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「1か月でも双竜車工場に戻りたい」

[インタビュー]定年1年前の双竜車懲戒解雇者パク・イル氏

シム・ヒョンホ メディア忠清記者 2012.01.28 21:31

双竜車支部希望テント村の最高齢者は、来年定年退職を控えている整備支会の 組合員、パク・イル(58)氏だ。彼は2009年整理解雇リストにない『生きている 者』で、88年入社以後、一度も労働組合の幹部をしなかったのに、玉砕ストに 最後まで参加したという理由で懲戒解雇処分を受けた。

1998年のIMFの時に双竜自動車が大宇グループに買収され、また2000年に大宇 グループから分離、2005年に上海車に売却され、2010年にはマヒンドラに買収 されるという、うず巻きのような過程で整備支会は大きな変化を経た。

最大の変化は、修理センターのアウトソーシングだが、本社直営で運営された 全国10数ケ所の事業所は、ソウルだけを残しすべて整理された。この過程で 1200人ほどの労働者のうち、1000人ほどが会社を離れなければならなかった。

「IMFが始まり、大宇になって、それが出て行き、アウトソーシングされ続けて 組合員が減り続けました。悪い奴等だとしか考えられませんでした。結局上海 車まで来ましたが、同僚と後輩のために最後まで残るつもりで粘りました」。

彼は長い間、双竜車が作った自動車を修理して生きてきた整備のベテランだ。 そんな彼の機械整備経歴は驚くべきことに17歳の時に始まる。浦項で生まれ、 機械中学を卒業した後、すぐソウルに上京して全国の建設現場を歩き回り、 機械整備を習い始めた。

「中学校の卒業式にも出ず、すぐ重機整備の技術を学ために会社に入りました。 嶺東高速道路、湖南高速道路などを歩き回り、整備技術を習得したのですが、 6年間ほどはそうして歩き回っていました」。

「軍隊でも特技を生かして車両の整備をしましたし、除隊してもまた外国に出 て行って、機械整備をしました。サウジアラビア、リビアも行ったしサイパン で米海軍基地の浚渫工事する所にも行ったし、良いところばかり選んで行って きたようです(笑)」。

そうして国内と海外を飛び回って働いてきたパク氏が最終的に選んだ職場は、 双竜自動車ソウル九老整備事業所だった。彼が入社した88年の双竜自動車は、 コランドフアミリーの生産で、国内唯一の4輪駆動生産メーカーになった時だっ た。だから当然、業務は多かったが強い労働組合のおかげで現場の雰囲気は良 かったという。だが今はそうではないと説明した。

「その当時、労組はすばらしいパワーを持っていました。87年以後という時期 もそうですが、本来、双竜車は入社と同時に組合員になるユニオンショップで もあります。そして87年に労働組合ができました」。

「しかし今の現場はめちゃくちゃです、8.6合意以後、工場に新しくできた企業 別労組があらゆる事を変えました。団体協約で不当解雇後に復職して受ける金 も削り、整備支部長は専従者になるべきなのに今は仕事をしています...現場が 完全に最悪の状態です。完全に御用だと見なければなりません」。

77日の思い出

双竜車が整理解雇リストを発表した2009年、パク氏は定年退職をわずか5年残し ていた。一度も労働組合の幹部をしたこともない彼が、77日間の玉砕ストライ キに飛び込んだ理由は、単に労働組合の『組合員』だからだった。

「組合員だから入りました。工場には私より高齢な組合員もいましたが、整理 解雇の対象ではない人の中では私が一番年上だったようです」。

そして12人で構成された『職』に責任を持つ『職長』として、彼らと連帯しな いわけにはいかなかった。12人のうち5人が整理解雇対象者だったが、みんなで 玉砕ストライキを始めた。『生きている者』と『死んだ者』の差はなかった。 皆が組合員だったからだ。

「後悔はありません。考えてみれば8月3日(警察、用役、救社隊が塗装工場に入 ろうとした一日前)ぐらいに、先に出てはいけないかと冗談で聞くと、『先輩、 もう終わりです』と言われました。その時出て行けば、多分懲戒解雇されずに 働いていたでしょう。それでも後悔はしません」。

「家族には少し申し訳ありません。平沢工場に入った時は、家族は特に何も言 いませんでしたが、工場の外で会った時は危険ならすぐ出てこいといわれまし た。それでも出て行きませんでした」。

  1. 6合意で、双竜車労使は『直営整備事業所および関連部品マーケティング一部 に対する分社計画は撤回する』と約束した。だが使用者側は合意後すぐ、残る 4つの直営整備事業所のうち3箇所をアウトソーシングする。すでにその時から 8.6合意は破られ始めた。

1か月働くだけでも、ぜひ復職したい

パク氏は現在、懲戒解雇に関して、解雇無効訴訟を進行中だ。中央労働委員会 で不当解雇を認められたが、結局行政2審まできた。1月16日にソウル高等法院 306号で使用者側弁護人に雇用された『キム&チャン』ローファームと会った。

「背筋が寒くなりました。あいつらはパワーがあるでしょう? 間違ったのでは ないかと思いました。技術流出裁判も使用者側がセジョンを付けました。会社 は法的対応に巨大ローファームを雇って金を使うのを見ると、ストライキした 人は絶対受け入れるつもりがないということに思えます」。

「私たちは、ソウル整備事業所に車の修理で入っても、闘争チョッキを着て入 ることはできません。中央労働委員会で勝って初日、事業所に一度入れてもら いました。上京して現場巡回を一度したのですが、その翌日からはまったく入 れず、正門で揉み合いになって追い出されました」。

整備支会の懲戒解雇者は、先月から平沢工場前の希望テント村に集まっている。 ソウルにいた時は、毎日事業所の前で出勤闘争をして、他事業場の連帯に通っ たが、今は力を集めなければならないと判断したためだ。

特に、パク氏は今一番重要なことは、また組合員を団結させることだと考えた。 77日間の玉砕ストライキで固く団結した組合員が、使用者側から無給休職者、 希望退職者、懲戒解雇者などに分断されたためだ。会社による労働者間の分裂 は、生計の差別につながった。

「とにかく残念という気持ちが一番先です。支部が玉砕闘争の後、懲戒解雇者 に通常賃金の100%を1年間支払い、整理解雇者にも1年間一定の金が出てきたが、 無給休職者には全く生計費が出ませんでした。今考えれば、その時、無給者と その金を分けなければなりませんでした。その時は私たちがそんなことは考え ることができなかったんです。労働界でもこんな前例がなかったので誰も考え られなかったのです」。

「使用者側が無給者に四大保険は残しましたが生計費がないので、ものすごく 苦労しました。支部がもし金を分けていたら、もっと闘争を積極的にできたの ではないかと思います。もちろんその時、金を分けても問題はあったでしょう。 金は限られているからです。でも、その時、そうして金を分けていれば、今の ように感情の谷は深まらなかったでしょう」。

希望テント村に集まった金属労組双竜車支部組合員は会議をしながら「来年は 必ずパク・イル先輩を復職させなければならない」と話したりする。パク氏も 1か月でもいいから工場で働きたいと言う。

「年を取って大変だねと言って、家族はやめろと言います。それで昨年は、 1年で止めるといったのですが、今年は裁判もあってもっとやると言い聞かせ ました。事実、解雇されて妻と子供に対して自尊心が傷ついたこともあります。 それで1か月だけでもぜひ工場に戻りたいです」。

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2012-01-29 04:13:25 / Last modified on 2012-01-29 04:13:41 Copyright: Default

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