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「社長たちは労組嫌悪症患者ですから」

[パク・ビョンハクの文を書く暮し]コルト-コルテック、ハイテク高空座り込み9日目

パク・ビョンハク/ 2008年10月24日15時12分

私はそれほどからだも強くはないが、心もかなり虚弱だ。以前は集会に行って も人の顔を真っすぐ見ることができなかった。道路を埋めた労働者と農民を見 ることがとても苦しかった。戦闘警察が攻め込み、労働者と農民を殴り倒す姿 を見たわけでもない。彼らはどうして地方から苦労してソウルに来て、アスファ ルトの上で座り込むような苦労をしているだろうか。それぞれ何か事情があっ て、何かがくやしくてくやしくて、ここまできたのだろうか。そう考えてみる と、とてもつらくて耐えられなかった。それで一緒にきた人に何も話さず、こっ そり集会を抜け出して逃げるように家に帰ったりした。ゆったり身を伸ばして 横になる家が待っているという事実も私を困らせた。かなり長い間、私は集会 に出て行けなかった。

軍隊に行ってから、そうしたことはとても少なくはなった。いくら胸が張り裂 けそうでも、いったい現場で何が行われているのか、最後まで見なければなら ないと思った。文を書く人は、自分が見聞きしたことで動揺してはいけないと 思った。私は努力し、いつからか集会の途中で逃げるように抜け出すことは殆 どなくなった。

本当に久しぶりだった。私はコルト-コルテック、ハイテク高空座込場で組合員 の話を聞いていると、取材も何も、みんな途中でやめてよそに逃げてしまいた くなった。私が耐えられる話ではなかった。2008年10月23日という日が信じら れなかった。1970年代の労働運動史の本に書かれているような、本当に果てし なく劣悪な現場で彼らは今まで働いてきたのだ。私はタバコを吸いながらため 息をつき続け、組合員の話を全て書きとめることもできなかった。

しばらく送電塔を探して高空座込み場についたのは、夕方六時半ぐらいだった。 周囲はすでに薄暗かった。風雨が激しく吹き荒れていた。漢江公園は時々自転 車に乗った人々が通り過ぎるだけで、散策する人もほとんどいなかった。漢江 と自転車道路の間にある補助施設には、コルト-コルテック、ハイテク組合員が 作ったピケと横断幕がいっぱいかけられていた。雨にぬれた宣伝物を見てから 送電塔を見上げた。ハイテク支会長とコルテック支会長がいるという遥かな高 みに、長く縦にぶら下げられた横断幕が風に吹かれてはためいていた。救急車 と119車両が送電塔の付近にいた。

▲組合員たちはビニール テントに集まって座って夕食を食べていた。

組合員たちは、ビニールテントに集まって座って夕食を食べていた。私は、お ずおずと近付いてあいさつし、チャムセサンから来たといった。激しい風雨が ビニールテントの中にまで、しきりに降り込んできた。テントとは言っても、 実際は四方が広く空いた空間だった。雨水が溜まり、ビニールがたびたび落ち るため、いつもビニールを上げて水を抜かなければならなかった。

食事が終わり、ハイテク共対委の人と話すことができた。

「コルト-コルテックとはどう出会って、共同闘争をはじめたのですか?」

「他にも私たちと似た事情の事業場が多く、前から別のところと共同闘争を計 画していました。あちこち接触して、コルテックが私たちと連帯するという意 向を示したので、共に闘うことになったのです。97年に『天地』と『テグァン』 が九老工業団地で共同闘争をした後、私が知っている限り、韓国ではずいぶん 長い間、共同闘争はありませんでした。テグァンはハイテクの昔の名前です。 それで共同闘争の伝統をまた立て直し、そしてコルテックとハイテクの要求を 貫徹させる、その2種類の目標があるんです。たとえコルテックとハイテクが作 る物は違っても、長い間悪徳資本と戦ってきたし、民主労総金属労組に所属し ていて、また資本が本当に極悪非道だという共通点があります。結局、資本家 の姿はどこでも全く同じですから、1つの事業場だけの問題ではありませんから、 共同闘争で彼らにさらに強い打撃を加えようというところに意味があります。」

「私が聞いたのは、ハイテクで作っているのは無線操縦機だそうですが。それ はどのような物なのでしょうか?」

「模型自動車や模型飛行機を操縦して動かしたことがありますか? そのような 操縦機を作ります。」

「ア、鉄人28号に出てくるようなリモコンですか?」

「そうです。」

「今戦っている組合員の方は何人いるのですか?」

「13人です。はじめは100人ほどで闘争を始めましたが、7年間戦っているうち、 今では13人になりました。」

▲「13人です。はじめは100人ほどで闘争を始めましたが、7年間戦っているうち、 今では13人になりました。」

7年。2002年から始まった戦いだった。7年と言うがこれまでハイテク労働者が やらなかった闘争が果たしてあるかと思った。

「私たち組合員には、50代が1人います。ほとんどが40代と30代です。ですから 短くて10年、長ければ20年間働いてきた組合員でしょう。ハイテクがテグァン だった時期からです。」

「ハイテク本社がオチャンにあるそうですが、オチャンはどこにあるのですか?」

「忠北にあります。清州の近くに。元は九老にあったのですが、ハイテク本社 が2005年にオチャンに移転しました。生産ラインだけ九老に残して丸ごとオチャ ンに移ってしまいました。それも組合員が修練会をしている間にひそかに移転 しました。そして法人を分離しました。」

「法人分離というと......?」

「ええと、ですから他の社長をたてることです。生産ライン自体がハイテクと 別会社になるんです。それで『H&Mプロダクション』という会社ができて、ハイ テクは一方的に組合員にその会社に転籍をしろと要求しました。そこに行け。 基本給は払うから働くのはやめろ。それと共に2月から8月まで詐欺休業をしま した。それが何かというと、会社を廃業しても労組は絶対認められないという ことです。そして9月1日には正式に整理解雇通知をしました。会社はよく転籍 と言いますが、実際は転籍すると私たちの雇用は保証されます。しかし雇用保 証が問題なのではなく、転籍すると88年にできた労組が消えてしまいます。転 籍をしてみて下さい。そこでまた労組を作らなければなりません。会社自体が 変わるのだから。転籍すれば私たちはハイテク所属ではなくなりますね。それ で私たちが会社に要求した3項目があって、労組を認めろ、労組弾圧に謝罪しろ、 転籍以外に『転出』を認めてくれ。そう要求したら、もちろん社長は受け入れ ませんでした。転出することになると、私たちの所属はそのままハイテクです が、場所だけ別のところで働くことになります。しかし社長は受け入れません でした。」

「つまり会社が度々転籍を強要する理由は、労組をなくそうということですね?」

「はい。整理解雇撤回。民主労組死守。解雇者復職。この3つが現在の私たちの 目標です。転籍を転出に変えることは、結局労組活動を認めてくれという要求 でしょう。」

「それでは会社が詐欺休業をしていた時は何一つ生産されなかったんですか?」

「いいえ。その時は非組合員が働きました。国内にハイテク労働者は23人残っ ていて、そのうち13人が闘い、あとの10人が今九老工場で働いています。私た ちを整理解雇したので、残った労働者の労働強度はものすごく強くなりました。 前に九老に労組事務室があった時は8人で800個を作っていましたが、最近は4人 で1000個作ります。途方もありません。」

「国内.....と言いましたか? 外国にも工場があるんですか?」

「96年に初めてフィリピンに工場を建設しました。今は生産ラインのほとんど がそこに行っています。そこだけで労働者は450人程度? 国内には23人だけです から相手になりません。国内の労働者は低価品だけを作ります。10年間ハイテ クが黒字を出し続けていましたが、多分近い将来、国内工場を廃業して生産ラ インをすべてフィリピンに移して行くでしょう。」

結局、闘争事業場のどこに行っても聞く話をまた聞くことになったのだった。 死んでも労組を認めないと言う資本家と、死んでも労組を死守するという労働 者の戦いは、いつも労働者に不利な方に流れる。なぜ? 資本家の手には金があ り、背中には警察がいるからだ。労働者はそれこそ素裸で戦わざるをえないか らだ。

取材にくる前に、インターネットで記事を検索して読みながら、私一人で書く 文には、ハイテク組合員たちがこれまで体験してきた多くの事をほんのわずか も表現できないと考えた。私たちが知っているいわゆる『進歩的』なニュース サイトに接続して『ハイテク』を検索してみよう。数年前の記事からすぐ数日 前の記事まで、少なくない記事が出てくる。その多くの理由と痛みを私が今書 いている文の中に何行かで要約することは、難しいとか簡単だとかを離れて、 本当に申し訳ないことだ。組合員たちは、8月末にオチャンのハイテク本社にテ ントを張り、救社隊にむち打たれて踏みつけられながら、最後まで抵抗した。 裁判所は明らかに組合員が自由に工場に出入できると判決をしたのに使用者側 は正門を完全に閉鎖してしまった。カードのような物を差し込まなければ入れ ない電子錠鎖を設置したし......

記事を読みながら、こんな生き方ではいけない、そんな考えしか浮かばなかっ た。ハイテク組合員全員が精神疾患を抱えている労災患者だという事実は何を 意味するのか? 7年という間、闘ったという事実は何を意味するのか?

「コルテックであれハイテクであれ、社長は労組嫌悪症患者ですからね。10億 かかろうが20億がかかろうが、絶対労組をなくすんですって。」

その言葉は正解だった。狂った人が剣舞を舞うように暴れる資本家数人のため に、いかに多くの人々の生がつぶれ、めちゃくちゃになったのだろうか? 7年と 言うが、7年間、どれほど多くのことがあったのだろうか? 闘争を始める頃には 娘だった組合員が、今は子ども二人を持つ母になったという。

「ところで座込み場で寝る人はどこで寝るんですか? ここはとても寒いと思う んですが......」

「向うにテントが三棟あります。普段常駐している人は15人から20人程度です。 本来はテントを送電塔の真下に張りたかったのですが、漢江公園の管理者が 『外観上良くない』と張らせませんでした。それで向うに張りました。」

「送電塔の上にいる方々は...... 寒くないでしょうか?」

「風は半端ではありません。上に電話をかけると風の音はほとんど台風なみに 聞こえます。その上今日は天気もこれで...... 心配です。」

「上では何がどんな形で設置されているんですか? 二人には狭くありませんか?」

「狭くはありません。鉄骨に木の板を当てて、マットを敷いて、上はビニール で覆いました。やっと二人が横になれる広さです。」

「テントや高空座込み場侵奪の試みはなかったんですか?」

「今まではありません。ここが都心のまん中ではなく、ちょっと静かなところ で、使用者側や警官が『そうか、君たちが好きなようにしろ』と考えているよ うです。ただし私たちが川の北側に横断幕をちょっとかけるとどういう理由か 度々盗まれましたよ。」

「会社と交渉は継続試みているのですか?」

「高空座り込みを始める一週間前にも交渉が決裂しました。表面では、会社は 私たちと交渉すると言っていますが、実際に私たちの要求は一つも受け入れま せん。労組を認めろ。転籍ではなく転出にしろ。しかし実際に交渉になると、 会社は相変らず転籍を強要して労組を認めるまいとするばかりです。その上、 交渉に来るとしても、私たちが労働部や国家人権委員会で騒いで、会社が交渉 に出てくるように圧迫したからでしょう。ですから私たちは近い将来、日本に 遠征闘争に行くつもりです。」

「日本に何があるんですか?」

「ハイテクは、米国、日本、ドイツに販売法人を持っているのですが、日本の 販売法人がかなり大きいのです。そして日本は別のところよりもロボット産業 も発達していて、人々の関心も高いのです。ハイテクで作っているのがロボッ ト産業とも関連があり、日本でロボット産業の従事者にハイテク資本の蛮行を 知らせるつもりです。今、韓国ではこんなことが行われている。表面では毎年 黒字を記録している企業だが、実は労働者を獣のように扱う悪徳資本だ。私た ちは、日本の鉄道労組の人とちょっと親しくて、そことも同じように連帯もす る計画です。」

10月24日金曜日の午後3時には、送電塔高空座込み場で結団式があるという。送 電塔に上がっているハイテク支会長とコルテック支会長は、その40メートル上 で削髪をするという。削髪する姿を下にいる仲間にも見えるように、何とか生 中継する方法はないかと私に尋ねてきた。映像については何も知らない私は、 何の助けも与えられなかった。

「ハイテクは本当にやらなかった闘争はありません。高空、断食、削髪だろう と......」

さっきより雨足が弱くなった。他の人と話していたコルテックの事務長がこち らにきて座った。大田労働庁を占拠したという記事の写真で見たことがある顔 だった。

コルト-コルテックは、パク・ヨンホという人物が所有する会社だ。ギターを作 る。コルト工場では電子ギター、コルテック工場ではギターを作る。コルトの 工場は仁川にあり、コルテックの工場は大田にある。コルト-コルテック本社は 登村洞にある。世界市場でのシェアは世界3位だという。ギターをちょっと知っ ている人なら誰でもコルト楽器を持ちたがるという。それで会社は途方もなく 金を稼いだ。その一方で、会社の事情が悪くなったと嘘をついて、一方的に労 働者を解雇した。昨年11月には解雇労働者の1人が仁川工場の中のテント座込み 場で焼身までした。そこまでが私が知る全てだった。

タバコを一服して事務長にちょっと話を聞きたいといった後、事務長はこれま で積もっていたものをすべて吐き出すかのように、本当に多くのことを話した。 そしてその内容は、私が記事で読んだこともないような鳥肌が立つ話だった。 私は熱心に手帳に書き取って、あまりにも悲しくて何度もボールペンを投げ出 したりした。実際に事務長が聞かせてくれた話のかなりの部分は書き取れなかっ た。私が悪い。チョ・ヘウォン氏がOhmyNewsに寄稿した文章を読んで、コルト- コルテックの労働現場が深刻に劣悪だという事実は大体知っていたが、実際に 現場で起きている事を一つ一つ聞くと、私が今どの時代に生きているのかすぐ わからなかった。チョ・ヘウォン氏は大田コルテック工場を振り返ってこのよ うに書いた。

『こんなことが。30年も前の話が、まるで映画のように、だが生き生きした現 実として自分の前に再現されていた。(中略)生産職労働者たちの40%が筋骨格系 疾患を抱え、59%は有機溶剤露出による職業病が疑われ、36%は気管支喘息、 40%は慢性気管支炎だとわかったというコルト楽器の労働者の健康状態を調べた 資料がむなしい言葉でないということを、その短い時間に全身で感じなければ ならなかった。』

コルテック事務長は力強い語調でこう話した。

「私たちは2年ほど戦ってきましたが...... びくともしない資本と相手にする には、どうしても集中して戦う雰囲気を作らなければと考えて悩みました。直 接的な打撃を資本に与えようということでした。しかし1つの事業場ではうまく 闘争ができません。人も多くなくて。それで長期闘争事業場どうしでうまいこ とやろう、そんな趣旨で別のところに共同闘争を提案したのですが、趣旨には 皆同意しても互いに条件が合わず、うまくいかなかったんです。そのうちに、 ハイテクと力を合わせることになったのです。金属次元で一度団結して、打撃 を加えてみよう..... 今共に戦っているコルテック組合員は30人程度です。平 均年齢は40代半ばから50代初めで、どうしても私たちだけで戦うには難しい点 が多かったんです。団結すればもっと集中して闘争できると考えました。」

ハイテク組合員が言う通り、コルト-コルテックとハイテクが力を合わせられた のは、共同闘争をせざるを得ないほど、あまりにも似たやり式で労働者を困ら せ、搾取してきた資本家のせいでもあった。単に弱い事業場二つが頭数を合わ せたのでなく、単位事業場の資本家たち1人1人をそれぞれ区分して別々に闘争 していくことは、もはや意味を持たなくなったので、さらに大きな悪徳を打倒 するためにもっと大きな槌を取るしかなかったのだ。コルト-コルテック社長の パク・ヨンホやハイテク社長のパク・チョンソも、互いに知っているかどうか はともかく、結局グルだったのだ。

事務長は話を続けた。

「労働法というのは刑事法と違い、法を犯しても罰金刑しかないのです。とこ ろで金属の長期闘争事業場はどこも同じように莫大な売り上げがあります。コ ルト-コルテックだけでも10年連続100億台の黒字を出し、純利益だけでも80億 から90億です。ですからいっそ罰金を払うから労組は認めない、そう出てくる んです。」

「工場でギターを作っていると、とても騒々しくて粉塵もぼやけたように飛び ます。喘息に難聴に...... しかも一日中立って働くので足がはれて...... ギ ターのボディを整える機械がありますね。手で持ってやるのですが、それの振 動が激しくて、長く使っていると手の平に魚の目ができます。とても痛いです。 手術をしなければならないのに、労災の認定もしなかったんです。」

「工場には窓が一つもありません。薄暗いところで電灯一つで12時間、ホコリ を吸いながら働かなければなりません。窓があれば外を見ながらサボるかと思っ て四方をすっかり壁にしました。」

「不思議なことに、工場は給与体系ではありません。それで5年働いた人が1年 目の人より少ないこともあります。管理者の言葉をよく聞く労働者に慣行的に 金を多く払います。だから管理者にさっさと従うほかはないんです。」

「ギターを作る一連の工程があって、前工程が終わらなければ後の工程が進め られないようになっています。前後の工程が切れると8時出勤なのに6時半にも そのまま出てことと言います。朝から何の手当てもなく、ただ働くんです。そ して夜に仕事が残ると、そのまま残業をする。何の手当てもありません。」

「管理者のほとんどは若い人です。20代か30代なのですが、自分のお母さんや 叔母さんぐらいの女性労働者にこのアマ、そのアマとののしります。前の日、 残業だったので朝寝坊して、ちょっと遅く来ることもありますが、くると髪を 洗ってもよく乾かないまま出てくることもあるでしょう。ところで管理者たち はこうです。『このアマ。その頭はなんだ?』年齢がいくつでも、ただこのアマ、 そのアマです。『オイ、このアマ。大飯食らって何してるんだ?』若い管理者 がです。」

「辞表も自分たちの好きなように書けと言います。管理者が呼び出して『この アマ。辞表書け!』そう言って『いやなぜ私が書かなければならないんですか?』 と聞くと、『このアマ、お前が書かなければ他のアマが書くんだ。それでも書 かないか?』というんです。それで辞表は書くから本来支給される夏休暇の費 用10万ウォンはくれと言うと『このアマ、お前にやる金はないから消えろ。』 こう言います。」

「コルト楽器は全量が輸出と見られるので、IMFの時に大儲けしました。それな のに会社が苦しいという理由でボーナスが200%削減され、夏休みの時も10万ウォ ンも払わず、2年連続で賃金は凍結して...... 私たちはそれを信じていました。 会社が苦しいという声を信じて、さらに死ぬほど働きました。何も知らなかっ た時はそうでした。」

「偽装廃業しても2年、3年はびくともしないほど、社長はたくさん金がありま す。どんな損害をこうむっても労組は叩くということでしょう。」

「朝管理者が出勤すると、女性労働者に挨拶で尻をトントン叩いて行きます。 それも自分が見て可愛い労働者たちにはしても、嫌いな女性労働者たちは言葉 もかけず、相手にもしません。可愛い女性労働者には会食に誘い、そしてしつ こくくつきまとうのに、そうではない女性労働者にはまず疲れてやめたくなる ように困らせることが多いです。『トルリムパン』というのがあります。工場 が五つがあるのですが、一つの工場で仕事を習得する前に他の工場に配置して しまうんです。仕事に慣れたころには1か月もたたずに他の所に移れと。それで 人を回すんです。そんな形で五つの工場をくるくる回すのです。トルリムパン という言葉が出るだけで、労働者たちは悔しがります。実際に2005年にはある 女性労働者がとてもつらくて苦しくて、裏山で首を吊って自殺さえしました。 それほど困らせる理由はたった一つでしょう。ブスだから。」

「初め67人で労組を設立しました。その時、女性組合員は35人ぐらいでした。」

ひどいものだった。労働運動史を見れば出てくるトンイル紡績、清渓被服労組、 YH貿易労組といった名前が頭に出ては消えていく。ホコリが出る窓一つない現 場で一日中、人間的な侮辱に耐えて、つらい体で働く気持ちはどうだろうか? 私はあえて推察もできなかった。その上、セクハラまでされたら? それで支給 される賃金が雀の涙ほどだったら? 労働運動の現場で一生を送った元老労働者 が往事を回想して聞かせる話ではなかった。インターネットでキャンドル集会 を組織して、携帯電話で集会場所の連絡をする時代に、片隅では本当に『70年 代式』でいじめられ、弾圧される労働者が、あまりにも苦しい一日一日を暮し ていたのだ。

とても寒かった。雨は止んだが、風がとても激しく吹くため、私はコートをきっ ちりあわせなければならなかった。夜はとても寒くなりそうだから、上に下着 を上げよう、あげなければと、あちらで組合員が議論をしていた。天気もそう だが、送電塔に雷でも落ちたらどうするのだろう、と思うと、とても不吉な考 えのようで、すぐひっこめた。

時計を見た。もう八時半だった。江南聖母病院に行かなければならなかった。 あの裏のテントに行ってもっと話を聞きたかったが、私は暮しが見える窓のル ポ文学講座の受講生を連れて現場実習に来る土曜日を約束することにした。土 曜日の午前には、もっと多くの人を連れてまた来ると言ってそこを出た。

出るときにちょっと写真を撮った。風がからだに吹き付ける中、手がしきりに 揺れて写真がぼやけて写った。送電塔の上の高空座込み場はとても遠く見える ので、きれいに撮れなかった。100メートルの高さ、15万4千ボルトといったか? この時代の悪い資本家どもは、労働者を通りに追い出すばかりか、空にまで追 いやっている。そういえば昨日今日の話ではない。高空座り込みの歴史は私よ りもはるかに年上だ。長い時間が流れたのに、なぜ度々こんなことが起きなけ ればならないのか、私はただ気になるだけだった。

▲出るときにちょっと写真を撮った。風がからだに吹き付ける中、手がしきりに揺れて写真がぼやけて写った。送電塔の上の高空座込み場はとても遠く見えるので、きれいに撮れなかった。

まだ虫のように労組を嫌う雇い主が堂々と暮しているとは! 労働法であれ、人 権であれ何であれ、すっかり無視する種族があらゆることを享受して楽に暮ら しているとは! そんな人間は監獄ではなく、いっそ博物館に陳列しておくか、 さもなくば過去の王の墓の中に閉じ込めてしまうべきではないだろうか? 怒り なのか、悲しみなのか、あきれているのかわからない何かが私の胸を締め付け 続けていた。楊花大橋の方に歩いていくと、まともに息をするのが大変だった。 そのうちに家に入れば私はいつものように暖かいふとんの中で、ただ寝るつも りだった。特に衣食住を過不足なく享受していること自体に罪悪感を感じなく てはいけない時代に私は生きていた。

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳)に従います。


Created byStaff. Created on 2008-10-26 08:47:41 / Last modified on 2009-09-30 14:27:47 Copyright: Default

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