踏み出す。 中央路駅は大邱で一番賑やかなところで乗客が一番多い。

2003年2月18日午前9時53分。 大邱地下鉄1号線の中央路駅下りホームに停車した1079号1号車で、 キム某氏が放火して火災が発生した。 約3分後、反対方向に運行していた上り線の1080号列車が中央路駅に停車し、 あっという間に火が燃え移った。 費用削減のために不燃材ではなく安い資材を使って作られた電車は、 途方もない有毒ガスを排出して燃えた。 車両が停車した状態で放火が発生した1079号の場合、 迅速に乗客の待避ができたので犠牲者が少なかったが、 状況を正確に認知しない状態で進入した1080号列車では多くの犠牲者が発生する。 大邱地下鉄火災惨事によって死亡者192人、負傷者151人、合計343人の死傷者が発生した。

地下3階になっている中央路駅は、地下商店街と連結した複雑な構造なので、 平常時にも地上に行く出口を探すのは容易ではない。 火災惨事の当時には駅の3階すべての電気が切れて真っ暗になり、 有毒ガスが満ちていた状況で、避難路を探すのがとても大変だった。 踏査の参加者が地下1階に到着する。

「乗り場から一階上がればB2(地下2階)待合室があって、 また上がるとB1(地下1階)待合室があります。 B1から地上に出る出口は4つあって、 地下商店街に続くところが2か所あります。 地下商店街は電気が切れなかったので、乗客のほとんどがそちらに向かいました。 外に光があるから。 外の出口は階段が長いので光が入りません。 そうだったのに、防火シャッターを下ろしたのです。」

チョン・ソンギ氏は、火災惨事当時に乗場から脱出し、 地下2階の待合室を通り地下1階の待合室までなんとか上がってきて助かった乗客が、 商店街側の防火シャッターのために多数が犠牲になったと話す。 当時、商店街を保護するために防火シャッターを故意に下ろしたのかについては議論があった。

地下2階の待合室の中には大邱地下鉄の労働者が働く駅事務所と通信機械室などがある。 通信機械室でチョン・ソンギ氏がまた説明を続ける。 地下2階の一番すみにある通信機械室は、 駅事務所の扉をあけて入った後、廊下を通り、また鉄の扉を開いて入る。

「通信機械室に2人が点検のため出てきていました。 その中にいたので、その時当時は連絡を受けられませんでした。 ここは内側なので火事が起きたことを知らずにいたのでしょう。 後で知って出た時は、すでに煙が駅事務所の廊下を通って流入し続け、 脱出が不可能な状況でした。 その2人はここで窒息して亡くなりました。」

2人の通信労働者は各駅を移動しながら通信点検業務を遂行するが、 火災惨事当時は中央路駅の通信機械室で業務をしていて犠牲にあった。 当時、清掃用役労働者3人と通信・車両検修業務を遂行した労働者4人、 合計7人の大邱地下鉄労働者が火災惨事で死亡した。 地下鉄労働者の死傷者数は合計20人(死亡7人負傷13人)で、全死傷者数の6%に当たる。 だが、火災惨事の直後、大邱地下鉄労働者は犠牲者と負傷者と認められなかった。

「地下鉄労働者として死んだからです。 その時は地下鉄労働者は死んでも同じ犠牲者扱いを受けられませんでした。 葬儀も質素に行わなければならず、家族もどこでも話できないんです。 当然、死ぬべき人が死んだような、そんな感じでしたから。 補償の話もできない状況でした。 『あいつらは地下鉄職員で、加害者が死んだのになぜ私たちがしてやるのか?』 こうした反発がありました。 負傷者は病院で治療を受けながら、地下鉄で働いているという話もできませんでした。 そんなことを言えば当時の雰囲気では殴り殺されそうでしたから。 生きて帰ったこと自体が罪人であしたたから。」 (チョン・ソンギ)

駅で働く人は制服を着られませんでした

負傷者は病院で治療と補償どころか、まず司法処理を心配しなければならなかった。 乗客を救助したのかどうかも重要ではなかった。 乗客を救って死んだり負傷しても、地下鉄労働者は偉人になれなかった。 生き延びた人も、死んだ人も、大邱地下鉄労働者という理由一つだけで すべて罪人で、加害者で、殺人魔であった。 地下鉄労働者に唾を吐いて殴りつける市民もいた。 遺族は惨事の初期から「1780号機関士殺人魔を処罰しろ」という横断幕を張り、 座り込みをした。

「その時、駅で働く人は制服を着られませんでした。 会社から指針が降りてきて、私服勤務をしました。 殺人魔という声を聞いたから。 後ろ指を差されるだけでなく、実質的に威嚇されることが何十回あって、 できるだけ市民と対面しない方向で指針が降りてきました。 労働組合で遺族と関係を解かなかければ、おそらく今もそれから自由ではなかったでしょう。」 (チョン・ソンギ)

大邱地下鉄労働組合が遺族との関係をうまく解いて闘争に参加して、 地下鉄労働者たちも犠牲者と負傷者と認められた。

「イ・ウォンジュン(大邱地下鉄労組)委員長と私と何人かの幹部が行ったのですが、 実際に殴り殺されるかもしれないと思って行きました。 とても大きな威嚇感がありました。 遺族の前に立つこと自体、負担がとても大きかったのです。 遺族が水清掃の件で激昂していたりもしました。 イ・ウォンジュン委員長が遺族の前に立った時、 石が飛んできて水ボトルが飛んできて、 『引き出せ』、『殺人魔』、『殺す』から始まって、大騒ぎでした。 その時、労働組合が関係者としては初めて謝罪をしました。」

当時、政府と大邱市、大邱地下鉄公社、誰も遺族に謝罪せず、 処罰も受けなかった。 大邱地下鉄火災惨事の関係者として遺族に真っ先に謝罪して、 共に戦うと手を差し出したのは大邱地下鉄労働組合だった。

世論は犠牲を探していました

この日、公共交通ネットワークのオ・ソングン運営委員長は、 大邱に来た軌道労働者を対象にした 「安全な鉄道と地下鉄のための提案」の講義で、 大邱地下鉄火災惨事の原因について話した。 オ・ソングン運営委員長は、よく燃える電車(経費節減という理由で 電車内装材に不燃材を使用しない)、 総合的な災害(防災)管理システムの不良、 教育院の廃止と教育訓練不足、 現場安全人員の不足などをその理由だと指摘した。 また、安全運行よりも定時運行を優先する誤った安全文化、 上司の命令に服従する垂直的な組織文化などの誤った安全(組織)文化についても話した。

火災惨事の当時にも、電車の内装材として不燃材ではない資材を使った点と、 消防設備の不備など、施設や資材、システムなどについて言及がなかったわけではない。 だが、どう話をしても、結局すべての責任は現場労働者たちの責任に帰結された。 その当時、世論の矢はすべて火災惨事の原因として大邱地下鉄労働者たち、 特に多くの犠牲者が発生した1080号機関士に向けられていた。 特に1080号機関士が電車の電源を供給するマスコンキーを抜いて脱出したため、 列車の扉を開けられなくなり、多くの犠牲者が発生したという言論報道が 市民に印象付けられ、 労働者に対する非難はさらに強まった。 後で裁判の過程でマスコンキーが問題の核心ではないという事実が明らかになったが、 既存の認識を変えることは難しかった。

多くの人たちが機関士の初期対応の未熟と中央路駅の無停車を非難した。 しかし、大邱駅で中央路駅間の線路の高低差が激しく、 中央路駅まで来るまで煙が見えなかったという点と、 当時は列車が自動運転だったので前駅を出発する時、 措置を取らなければ自動で次の駅に停車してドアが開くという点については誰も話さなかった。 自動化されるほど、現場労働者が主体的に自分の業務に介入する余地は減る。

当時、1080号機関士が中央路駅に到着した後に待避するまでの10数分間、 運転室で司令の指示を待っていただけではなかった。 運転室と近い1号車と2号車に行って乗客を待避させ、また運転室に戻り司令と交信することを繰り返していた。 実際、1080号運転室から一番距離が遠く、1079号の発火地点と一番近い 5号車と6号車で最も多くの犠牲者が発生した。

「その時、世論は何か犠牲を探していたようです。 大邱市や地下鉄公社が積極的に解明せず、現場労働者の過失として黙認する状況になりました。 その時は安全のマニュアルもなく、そうした認識が不足していた時でした。 機械やマニュアルが人間のミスを補完する側で作られるべきなのに、 その時は純粋に人間のミスとして片付ける側に行きました。」

当時の大邱地下鉄労組委員長、イ・ウォンジュン氏は結局、 大邱地下鉄火災惨事は現場勤務者がきちんと働かずに発生したことになってしまったとし、 それによって火災惨事のきちんとした真相調査と教訓を再確認する機会を失ったという。

機関士が悪いと言えばすべてが楽です

イ・ウォンジュン前委員長は当時、1079号機関士が火を消そうと運転席を空けていて、 司令(管制)にきちんと報告できなかった。 3分後に反対に入ってきた1080号機関士は、報告して司令の指示を受けることに 忠実すぎたので、現場措置ができないという問題が発生したことを否定しないといった。

▲中央路駅火災惨事現場を保存した記憶空間を振り返る鉄道地下鉄労働者[出処:ヨンジョン]

「だが1人乗務なのに機関士が運転もして、扉も開閉しなければならず、 乗客も監視しなければならず、司令と交信もしなければならず、 応急措置もしなければなりません。 これを一人ですべてやるのですが、この二人の機関士がそれぞれ置かれている位置によって、 その役割の中で何種類かだけして、残りは遂行できない状況でした。 構造的に、すでに機関士が事故を小さくできる状況ではなかったでしょう。」

大邱市長も大邱地下鉄公社社長と幹部、誰も火災惨事について処罰を受けなかった。 1080号機関士が禁錮5年、1079号機関士の禁錮4年を含み、 大邱地下鉄労働者8人だけが有罪判決を受けた。

2日間のイベントに参加した軌道労働者たちは、 鉄道地下鉄で事故が発生した時に真っ先にすることが 「労働者ひとりを罪人にすること」だといった。 特に、機関士のミスが確認されれば、他はすべて問題ないことになるといった。

「事故は絶対一つの要因では起きません。 そんな調査をすれば、管理者や使用者が処罰されるのに... ひとりの責任を問うことができないと、その時から頭が痛くなります。 1人の責任にすれば良いのに、 システムの問題と判定されるととても金がかかります。 ずっと捕まえて調査します。 「お前、他のことをしただろう?」 機関士だけが悪かったとすれば、すべてがみんな楽ですから。 機関士は責任が上には行きません。 機関士だけが責任を取って終わってしまいます。」

こうした安全文化処理システムは、 鉄道地下鉄の垂直的で権威主義的な上司の命令に服従組織文化とも関連がある。

市民の安全確保のための特別団体協約を締結

労働者が働いていた空間から出て、 火災惨事の現場を保存した記憶空間(追慕壁)の前に行くと、 大邱地下鉄火災惨事の遺族が痛哭している。 5億ウォンの国民義援金募金で作られたこの空間は、 設立と公開の有無が問題になって10年かかって市民に公開された。 17年経ったが、まだ追悼施設さえきちんと作られない。 やっと敷地を用意した八公山近くの追慕公園は、 現在「大邱市民安全テーマパーク」という名前で、 追慕塔は「造形物」という名前で呼ばれている。 大邱市が遺族と交わした追慕公園建設関連の裏合意を否定して、 遺族を不法埋葬の容疑で告訴(無罪判決)することもあった。

踏査の参加者が最後に火災が発生した 地下3階に移動した。

「その日、鎮火して午後9時ぐらいに行くと、 乗り場の状況がほとんど形体がわからないほどでした。 列車の床が維持できないほどでした。 床が溶けてデコボコした形になって、 こちらとあちらに2本の列車が止まっていました。 その時も熱気がとても感じられる状況で、 あちこちに子供の靴やこわれた時計や遺留品がとても多かったです。 こうした状況なのに、大邱地下鉄公社ではすぐに列車を移動させる、 水清掃をする。このように言い始めたのです。 遺留品をまるでゴミを片づけるかのように、 みんなそのままシャベルでさらって列車にのせて牽引して持って行きました。 現場保存が全くされなかったんです。 犯罪が起きたと見るべきです。 しかし全部無罪です。 チョヘニョン大邱市長はまったく無嫌疑で、 ユン・ジンテ(大邱地下鉄公社)社長は無罪判決を受けました。」

大邱地下鉄公社は火災惨事の当日の夜に、 火災が起きた電車2本をウォルベ基地とアンジン基地に移動させ、 翌日に軍兵力を動員して水清掃して現場の証拠を隠滅した。 そしてすぐに中央路駅を除く一部分が運行に入った。 遺族は中央路駅の床で座り込みを始め、 大邱地下鉄労働組合と共に列車運行を止める闘争を始める。 労働組合はこの時から遺族・市民社会団体と共に、 火災惨事の真相究明と責任者処罰・再発防止のための活動をしていく。

「中央路駅は、そうして遺族とわれわれ労働者の戦いで守るしかない状況でした。 地下鉄労組は火災の原因と安全対策問題を提起して、 その時から闘い、それが6・24ストライキになりました。 そしてその翌年に公企業での最長期ストライキと言われる88日ストライキも、 この時の戦いがそのままつながって行ったのだと思えばいいでしょう。」

大邱地下鉄労組は既に行っていた賃金協約などの団体交渉を中断して、 地下鉄の安全対策樹立を目的とする 「市民安全確保のための特別団体協約」の締結を使用者側に要求した。 大邱地下鉄公社がこれを拒否すると、 労働組合は2003年6月24日の午前4時、ストライキに突入した。 火災惨事を経て鬱憤に充ちていた組合員の90%がストライキ出征式に参加した。 そして6時間後に労組側の要求が受け入れられ、 「市民安全確保のための特別団体協約」が締結された。 この特別団体協約は、大邱地下鉄公社の公共性確保と安全人員確保、 安全防除設備の拡充、安全優先経営体制の確立などを主な内容にしている。

「PSD(スクリーンドア)設置問題、 内装材を不燃材に交換する問題、通信問題、電気問題、消防設備問題など、 火災惨事に関する安全対策が特別団体協約にすべて含まれています。 しかしそれをいつまでにするという部分は守られませんでした。 十数年経って、中央政府の財政的支援で一つずつ補強をする基準になったのは、 そのとおりです。」 (チョン・ソンギ)

火災惨事の時に労働組合の活動が不適当だった

安全特別団体協約闘争は、 その翌年の88日間のストライキにつながった。 使用者側は週5日制勤務施行に関する人員削減(安全人員問題)と、 2005年に開通予定の2号線を民間委託外注化する案を持ち出した。 大邱地下鉄公社側は、交渉懈怠でストライキを誘導し、 結局、労働組合は7月21日にストライキに突入する。

▲2.18大邱地下鉄火災惨事17周年に参加するために大邱に来た全国の鉄道地下鉄労働者[出処:ヨンジョン]

「火災惨事が起きた時、労働組合が行った色々な活動は不適当だったのでしょう。 会社では労働組合に手を入れなければならないということが共有されていました。 その時、当時のチョヘニョン大邱市長は労働組合がこまごまと妨害をして、 侮辱を与えたと考えていたからです。 『保守の土地、大邱であえて労働組合が惨事を口実として収拾の妨害をするとは』という考えがあったでのしょう。 その翌年のストライキで手を入れる機会にしたのでしょう。 ストライキの長期化は今考えれば、予定されていたことでしょう。」

88日間のストライキ末に現場復帰をしたが、 使用者側は待っていたとばかりに13人の労組幹部を解雇した。 ストライキに参加した労働者30余人を大量懲戒した。 この過程でチョン・ソンギ氏とイ・ウォンジュン氏も解雇された。 イ・ウォンジュン前委員長は拘束された。 10年以上の復職闘争の末、2015年〜2018年に解雇労働者は順次復職し、 その間、一人の解雇労働者はガンで亡くなり、結局現場に戻ることができなかった。 大邱地下鉄に戻った12人の労働者たちは、 相変らず大邱地下鉄火災惨事問題に関する作業に参加している。

労働者が積極的な役割を果たす安全設計が必要

今は大邱地下鉄が安全だと考えるのかと チョン・ソンギ氏とイ・ウォンジュン氏に尋ねた。

「地下鉄火災惨事以後に鉄道安全管理対策だと言って、 鉄道だけでなく、地下鉄まであらゆるマニュアルはよく作られています。 内装材を不燃材に変え、通信設備と消防設備補完、PSD安全扉設置.. その当時、労働組合が問題提起したこと、 特に火災に関する補完がうまくいっています。 訓練もとても増えました。 私たちがこのように平常時に十分にやったという言い訳を作ろうとしているのか、 本当に対応能力を高めることを大切にしているのか、答えるのは難しいですが、 私は前者に近いと考えています。 それが現実性があるかという問題で大言壮語できる人は誰もいないでしょう。 そのマニュアルのとおりにするために、必要な最小人員そのものに達していません。」

チョン・ソンギ氏は前と比べて駅の勤務人員が半分以下に減ったという。 駅の運営体系が変わり、駅長も消えた。 管理役という運営体制が導入されて今は5〜6駅あたり1人の管理駅長がいるだけだ。 1組3人で働くが、休業日によって1週間に3日は2人が勤務をする。 この時に事故が発生すれば、1人が報告して1人が現場に飛び出さなければならないが、 それでは乗客は誰がどう待避させればいいのかわからない状況だという。

現在の安全マニュアルには、社会服務要員と清掃労働者、 さらに賃貸業者まで、安全業務遂行者に含まれているといった。 チョン・ソンギ氏は地下鉄の業務が安全中心ではなく、 サービスと収益性中心に行っているとし、 安全マニュアルを遂行する人員の拡充が急がれると話した。 イ・ウォンジュン氏も2003年よりも内装材の交換や火災に備えた安全設備などで ずいぶん改善されたとはいえ、 多様な形態の事故に対する対応は相変らず不足な面が多いと話した。

「ヒューマンエラーという人的ミスがありえる前提で、 こうしたものが形成されなければならないのに、 ここで働く労働者を一種の付属品や客体として安全問題を度々設計するので、 『マニュアルのとおりしろ。法規定のとおりにしろ』と言っているんです。 その通りにするだけでは現場の状況に積極的に対応できません。 人的ミスは教育を繰り返したところでなくなりません。 現場の労働者を統制して人的ミスをなくす方向に行くのは限界があります。 労働者の人的ミスを補完して、 労働者が進んで積極的な役割ができる条件を作る方向の安全設計にしていかなければと考えます。」

少なくとも同じく流れる時間を作る配慮はしてこそ

今回の日程に参加したチョン・サンヒョン(ソウル地下鉄勤務)氏は、 大邱地下鉄火災惨事が発生した2003年には中学1年生だったと言う。 地下鉄で働き、6年間、漠然と入ってきた現場に直接来たが、 心が重く写真撮影も出来なかったという。 チョン・サンヒョン氏は現場の状況が統制範囲で動くわけではないから、 現職者としての警戒心を持つようになり、同時に複雑で息苦しいといった。

「私は電気員として働くのですが、火災惨事の時に電気が供給されなかったのを見て、 私が重要な仕事をしているという考えました。 火災の体験は文字通り模擬じゃないの。 完全に統制された状況での危険ではなく、偽物の状況。 実際にそんな状況で、機関士に現場を統制するすべての権限を一任しても負担になり、 完全な精神でできるとは全く考えられません。 私はあんな状況ならばどうか? 偉人になれるだろうか? そんな気がしました。」

鉄道地下鉄労働者は、偉人でも罪人でもなく、 安全な公共交通の主体になることは可能だろうか? 公共交通ネットワークのオ・ソングン運営委員長は 「鉄道地下鉄といった公共交通では、 労働者の安全が確保されれば乗客の安全度確保になる」と言う。 乗客の安全を守るためには労働者の安全を確保しなければならないということだ。 オ運営委員長は、労使も市民もすべて安全文化を定時運行から安全運行に変えなければならず、 重大災害企業処罰法(企業殺人法)も制程しなければならないと話す。

踏査を終わらせる時間だ。 現場案内をしてくれたチョン・ソンギ氏は、 17年経った今でも大邱地下鉄労組ではすべての時間の流れがその時を起点にしていると言う。 それはチョン・ソンギ氏個人にとっても同じだ。

「私のすべての選択や行動、私が持っている道徳倫理的な意識... どんなものも、あの時のあの事件が支配しているんです。 私が何をしても、私が解雇されて10年になっても、復職をしても、 どんな行動するのにも規範になってしまうのです。 私がそれから抜け出せないということです。 内容がどんなにあっても、作家さんも私にこうして話を聞こうとするでしょう。 どこに行ってもこの部分から抜け出せないんです。 私が職場をやめてもそうでしょう。 普通の人たちがずっと一直線に進んでいるとすれば、 われわれはそれを囲んでその中で動き続けているんです。 私だけでなく、当時、そこにいた多くの人々が... 私がまだ2003年の地下鉄から時間を拡張させているのに、 遺族の方たちはさらにそこから一歩も踏み出せずにいます。 ずっとそこに留まっているんです。 時間が共に流れるようにしても治癒できると思うのですけれど... 誰の責任かという問題を離れて、 少なくともこの社会が共に流れる時間を作る程度の配慮はすべきなのではないかという気がします。」

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
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Created byStaff. Created on 2020-03-31 09:12:42 / Last modified on 2020-04-04 13:50:08 Copyright: Default

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