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韓国:[WORKERS]4月号 イシュー(1)その時、消えた人々
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その時、消えた人々

[ワーカーズ] 4月号イシュー(1)

キム・ハンジュ・パク・タソル・ユン・ジヨン記者 2017.03.30 00:30

▲[写真]故イ・ジョンウォン、労働者歴史ハンネ提供

Episode. 1
常に私たちの民主広場で見守る

2003年1月9日早朝。 彼は妻と娘の見送りを受け、いつよりも早く家を出た。 黒いプリンスを鍛造工場のクーリングタワーの花壇横に停めた。 そしてその場で六、七本のタバコを吸った。 電話をいじりまわして同僚に電話をかけた。 損賠仮差押えで6か月間、月給をもらえなかった時に助けた人だった。 妻に渡した最後の生活費45万ウォンも彼が渡したお金だった。 電話機の向こう側から同僚の声が聞こえた。 何も話さず通話終了ボタンを押した。 また電話をかけた。 今回も何の話もせずに電話を切った。 彼はトランクを開いてガソリン容器を取り出した。 冷たいガソリンをからだに浴びた。 そして火をつけた。

どないすればいいんや

斗山重工業のペ・ダロ烈士が最後に伝えたかった言葉は炎の中に消えた。 最後の電話を受けた同僚も、彼を待っていた家族も聞くことができない言葉だ。 彼が残した2枚の遺書だけが生前のつらい人生を伝えている。

「出勤しても面白くない」。 烈士は遺書の最初にこう書いた。 管理者の顔色をうかがい、解雇を心配するのが日常だった。 労組に亀裂が入り、互いの反目も激しくなった。 烈士は変わってしまった現場を見ながら、どうしたらいいのか分からないといった。 発端は民営化だった。

斗山重工業支会のチョン・デドン当時副支会長は、民営化後の会社を「悪魔の巣窟」と呼んだ。 「斗山が入って悪魔の巣窟に変わった。 その当時、韓国重工業労組といえばいわゆる強硬労組だった。 すごかったよ。 95年には48日間必死に戦って、一方仲裁条項(スト権を侵害する代表的毒素条項)まで団体協約から抜いてしまった。 斗山は労組といえばうんざりするので用役を付けて労組破壊を始めたんだ」。

公企業だった韓国重工業は1997年の外国為替危機の時、1次民営化対象に指定された。 そして金大中(キム・デジュン)政府の時の2000年に斗山グループに買収された。 勤労条件は悪化し、労組活動は弾圧された。 悪夢の始まりだった。

キム・チャングン[SK]当時金属労組委員長(斗山重工業解雇者)は、韓国重工業だった時のペ・ダロ烈士のホイッスルの音が忘れられない。 ペ・ダロ烈士のホイッスルの音さえ聞こえれば、朝、昼と組合員が集会に集まった。 協業が多いボイラー工場の特性のためか、組合員の団結力も特別だった。 工場のスローガンも生き生き思い出す。 「先に立つボイラー工場」。 だが斗山は彼らの協業と団結を押し倒そうとした。

「斗山重工業に変わって生産課長が集会に行く人を捉えた。 『今日出て行けば会社が懲戒する…解雇もできる』、 『もうすぐ進級なのに何でわざわざ余計なことをする』、そんな話をして回った。 ためらう人を捕えて『集会に行こう』といえば、生産課長がどこからか飛び出してきた。 『行かないという人をなぜ連れていくのか』と腕をずるずる引っ張る。 押し合いになり、悪罵も飛び、拳も飛ぶ。 こんな状況なので、出勤しても誰も緊張して笑うこともできない。 その上、1000人を整理解雇するという噂が立って、クビにならないか気を付けなければと。」

キム元委員長は烈士が焼身する数週間前に彼と会った。 ペ・ダロ烈士が先に会おうといった。 当時、手配犯人の身分だったキム元委員長は人目を避けて昌原にきた。 ペ・ダロ烈士と馬山駅前の刺身屋で向かい合って座った。 「ペ先輩がため息をつきながら『どないすればええんや?』と何度も聞く。 完全に現場が掌握され、人々が声も上げられないって。 苦しくて腹が煮えくり返り、自尊心が傷つけられると。 現場組織を生き返らせなければならないのに、みんなグウの音も出せないと訴えた。」

盧武鉉次期大統領に

烈士が炎につつまれた2003年1月は、盧武鉉(ノ・ムヒョン)元大統領の当選直後だった。 烈士の妻ファン・ギリョン氏は、盧前大統領に手紙を書いた。 「ある日突然夫を失い、それではじめて夫が遺書に残した汚い世の中が何か分かったような気がします。 新しい大統領はすべての国民が期待しているのですから、平凡に一生懸命働く人々が自分の命を自分でら燃やすことがないような社会を作ってくださることを願います。」

盧武鉉政権の最初の労働部長官は権奇洪(クォン・ギホン)嶺南大教授であった。 権長官は2003年3月10日、昌原にきて烈士の遺体安置所を訪問した。 そして会社と烈士対策委を仲裁した。 二日後の3月12日、徹夜の交渉の末に合意に至り、14日に烈士の葬儀を行った。

合意案妥結の翌日には記者懇談会を開いた。 その場で権長官は烈士を死に追いやった損賠仮差押え問題に対し、こう話した。 「民事上の使用者の法的権利に対する判断は裁判所がするもので、 政府が立場を出すのは妥当ではない。」

盧武鉉元大統領はペ・ダロ烈士の死後、 使用主が損賠仮差押えを乱用できないようにする対策を立てると明らかにした。 だがその言葉は守られなかった。 その年の10月には、44の事業場労働組合に1700億の損賠仮差押えがかけられていた。 政府が直接鉄道ストライキに損賠仮差押えを請求したこともある。 金大中(キム・デジュン)政府から盧武鉉政権まで。 損賠仮差押えは「労働者を捕まえる武器」として定着した。

当時、労働者たちは金大中政府が戦術的に活用した損賠仮差押えの弾圧を記憶している。 金大中大統領は2002年5月10日、青瓦台の秘書官会議で 「不法暴力労組運動を容認してはならないが、拘束だけが最善ではない」、 「不拘束起訴や民事訴訟などさまざまな方案を検討してほしい」と指示した。 キム元委員長は舌打ちしながら話した。 「民主政権の名で拘束された労働者が前の政権より多いのだから、 損賠仮差押えのような民事訴訟をかけろというのが殴れというのが金大中の方案だった。 国際的にも問題になるから本人のイメージを考えた。」

ペ・ダロ烈士が開始だった

生きて、もっと戦わなければならないという人だった。 烈士と一番親しかったキム・ゴニョン(当時代議員)氏は、まるで自分の代わりに彼が死んだようだという罪悪感に苦しむ。 キム氏は2002年、ストライキ賛否投票を促すためにガソリンを浴びて焼身を試みていた。 「その時先輩が『なぜ君が犠牲になるのか。生きて、もっと戦わなくちゃ』といいながら肩を握りしめた。 先輩が死んだ時、私も死のうとした。 34日間断食をしたが途中で倒れ、病院に運ばれた。 その時のつらい気持ちはそのままだ。」

そんなペ・ダロ烈士を生き返らせることはできなかった。 民主主義も、改革大統領も。 それで同僚たちは民主党に対する期待を裏切った。 キム・チャングン[SK]元委員長も同じだ。 「私は全く期待しなかった。 仲間も同じだった。 いわゆる民主政府で損賠仮差押えを絞るだけ絞って、 労働者たちが命をかけた状況だった。 金大中盧武鉉には何か期待があった。 民主党から大統領を二回出したが、民衆側に立ったことがあったか?」

烈士が亡くなって24年。 相変らず烈士が望んだ世の中はこない。 ペ・ダロ烈士精神継承事業会のカン・ウンピョ会長(当時斗山重工業支会支会長職務代行)は、キャンドルの前に立った烈士を思い出す。 「またキャンドルの覚悟をしようと約束した。烈士がこう言った。 『私は常に民主広場で見守っている』と。 烈士なら、広場で松明を持てば良かったのに。 1600万キャンドルも燃え上がらせられない所に行って、ホイッスルを吹いてここに集まれと叫べば良かったのに」

Episode. 2
私の遺体がある所は85号クレーン

2003年10月17日の朝。 釜山影島造船所の近くの海が嘆きの声で埋め尽くされた。 非常連絡網で知らせを聞いて駆け付けた組合員たちは、85号クレーンをうろたえたようにながめた。 高空籠城125日後に遺体になったキム・ジュイク烈士が残したものは、長い煩悶がつまった遺書4枚。 同僚たちは、キム・ジュイク烈士が組合員に残した遺書を何度も何度も読んだ。 「同志よ、私の死の形がどうであれ、私の遺体がある所は85号機クレーンです。 この闘争が勝利する時、私の墓はクレーンになるほかはありません。 私は死んでも闘争の広場を守り、組合員の勝利を守ります。」

ある人権弁護士の歌

熱かった2002年の冬、劇的だった16代大統領選挙。 盧武鉉当選の知らせに韓進重工業の労働者たちは「やっと少しは良くなるだろう」と思った。 それもそのはず、韓進重工業の労働者たちと盧武鉉大統領は、かなり縁が深かった。 人権弁護士出身の盧武鉉、文在寅(ムン・ジェイン)は、韓進重工業労働者の弁護人でもあった。 1994年にLNG船上ストライキで拘束されたキム・ジュイク烈士を弁護したのも彼らだった。

ある韓進重工業労働者は94年の人権弁護士、盧武鉉をぼんやりと憶えていた。 「その時に壇上にあがって、組合員の前で歌った、多分。 その民衆歌謡が何だったか。 『人が生きる世の中が戻り、君と私が抱き合う時。 矛盾の塊りの抑圧と搾取、あの赤い太陽に溶けてしまう』そんなような歌でした」。 盧武鉉元大統領が好んで歌ったというその歌の終わりはこうだった。 「われわれの勝利、死んでいった同志の熱い涙。 赤々と燃える目で恐れることなく戦い抜く」。

だが良い明日はこなかった。 やはり労働者たちは整理解雇と賃金凍結、労組弾圧、7億4000万ウォンの損賠仮差押えが存在する今日を生きた。 2003年6月12日、結局、韓進重工業支会のキム・ジュイク支会長が85号クレーンに上がった。 高空籠城129日間、会社は労働組合を崖っぷちに追いやり、盧武鉉政権は沈黙した。

そしてその短い期間に、政府は多くの労働者たちを監獄に入れた。 盧武鉉政権就任から7か月で、拘束された労働者は110人に達した。 二日に一人の割合で労働者が拘束された。 盧泰愚(ノ・テウ)政権と金泳三政権の最初の年に拘束された労働者はそれぞれ80人と87人。 「知ってる奴の方が恐ろしい」という古い言葉を骨に凍みるほど痛感した時代であった。

盧武鉉大統領閣下! 労働者の境遇を売って得た権力の味は蜜の味ですか?」 キム・ジュイク烈士の死後、釜山駅追慕集会の演壇に上がった民主労総釜山本部のキム・ジンスク指導委員が尋ねた。 釜山駅を埋めた人波の中から再び嗚咽があがった。

われわれが忘れた改革大統領

「声帯が破れんばかりに人が死ぬと声を張り上げてもびくともしない。 高空籠城の129日間、政府は何もしなかった。 チャンス先輩が死ん、その時初めて動いた」。

キム・ジュイク烈士の死から14日目の10月30日。 韓進重工業のクァク・ジェギュ烈士が深さ11メートルのドックに身を投げた。 半月で二人の烈士が出てきた。 その時初めて会社と政府も動き始めた。 もうひとりの韓進重工業労働者は 「二人が続けて死に、政府が会社を圧迫し始めたと理解している」と説明した。 その年、韓進重工業支会は労働組合の要求の多数が反映された団体協約を勝ち取った。 二人の労働者の命の代価であった。

変わらないのもあった。 労働者たちに対する強行策。 政府の労働政策はよほどのことがなければ変わらない。 キム・ジュイク、クァク・ジェギュ烈士の死後、盧武鉉元大統領は労働界への鋭い批判を止めなかった。 その年の11月5日、盧元大統領は 「今のように民主化された時代に、目的を達成するための闘争手段として労働者の焼身が使われてはならず、 自殺によって目的が達成されることがあってはならない」とさらに強く批判した。

彼の発言をきっかけに、労働者たちがソウル都心に集まった。 警察が鎮圧し、衝突が起きた。 労働者たちは火炎瓶と鉄パイプを持ち、警察は盾と鎮圧棒を持った。 盧元大統領はまた労働者たちに責任を負わせた。 彼は「民主労総はもはや労働運動団体ではない」、「暴力デモでは解決しない」と釘をさした。

「歴史を見れば未来が見えないでしょうか。 私たちが政治家を信じる理由はありません」。 129日間、85号クレーンのキム・ジュイク支会長に食事を運び続けたある組合員が話した。 10数年前の歴史が彼にはまだ生々しい。

現実のトンネルがソルバ山墓地ほどに遠く見えます

盧武鉉氏が大統領になった時、とても信じていたようです」。 91年に疑問死した韓進重工業パク・チャンス烈士の父親が慎重に話を始めた。 盧武鉉元大統領は91年、 パク・チャンス烈士の死亡当時に「死因究明真相調査団」で活動した前歴がある。

真相調査団は継続的に他殺疑惑を提起したが、事件は26年間迷宮の中をぐるぐる回った。 2003年の盧武鉉大統領当選後、「今度は明らかになるだろう」と期待もした。 だが何も変わらない。 「政権が変わっても変わることはないのです。 ただ後になって、とても後になって世の中が変われば、その時にやっと明らかになるでしょう」。 遺族が待っているのは「政権」ではなく、約束のない遠い「未来」だ。

もう85号クレーンはない。 2011年のキム・ジンスク指導委員の85号クレーン高空籠城後、 会社はそのうんざりする痕跡をなくした。 改革大統領の労働弾圧も忘れられて久しい。 今、残っているのは整理解雇と損賠仮差押え、そして労組弾圧だけだ。

キム・ジュイク、クァク・ジェギュ烈士は梁山のソルバ山公園に埋められた。 人跡稀な平日の午後、彼らが眠る墓地を訪れた。 労働者たちが残した手紙が透明のプラスチックの箱に溜まっている。 誰かは「元気に暮らしているか、最善を尽くして闘争しているか、自分を振り返ります」と、 別の誰かは「烈士の前で恥ずかしい」と、 さらに別の誰かは「現実のトンネルがソルバ山の墓地ほど遠く見える」と話した。

韓進重工業のパク・チャンス烈士も、キム・ジュイク烈士も、クァク・ジェギュ烈士も、チェ・ガンソ烈士も、みんなここに埋葬されている。 そしてその横には新しい烈士たちの墓が生じ続ける。 チェ・ガンソ烈士の墓地の横にはサムスン電子サービス労働者、ヨム・ホソク烈士が眠っている。 全く同じ願いを持っていた人々だ。 烈士が死んでも守ろうとした闘争の広場。 われわれは今その闘争の広場のどの辺をうろうろしているのか。

Episode. 3-4
募金はしないでください。
全部非正規職ですから

2005年11月24日、汝矣島広場が血で染まった日。 コメの開放に反対してデモをした農民は、警察の暴力鎮圧のために気を失った。 その日、汝矣島広場にいた農民チョン・ヨンチョル烈士も警察の盾で暴行された。 後頭部にアザをつくり、目がはれ上がったまま、なんとか帰郷バスに乗った。 すぐに意識がはっきりしないまま嘔吐し始めた。 9日後、彼は死亡した。死因は頭部損傷だった。

まだ疑問だ。なぜやったのか

「まだ疑問だ。1001機動隊が大規模に投入され、容赦なく農民を殴った。 ウサギ狩りみたいに強硬鎮圧をした。 大多数の農民が盧武鉉に期待していたのにね。 ヨンチョルがそうして犠牲になった。 チョン・ヨンチョルだけか。 盧武鉉政権の時は烈士がとても多かったよ。 良いヤツだったけど」。

チョン・ヨンチョル烈士と共にきのこ農業をしていた同年齢の友人、キム・ヨンソク氏が話した。 保寧農民会舟橋面支会長だったチョン・ヨンチョル烈士。 キム氏は昨年、ペク・ナムギ農民の死を見てチョン・ヨンチョル烈士のことを考えた。 思い出したくない暴力の現場、そして似たような死。

「1か月以上、ヨンチョルは葬儀ができなかった。 私は大川駅に大きな焼香所を作り、そこで真相究明闘争をした。 ペク・ナムギ農民の時も警察が死因を歪曲して真相究明を防いだだろう? ヨンチョルの時も同じだった。 十何年が経ったが、責任者は処罰もされなかった。 盧武鉉大統領が対国民謝罪をして、主な警察の幹部は辞職した。 しかし当時、警察庁長官だった許准栄(ホ・ジュニョン)は辞職しても、何も悪くないと言った」。

許准栄元警察庁長官は、 2009年に韓国鉄道公社社長として華麗に復帰した。 検察は3年後に起訴を中止した。 彼は最近、龍山駅勢圏開発事業の支援金を横領した容疑で懲役刑を宣告された。

烈士が多いことが問題

期待がなかったわけではない。 キム氏は16代大統領選挙で盧武鉉候補に投票した。 ほとんどの農民もそんな期待があったという。 だがすぐに農業政策だけは過去の政権と違いがないということを悟った。 期待が失望に、失望が怒りになり、通りを襲った。 農作業を終えた農民はソウルに上京して大規模闘争を繰り広げた。 生きたくて闘争をしたが、同僚は遺体になって戻ってきた。 もう誰かに期待を持つことは恐ろしい事になってしまった。

「文在寅(ムン・ジェイン)が大統領になってもたいして変わらない。 文在寅だけだろうか。 この国の亜流はみんな頑固な開放論者だ。 チョン・ヨンチョルがコメ開放に反対して死んでから、もう10年を超えた。 しかし何一つ変わったものはない。 むしろ今はコメの優先支払い金を還収している。 これは農業問題では副次的だったものが主要争点になったものだ。 どの政権も、農業の認識は全く同じ。 農民は国民の一部ではないんだ。 物で言えば『抱き合わせで売る付属品』だ。」

山川が二回変わり、烈士が増えても新しい世の中はこなかった。 キム氏は朴槿恵弾劾の知らせにも、あまりうれしくない。 1600万人のキャンドルも、大統領弾劾も、農民の人生を変えることができないという直感のためだ。

「1987年の6月抗争の時も、せっかく炊いた粥を犬に食われてしまった。 民主主義の完成にはまだわれわれの課題が多い。 農民はそもそも希望もない。 子供たちに『農業をしろ』と誇らしく話せません。 国家の政策はいつも大農中心だ。 小農が脱落し、年配の人が頑張れず、ますます金持ち中心になる。 盧武鉉政権もコメ開放、FTAで世界の資本から自由ではなかった。 それで民衆は激しく抵抗し、烈士は増えて…。 烈士が多いということが問題だ。」

そして、烈士ホ・セウク

韓米FTA交渉が進められていた2007年4月1日午後、ソウルのハイアットホテルの前。 ある男性が「盧武鉉政権退陣」、 「韓米FTA廃棄」とシュプレヒコールをあげながら自分のからだに火をつけた。 服は真っ黒に燃え上がり、顔は形もわからないほど焼け焦げた。 その男性は救急車で運ばれながらも盧武鉉政権退陣を叫んだ。 その日、焼身で死亡した男性はタクシー労働者、ホ・セウク烈士だ。

ホ・セウク烈士は死ぬ前、同僚に 「タンスに手紙があるので取り出して集会の時に読んでほしい」と願った。 手紙を発見した同僚は、不安な気持ちで民主労総にこれを知らせた。 民主労総はホ・セウク烈士に電話をかけ、 「会って話そう」と言ったが、彼を防ぐことはできなかった。

ホ・セウク烈士は遺書で「亡国的韓米FTAを廃止しろ。 屈辱拙速反民主的な交渉を中止しろ」、 「募金はしないでください。全部非正規職ですから」という最後の要請の言葉を残した。

ホ・セウク烈士と10年以上、同苦同楽したハンドク運輸分会のユ・ジョンデ副委員長は、 ホ・セウク烈士の死に気づけなかったことが恨めしい。 酒一杯一緒に飲むたびに「タクシーをやめたい」と話していた烈士の言葉が、なぜか胸に残る。

「今考えてみると、その言葉は焼身するという覚悟ではなかったか、という気がする。 弱者の側に立つことを自負心で感じていた人だった。 セウク先輩は本当にすごかった。 タクシーの仕事は本当につらいから。 仕事が終わって眠ることもできなかったはずなのに、常に広場に出て行った。 青瓦台の前でよく1人デモもしたし。 いつも先頭に立つスタイルだった。 民主労総の宣伝ビラも市民に配るためによく街頭に出て行ったし」。

彼が所属するハンドク運輸労働組合は、韓国労総の事業場だった。 ホ・セウク烈士は組織形態を民主労総に変更する時も積極的だった。 だからホ・セウクにとって「民主労総組合員」という名札は誇りだった。

「労働界もずいぶん変わったでしょう? 国会で声をあげることも重要だが、弱者のために戦うことも重要です。 セウク先輩は常に弱者へと向かう民主労総のスローガンが好きだった。 それで遺書にみんな非正規職だから募金しないでくれと書いた。」

「あの世に行っても黙黙と着実に、民主労総と共に仕事がしたい」。 ホ・セウク烈士が遺書を通して残した最後の望みだった。 [ワーカーズ29号]

付記

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2017-04-02 13:39:32 / Last modified on 2017-04-04 05:37:01 Copyright: Default

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