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何が運動社会の性暴力解決を難しくしているのか

[クェン女性の生存期]

イハン(フェミニスト活動家) 2020.02.14 09:17

運動社会で活動家として生きる人々は、 自分の活動空間が他の場所より安全で平等な空間だと信じようとする。 しかし多くの運動団体で性/暴力事件が起き、 そのうち結局うまく解決されないまま残っている場合も多い。 かなり前からこれらの問題が発生するたびに 被害者に連帯して共に戦ってきた人は多いが、 相変らず多くの人にとって運動社会性暴力とは負担で避けたい主題だ。 こうした認識は人々が被害者を支持し、連帯することを躊躇させる。 そしてこのような反応の中で論争と対立は激しくなり、 共同体構成員の信頼は低下して、被害者はこの過程で再び傷を受けるようになる。 被害者が共同体を離れたり、 加害者が懲戒を受けて活動停止期間が終わり復帰する頃には、 つまり事件が静かになる頃には、どこかでまた新しい事件が起きる。

20年前、「運動社会性暴力根絶する百人委員会」などの活動で、 運動社会内の性暴力、性差別などの問題が水面上にあらわれた。 運動社会の性暴力が共同体の問題だという認識の中で、 多くの団体が反性暴力、人権規約を作り、 性暴力予防教育、人権教育をしている。 それでもなぜこうしたことが繰り返されるのだろうか。 筆者がさまざまな運動社会の性暴力事件を経験し、 見て感じたことを基礎にその理由を整理してみた。

われわれはすべて仲間で同じ被害者だという観点

多くの活動家は社会的に権力少なくて、経済的にも脆弱で、 国家・社会による日常的な暴力と差別を受けているという感覚を持って生きていく。 実際に、多くの運動圏の人々は自分が日常的に暴力と被害に露出している被害者で、 社会的な少数者だと正体化している。 そのためにむしろ彼らは自分が「加害者」に指定され、 権力を利用して人を困らせているという主張を受け入れることを難しく思う。

これは情緒だけの問題ではない。 先に話したように、彼らは自分の状況を国家や社会と正面から闘う 「戦時状況」と認知する。 自分の誤りを公表することは敵に自分の弱点を露出することで、 自分にさらに大きな「被害」を招くことになる。 彼らのこうした認知構図が完全に誤ているわけではない。 運動社会で性暴力が行われ、それが記事化されれば主流社会は左派の不道徳を非難し、 運動を攻撃する。 運動社会の内部でも、 自分の団体で発生した性暴力事件が知られることに政治的危機感を感じることが多い。

すなわち、多くの運動社会の構成員は、 道徳性の議論で自分たちの正当な運動の価値が壊されることを非常に恐れる。 彼らは運動を続けることができないという恐れと、 正当な批判と責任を越える不当な暴力・非難・疑いなどに露出するという 恐れを持っている。 状況と脈絡は少しずつ違うが、 これがまさにこれまで性暴力事件が起きた時に、 大部分の運動団体構成員が持っていた感情ではないだろうか。 実際に過去の多くの運動社会の性暴力の被害者が、 必ず組織の強圧や勧誘によってのみならず、 「自発的に」性暴力事件を知らせずに沈黙した理由もこれに関係があると考える。

もちろんこうした情緒と認識は、 性暴力問題の解決を困難にし、被害者を二重三重に苦しめるだけでなく、 問題の本質を無視して隠すことなので必ず変えなければならない。 だが運動社会の構成員が持っている誤った認知の図式と情緒が、 加害者の教育や性暴力予防教育だけで解決するのかには疑問を感じる。 結局、これは性暴力に対する認識だけでなく、 運動に対する認識と運動方式、組織文化まで触れるべき問題だからだ。

では被害者も運動社会で生きて活動する人だということを認知する努力、 被害者も恐れを共有しているのだという共感を持つことを努力してはどうか? 被害者も自分が共同体で信頼され支持されないことに対する恐れだけでなく、 事件によって自分がしてきた運動が不正当だと蔑視されるという恐れを持っている。 だから自分が属する共同体の問題を知らせ、変えようと努力する被害者に、 該当組織を「あそこは元からあんな状態だ」、 「ただその団体から出てください」といった言葉は無意味だ。 これは被害者の闘争と問題意識に全く共感できない態度でもある。

加害者の名誉 vs 被害者の被害という構図

もうひとつの問題は、 運動社会が相変らず活動家個人の人脈と名声に依存する傾向があるという点だ。 多くの運動と闘争にはその運動を代表したり象徴する活動家がいる。 これらの活動家の名誉が壊されるということは、 活動家個人の活動領域と社会的資源が縮小するばかりでなく、 その活動家の名誉に依存していた運動も打撃を受けることを意味する。 だから多くの人々は被害者が被害を訴えた瞬間、 加害者の名誉や運動の未来を被害者の権利とバーターすると考えるようになる。 しかし運動の未来を口実として被害者を恨む前に、 まず次のような質問をするべきだ。 初めから個人の名誉に依存した運動が、果たして持続可能な運動であろうか? 運動に参加する人々が変えようとする社会を作れるのだろうか? 事実、われわれはすぐにでも壊れそうな砂上の楼閣を守ってきたのではないか。

運動社会は常に老練な人員倉庫が不足していて活動家が再生産できないと話す。 また重要な実務を引き受けた加害者がいなくなると、 これを代替する人がいないという困難を訴える。 しかし、逆に少数の名誉に頼って既存の運動を守ってきたことが、 今のこのような労働力難を招いてきたのではないか。 これまで私たちが運動の将来を語り、如何に多くの仲間を見送ったかを振り返らなければならない。 これは暴力の問題だけでなく、運動の展望を被害者の権利と衝突する構造にした 既存の運動構造と文化を全て変かなければならない問題だ。 このような点で運動社会の性暴力被害の訴え、告発は、 それ自体で運動の構造と文化を変える「運動の中の運動」だ。

これまで性暴力を語る時、人々は主に被害者と加害者、 つまり個人に焦点を合わせてきた。 だが性暴力事件解決の責任は、加害者と被害者個人だけにあるのではなく、 運動社会で暮らし、活動する私たちすべてにある。 われわれは第三者の位置で、被害者が完璧で道徳的な人になり、 このすべての問題に対して毅然として強く戦うこと、 あるいは非道徳的な加害者個人を非難して加害者が道徳的な人に「更生」して戻ってくることだけを要求するのではなく、 誰もが共に道徳的な責任を分けあわなければならない。 加害者が加害者教育を受けて変わらなければならないという観点も、 被害者が治らなければならないという観点も、 結局焦点を相変らず個人に合わせるものだ。 もちろんこれが必要ではないということでなく、 性暴力問題の解決には加害者と被害者の役割があるように、 共同体にも共同体の役割があるということだ。 性暴力事件を体験し、被害者と加害者だけが成長して変化するのではなく、 共同体も変化して成長していくことができる。

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2020-02-17 16:38:11 / Last modified on 2020-02-22 04:19:07 Copyright: Default

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