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救助の悪条件、山道は不公平だった不安定労働が山に登った、貧困が見えた(2)
パク・タソル、ユン・ジヨン記者 2016.06.22 14:36
エピソード2. 構造の悪条件、山道は不公平だったパキスタンのグレートタワー西壁をのぼって墜落した。 絶壁の下に落ちていればすでに死んでいた。 運良く助かって山登りをした。 最初にグレートタワー西壁登頂(初登頂)の記録を残した。 チョラツェは結局彼を許さなかった。 崩れてきた雪と共にチョラツェ北壁から墜落した。 負傷と死闘を繰り広げ、頂上まで400メートル残して戻ることにした。 下りの道はとても苦しかった。 ヒマラヤはいつも彼の喉をきわどく締め付けた。 彼は自ら良い運命を持って生まれたと考えた。 もうこれ以上の遠征は不可能だと感じた時、彼はヒマラヤが助けた命で他の命を救い始めた。 そのようにして山での新しい人生を始めた歳月も、すでに10年だ。
▲写真/キム・ヨンウク 人の命を助けることファン某氏(49男)の人生にはいつも山があった。 山がとても好きで、いい大企業まで辞めた。 長くは3か月位の遠征登山に行くには、安定した職場は不可能だった。 アルバイトを転々としながら金を貯めた。 ある程度の金ができると荷造りをして、遠征に行った。 登山家としての人生は12年間続いた。 そうしているうちに他の生活の可能性が見えた。 私が上手にできることを着実に続けて行ける生活を送りたかった。 登攀隊長という呼称を捨てて彼が選んだ人生は、国立公園安全管理班職員だった。 乱暴に変わってしまった山の中で人の命を救うのが彼が一番うまくできる仕事だった。 険しい岩壁で形成された北漢山は、登山家のメッカだった。 それだけ大事故の頻度が多かった。 かなり長い間、北漢山で働き、40〜50件の死亡事故を処理した。 自殺もあったし、墜落もあった。 普通は1年に4〜5件の死亡事故が発生し、多ければ10件もの死とぶつかった。 墜落死で二人が同時に死亡した事件はたびたび記憶によみがえった。 恐ろしい人の死体を見ることはなかなか慣れなかった。 「墜落死は、肉体が全てくっついていることは殆どありません。 身体が分離したり、どこかが裂けてしまったり... 事故を収拾して家に帰れば悪夢を見ます。 ご飯も食べられず、気力もなくなります。 トラウマに苦しんだりもします。」 明らかに死亡事故現場を収拾する作業は耐え難い仕事だった。 だが死の門の入り口にしがみつく人に手を差し出すのも彼の業務であった。 事件が発生すれば国立公園事務所や119状況室に事故申告が入ってきた。 そうすると現場に近い安全管理班が最も早く事故現場に出動した。 1次応急処置をした後、119救助隊が到着すれば共に救助作業を始めたりした。 渓谷から墜落した登山客をなんとか救助して命を救い、各種の危険に直面した人々を無事に下山できるように助けた。 墜落と凍傷、遭難、骨折、脱力、心臓マヒなど、多くの危険から人を救った。 事故が起きないように早く手を回すのも重要な業務であった。 探訪路施設の安全点検や保守作業は、安全管理班の役割だった。 危険を予防して遮断することは、彼が一番貴重だと思う作業の一つでもあった。 「事故の頻度が高い事故多発地域があります。 そこに墜落防止施設を設置することもします。 もし墜落地点で事故がおきても、死亡には至らないようにするんです。 前に北漢山で七か所に直接作業をしました。 その後、そこでは死亡事故が起きません。満足です。」 不公平で寂しい山道を上がる人々彼は危険に直面した人々を担いで引き上げた。 すべて険しい山の中での救助作業だった。 危険から人を救うために、彼は危険を押し切らなければならなかった。 大きな事故にさえあわなければ幸いだった。 各種の負傷は彼のからだから離れるとは思わなかった。 働けば働くほど、彼のからだはすりへっていった。 2年前、100メートルの渓谷から墜落した登山客を救助して肩に怪我をした。 負傷の後遺症は苦痛だった。 「100メートル下に墜落したのに幸いにも助かりました。 しかし問題はヘリコプターが接近できない所だったことでしょう。 119救助隊と私と同僚、このように三人が彼を引き上げました。 80キロほどの巨体を100メートルほど引き上げて、肩を傷つけました。 まだ後遺症が残っています」。 7年前には人を担架にのせたまま険しい山を降りてきて腰を痛めた。 数千日、山を上がっては下りる間、膝の軟骨はすりへってしまった。 10〜15キロもの救助装備は事故現場に出動する彼の背中と肩を押さえ付けた。 彼が空しく笑いながら話した。 「衝撃がずっとからだに蓄積しています。 救助という仕事は気を奪われる仕事なんです。 もう以前の新鮮だったからだではありません。」 いつのまにか安全管理班職員として働いて10年になる。 その歳月の間、山川も変わり、彼のからだも徐々に変わっていった。 班長という職責も得た。 だが変わらないこともあった。 彼は昔も今も相変らず無期契約職の身分だった。 契約職と比べて雇用不安は少ないが、処遇は相変らず契約職から抜け出せない、おかしな職級。 昇進もなく、賃金体系も正規職とは違った。 10年間働いても彼の月給は200万ウォンを越えなかった。 一緒に働く同僚は、処遇に耐えられず職場を辞めた。 「離職率が高い。 報酬が少なくて昇進もなく、正規職転換もできません。 若い人たちには耐えられません。」 その上に彼は期間制非正規職から無期契約職に転換できたので運が良い方だといわなければならないだろう。 彼と一緒に国立公園事務所で働く5人の安全管理班員と災難救助隊のうち4人は、みんな1年分契約職だった。 以前の職場では安全管理班28人のうち20人が契約職だった。 安全管理班で働くためには各種の資格証明を取得しなければならず、経歴も備えなければならなかった。 技術と経歴を持って持続的な業務を遂行するのに、彼らは契約職身分から抜け出せなかった。 1年経てば再契約をして、月給は上がらなかった。 「全く同じ仕事をしても差別を受けます。 いくら仕事をしても正規職どころか無期契約職にも転換されません。 そのうちに職級間の関係、人との関係で大変な場合もあります。 私が望むのは同じように働けば同じ処遇を受けるようにしてくれということです。」 彼が働く国立公園事務所の職員の60%ほどが非正規職だ。 安全管理班、災難救助隊、緑色巡察隊、自然環境解説士などの名前を持つ労働者たちだ。 彼らの労働はいつも非公式な探訪路の中だけでうろうろとする。 山道で働いても、まさに彼らが頂上に到達できるような道はない。 人が勝手に作った山道は、不公平で寂しいものでしかない。 エピローグ彼は殺人犯の家族であり、殺人被害者の遺族だった。 死んだ兄弟を思い出し、兄に対する怒りを注ぎつつ、すぐ憐憫の感情に捕われてどうしていいか分からないといった。 「罪を犯したのだからどんな刑罰でも受けなくてはね。 兄弟の立場としてはとても悪い奴だけど、それでもお母さんが生きていれば憎んだか、そんなことも考えて...」 彼の背中の向こう側で、不格好な木でごちゃごちゃと作ったチャン氏の家が見えた。 どんよりして薄黒い木造住宅とは似合わない青い屋根が陽光を受けていた。 彼は兄と弟が消えた家で一人で屋根を直した。 恐ろしい事件が起きた現場だったが、お母さんと兄弟と一緒に暮らした故郷の家でもあった。 屋根が抜けた故郷の家を奇怪な姿で放置することはできなかった。 屋根を直すまでは故郷にいることにした。 「兄が数年の刑を受ける間に住む家がなくなればいけないし。 他の見方をすればまた兄がこの家に戻るのは絶対なくて。 それでもお母さんの家だから。 つまらない田舎の家でも直して置くべきではないでしょうか。 実はそうでもしなければ気持ちが落ち着かない...」 荒れ果てた家を整理するたびに、死んだ妹の人生が、そして殺人者になった兄の人生が目の前によみ返った。 妹は昨年ではハングルを少しずつ書き始めた。 彼女のたどたどしい文字が書かれたノートと絵の練習をしたスケッチブックはとうてい焼くことができなかった。 家の隅々には兄が飲んでいた酒ビンがあふれ出た。 酒のビンは積もりに積もって、麻袋二つになった。 冬の間、ずっと酒のビンを握りしめて寒さに耐えた兄を思い出さば、心が崩れ落ちた。 「昨年冬にボイラーが爆発したそうだよ。 死んだ妹を安東の弟の家に送って、自分ひとりでその寒い家で冬の間、酒で眠りました。 ここは5月になっても夜は火をたく所です。 火がない部屋で越冬するというのは...」 誰も兄の人生に手を差し出さなかったという事実が一番つらかった。 ボイラーさえ修理していれば、誰かが手を差し出してくれさえしていれば、 こんな恐ろしい事件は発生しなかったという未練も彼を苦しめた。 いい雇用がない田舎の村で、チャン氏は山火事監視員のような季節職労働をした。 日雇いでやっと労働をしたが、それさえ安定した職場ではなかった。 季節が変わるたびに別の仕事を探して転々とした。 自分が妹の手足だという事実を知らないわけではなかったが、 どうであれ金は稼がなければならなかった。 彼の労働と人生は色々な面で不安定だった。 「妹のそばには人がついていなければなりません。 大小便も処理できない程、障害が重かったのです。 兄が働きにでかければ妹が明かりをつけたり。 いつも兄が驚いて行き来するのに、まともに仕事ができるでしょうか。」 深くしみる憎しみをふりきれないまま、彼は拘置所に収監された兄と面会した。 なぜそうしたかという問いに兄が答えた。 「からだが痛かった」と。 悲しみと怒り、くやしさがこんがらがる。 「自分ひとりで死んでしまえば、残った妹が哀れだから。 家を出た弟に負担を与えないために... あの子も殺して、自分も死のうと...」 兄は死んで生き返った。 令月道立病院に運ばれたが、危急だという診断を受けてヘリコプターで原州セブランス病院に移送された。 昏睡状態だった兄がかろうじて目を開いた。 兄はもう罰を受けるようになるところだ。 そして兄さえ罰を受ければ終わる事になった。 事件は田舎の村で起きた数奇な事件ほどに、簡単に終わりつつあった。
(ワーカーズ15号2016.06.22) 翻訳/文責:安田(ゆ)
Created byStaff. Created on 2016-07-08 08:52:45 / Last modified on 2016-07-08 08:52:48 Copyright: Default 世界のニュース | 韓国のニュース | 上の階層へ | |