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民族[ワーカーズ]事典
チェ・ヒョジョン(政治学者、慶煕大学校フマニタスカレッジ解雇講師) 2019.10.16 10:04
![]() 民族(nation)という言葉は、その言葉が置かれた脈絡により肯定と否定の両価的感情を呼び起こす。 この言葉から、ある者は抑圧を、ある者は解放を感じる。 民族主義(nationalism)も同じだ。 民族主義はある所では国家主義的な暴力性を象徴する単語だが、 ある所では自治と独立を象徴する。 民族概念に対する相反する理解は最近の韓国・日本の対立局面と 反日民族主義論争でも明確に現れた。こうした差はどこから始まるのだろうか。 それは民族と民族主義に対する経験と記憶が時代と場所により、 階級により、ジェンダーにより、それぞれ違って現れるためだ。 西欧諸国の侵略的民族主義と植民地国家の抵抗的民族主義は異なり、 植民地時代の民族主義と世界化時代の民族主義は異なり、 労働階級と資本家階級の民族、女性と男性では民族の意味が異ならざるをえない。 個人も各自の条件により互いに異なる民族意識と民族感情を持つようになる。 国家の支配層は民族をどんな基準でながめるだろうか。 人口、生産力、租税、教育水準と発展水準を考えるだろう。 労働者と女性は国民(nation)を構成し、労働力と国防、租税の源泉であり、 出産と育児、家事で人口と労働力の再生産を担当する民族資源と認識される。 自分を民族の指導者と思う支配エリートにとって、民族は啓蒙と統合の対象だ。 それは他の民族に奪われない公的所有物であり、共同の財産だ。 これらのものが官製民族主義が守ろうとする民族の基本概念だろう。 しかし日帝強制支配期に徴兵労働者や慰安婦として動員された労働者と女性たちにとって 「民族」とは何だったのだろうか。 支配層の考えと同じ意味で「奪われた」ものだったのだろうか。 祖国を「取り戻した」後も、外貨稼ぎの労働力として米軍の「接待婦」に売られた労働者と女性にとって、 「民族」は何を取り戻してくれたのだろうか。 「労働階級には祖国はない」という言葉でも 「女性には祖国はない」という言葉はまさにその欠乏を表現する。 ところで「労働階級には民族はない」という左派のスローガンは、 国家間の対立や民族問題が台頭するたびに左派と労働階級を非難する根拠になる。 韓日の対立局面でも、日本嫌悪をあおる官製民族主義と愛国主義の扇動を批判する人々に対して ベネディクト アンダーソンの「想像された共同体」を経典のように読み上げる 「観念左派」であり、 民族の実体性を否定して民族的アイデンティティを拒否する個人主義-コスモポリタンだというレッテルが間違いなく付けられた。 しかし、これは労働者の国際主義をブルジョア的な世界主義と同一視する誤りだ。 左派と労働階級は運命共同体としての民族の実体性を否定しない。 否定するのは労働者を戦争国家の資源として動員する官製民族主義イデオロギーでしかない。 歴史的に、そうした民族主義は常にファシズム、軍国主義、国粋主義、愛国主義に転換された。 民族の実体があるかないかは争点ではない。 「想像された共同体」は民族が「想像の産物」であり、 だから虚構的だという主張ではない。 それは、それまで「一つ」だと決して感じることができなかった、 異なる身分、異なる地域、異なる宗教、異なる言語と文化圏の人々が 「われわれは一つの民族」だという観念を持つためには、 精神的・文化的な次元での作業が必須であり、 ここには「国土」についての地理的想像力と「母国語」と「民族文学」という文学的想像力、 建国神話を含む歴史的想像力と、 その他にも標準語としての国語教育、国旗と国歌のような多様な象徴体系が動員されるという意味だ。 そのような過程から、フランス人は始めてフランス人になり、英国人は英国人になり、 ドイツ人はドイツ人になる。 アルザス=ロレーヌ地方の農民とブルターニュやラングドック地方の農民が 「同じフランス人」になり、 山岳アルプスの羊飼いと金融都市ジェノバの銀行家が「同じスイス人」に、 シチリアの山羊飼いとフィレンツェの貿易商が「同じイタリア人」になるのだ。 だが民族を統合するこの想像力は、不断に再創造されなければならない。 国民国家の内部には中央権力の求心力が弱まれば、常に解体しようとする小さな共同体の遠心力が装着されているためだ。 民族糾合の初期には強圧的な手段である戦争と暴力がそのような遠心力を抑制したとすれば、 文明化の過程はそれが順次、文化的な様式で代替される。 オリンピックやワールドカップなどのスポーツを国家間競争にしたり、 音楽コンクールやビルボードのチャート、国際映画祭での受賞を 「国家的地位向上」、「世界制覇」などと表現する文化戦争が代表的なケースだ。 経済規模や成長率の対決、「日韓経済戦争」、「米中貿易戦争」などで見るように、 経済を戦争のように遂行することも 民族感情を持続的に創造する想像的な統合の様式だといえる。 そうして「一つ」になった「私たち」は、 「私たちではない者たち」を通じて区分され、 支配者は外部の敵によって内部の民族的結束を強化する。 「私たちではない者」は民族の内部にも出現する。 歴史的には、左派と労働階級はたびたび民族の反逆者と規定されるが、 その理由は労働階級の連帯を外部の敵と内通して民族の反対側で敵を利することだと考えるためだ。 第1次大戦以後にドイツで行われた「短剣論争」は、その代表的なケースだ。 敗戦と共にドイツに課された莫大な戦争賠償金で生活苦が激しくなり、 民衆の不満が高まると、誰かにその責任を問わないわけにはいかなかったが、 戦争を起こした軍部と政治家は敗戦の責任が祖国を守るために最前線で戦った軍人ではなく、 初めから参戦に反対して協力しなかった者にあると主張し、 「背中に短剣をさした者は誰か」という問いで責任を転嫁した。 後ろから短剣をさした民族の背信者は、 共産党と社会主義左派と労働組合運動家だった。 彼らは民族の勝利のために全国民が犠牲になっている時、 資本家の戦いに動員されるなと扇動して労働者を戦線から離脱させ、 内部で敵を利するようにしたということだ。 では反対に「敵国」の内部で「私たち」と内通してわが民族を助けるのは誰か? 歴史は「被支配民族」を助ける支配国家内部の仲間たちが、 主に労働階級から出るという事実を示す。 安部政権が経済報復措置を断行すると韓国では反日・反安部デモが広がり、 日本国内でこれを支持して声明書を出して連帯したのは日本の千葉鉄道労組傘下の 動労千葉国際連帯委員会と日本民衆連帯であった。 これに先立ち、大阪教師労組は1995年からILOに粘り強く手紙と証拠資料などを送り、 日本政府が性的奴隷と強制労働を強要し、正しく賠償・補償をしていないことを知らせ、 国際社会の問題にすることに寄与した。 これを「日本国内の目覚めた市民」、「良心ある知識人」などと表現し、 連帯の階級性を希薄にして、明確な連帯の主体を曖昧な 「日韓市民連帯」に変えてしまうのは、リベラル知識人の言語習慣だ。 そうした点で、労働者の国際主義(internationalism)連帯を、 国家より個人を優先させて私を公の前に出す 世界主義(globalism)-コスモポリタニズム(cosmopolitanism)と同じものと扱いするのは正しくない。 では左派的観点から、労働者と民衆に民族とは何だろうか? 英語で「ネイション」という時と違い、 韓国語の「民族」にはそれを国家主義概念へと簡単に還元することができないという問題がある。 なぜなら民族の「民」には民衆の民、農民の民の意味が含まれているためだ。 日本の戦後知識人、小田実は1960年代に米国に留学して、 その帰り道に中東地域とインドなどの南アジア地域を旅行して、 それまで感じられなかった民族概念に気付く。 それは自分が日本で経験した「軍国主義の臭い」がする民族の概念とも違い、 米国の大学の講義室で批判的に扱われた理論的なナショナリズムとも違う何かだった。 圧制からの解放演説を聞くシリアの民衆やインド製自動車に自負心を感じるインドの労働者たちに見られる民族の理念は、 日本人として、エリートとして、自分自身に残る民族経験とは異なる種類のものであることを自覚する。 そのような点で、侵略的民族主義は抵抗的民族主義と区別されなければならず、 支配層の官製民族主義と労働者民衆の民族感情、 女性と少数者の民族経験は区別されなければならない。 1946年、日本共産党の機関紙、前衛でバルティスキー(N. Baltiyski)は、 ブルジョア民族主義と労働階級の民族主義をこのように区分する。 ブルジョア民族主義は 「自民族のいんちき優越性」を主張して「露骨な民族的偏見」や 「帝国主義的欲望」へと続く。 だが労働階級の民族主義は 「自民族の自由のために戦うという決意」であり、 「他民族の平等な権利」を尊重する。 彼によればコスモポリタンは 「国際的財閥の代表者、国際的カルテル、大ブルジョア株式投機者、 世界的武器販売商とその手先」だ。 彼らは自分の利益のために国境を越えて 「おいしいものがある所、そこが祖国だ」というラテン語のことわざのとおりに行動する。[1] 今日、全世界的に各国の上流層はますます類似の文化的同質性を持ち、 民族の境界を簡単に超える。 彼らは同じ言語(英語)を使い、食べ物、ファッション、趣味、ライフスタイルなど、 すべての面で似たような消費水準と文化的な好みを共有する。 時間性と場所性の上に積もった民衆世界の土着文化と民族の情緒的共通基盤はますます消え、 その代わりに世界化された好みと消費の共同体が 「一つのブルジョア的種族(ethnos)」を誕生させる。 こうした現実で、労働者民衆にとって国家と民族とはどんな意味があるのか? 支配層エリートは敵国のエリートだとしても、亡命地でさえ上流社会の一員としての待遇を受ける。 貴族はどこでも貴族として待遇されなければならないというのは、 昔も今も上流社会の不文律だ。 アテネの将軍だったアルキビアデスは、敵国のペルシャでも貴族として暮らし、 やはりアテネの将軍だったクセノフォンも余生を敵国のスパルタで支配階級の友人とゆっくり送った。 ゴルバチョフはソ連が滅んだ後も西欧国家から途方もない講演料収入を得て、 資本主義上流社会の一員としてゆったりと暮らしていくことができた。 しかし国が滅びても安楽な亡命の道が開かれている支配層と違い、 国民は亡命する所がない。 民族がなくなっても資本家はどこに行っても資本家として暮らせ、 知識人ブルジョアは訪ねて行く外国の友人でもあるが、 労働者は階級化されることがさえない存在になり、 「何者でもない者」に散る。 それが「ここで」良い国を作らなければ他に方法がない民衆が、 いつも最後の市民に残るしかない理由だ。 世界化時代にも移住と移民は、誰にも同じ水準で可能なのではない。 この10年間(2009〜2018)韓国の土地で自殺したネパール労働者は43人にのぼるが、 韓国政府もネパール政府もこれらの労働者の死には無関心だった。 結婚移住女性も似た状況に置かれている。 こうした死の無国籍化、または非公式化は、 国内の労働者、女性、少数と弱者にもしばしばおきることだ。 彼らの祖国はどこなのだろうか。 労働階級が、民族の境界を越えて、難民化・遊民化される労働者たちを、 階級の友人として歓待し、頼り、互いの故郷になってやらなければならない理由がここにある。 だから労働者の民族は労働階級であり、女性の祖国は女性なのだ。[ワーカーズ59号] [脚注] [1] 小熊英二著作、チョ・ソンウン翻訳、「民主と愛国 戦後日本のナショナリズムと公共性」、トルペゲ、2019.233-234ページ. 翻訳/文責:安田(ゆ)
Created byStaff. Created on 2019-10-03 11:48:42 / Last modified on 2019-10-18 00:43:51 Copyright: Default 世界のニュース | 韓国のニュース | 上の階層へ | |