本文の先頭へ
韓国:問題は李明博ではなく資本主義
Home 検索

2009年小人たちは何を打ち上げるのか

[寄稿]「問題は李明博ではなく資本主義」という認識を拡めるべき

マ・ソンウン(仁荷大)/ 2009年01月23日0時13分

夕方になると生存権を要求して犠牲になった人々の魂を賛えるキャンドルが燃 え上がっている。集会現場で最も多く聞くスローガンは次のものだ。 「李明博は退陣しろ!」

私は集会に参加する人々が持つ李明博への崇高な怒りを心から尊重する。しか し、彼らの怒りが根本的な分析に進まず、表面的な怒りで終わる限界を批判せ ざるをえない。感情的に怒る人々を理性的に批判するのは残忍でもあるが、根 本的な分析による問題提起がなければ表面的な怒りの表出だけが続けば、惨劇 は続き、虐殺は繰り返されるだろう。

龍山撤去民殺人鎮圧対策委のホームページ(http://mbout.jinbo.net)に入れば 次のような言葉が目に映る。「公安政権」、「殺人政権」、「李明博殺人政権」。 インターネットに書き込まれる匿名の文は言うまでもなく、各団体が発表する 声明書もほとんどが政権を糾弾するところに焦点が合わされている。

多くの人々が今回の惨事の責任を李明博政権に負わせている。しかし、今回の 惨事も『問題は李明博ではない』。

ではいったい誰が問題なのかと尋ねる人がいたが、問題は『誰』でもなく『何』 にある。その『何』は結局『資本主義』という『体制』自体だ。すなわち、 『政権』の問題でなく『体制』が問題だということだ。こう言うと、『政権』 には問題がないと主張するのかと問う人もいるだろうし、極左と極右は通じる と嘲弄する人もいるだろう。もちろん『政権にも』問題はある。むしろそれは あまりにも当然な話で、結果的にはするかどうかという話になるのが常だ。

私は『政権にも』問題があるが『政権にだけ』の問題ではないという、あるい はあまりにも当然の事実をあえて指摘しようと思うのだ。事実何かが発生した 時、それに対する最もやさしい対応方法は、政権を『非難』することだ。『非 難』には特別な科学的分析や根本的な悩みは不要だ。ただ思うまま話し、感情 を吐出すだけだ。だからそれはとても簡単で、それだけ大衆的な波及効果も大 きい。

だが『批判』は『非難』ではない。『批判』は特定の事案への体系的な科学的 な分析を必要条件とする。したがって、『批判』には真摯な悩みと省察が要求 される。すなわち批判は面倒で難しいと同時に、また疲れることだ。そのため に大衆は簡単に『非難』するが、『批判』しようとしない。

2008年夏の熱いキャンドルの熱気を振り返ろう。いわゆる進歩的知識人という 集団は、キャンドルを持つ大衆の波を『大衆知性』だの『集団知性』という言 葉で褒め称えた。しかし大衆は李明博を『非難』したのか、でなければ『批判』 したのか。たとえ『批判』したとしても、その『批判』の対象はせいぜい李明 博という個人あるいは政権だけに終わったのを、果たして『知性的』な態度だ と言えるだろうか?

あえて2008年夏の記憶まで引き出した理由は、その時のキャンドルと今のキャ ンドルがあまり違わないことを指摘するためだ。その時も今も、キャンドルの 主なスローガンは「ミョンバク退陣」だ。しかしこうしたスローガンは問題を 過度に単純化する。果たしてこれらのさまざまな事態の責任は、李明博という 個人あるいは政権だけにあるのか? 李明博という個人あるいは政権だけが退け ばすべての問題が解決するのだろうか?

それにへの答はあまりにも当然、『絶対に違う』。今の李明博政権も前の盧武 鉉政権も、資本主義『体制』におけるすべての『政権』は結局『体制』を維持 することに服務する。つまり『政権』の役割は、資本が賃金労働者を搾取する ことを助け、資本が都市貧民の生活の基盤を撤去できるように助けることでし かない。ハンナラ党は民主党よりその手助けする人の役割をよくやるだろうと 判断され、政権を得たのだ。そして逆説的にもそのような判断をした人々も、 彼らに政権を与えた人々も結局大衆だ。

自由民主主義を守ると喚くすべての政治勢力は、資本主義体制で経済を生かし て富強な国を作るとわめきたてるすべての政治勢力は、それぞれ自分たちがもっ と苛酷な虐殺者であることを自任する。つまり大衆は選挙で自分たちをさらに 徹底的に踏みにじり、惨めに押し潰す者を選ぶのだ。大衆がこうした自虐的な 選択をする理由は、それが自由民主主義という欺瞞的な体制で、選挙というサー カスの役割だからだ。

日常的な政治活動から完全に疎外された大衆は、数年に一回の選挙で、国家の すべての権力が自分たちから出てくると自らに呪文をかける。そのようにして 大衆は自分たちを虐殺する勢力を選び、それを承認する。これを自由民主主義 は『民主的手続き』と呼ぶ。

『民主的手続き』で選ばれ、承認された虐殺者らは、『法』に基づいて『原則 と手続き』により『秩序整然』と国家経済を威嚇して『ごり押し』に没頭する 労働者を打ち殺し、市民の安全を嚇して『不法暴力デモ』をする撤去民を殺害 する。そうするとそれに続いて、いわゆる知識人と社会元老、そして宗教指導 者が『不法暴力デモ』の問題を指摘して、暴力はまた別の暴力を産むだけだか らデモをするときは『合法平和デモ』をしろとおとなしく言い聞かせる。これ が資本主義の『知識』と『道徳』であり、『宗教』だ。資本主義社会における 支配的な意識は、支配階級の意識という言葉はこれらを示す言葉だ。

検察は警察の龍山撤去民デモ鎮圧が、指揮系統による、つまり『原則と手続き』 に忠実な『法』執行だったので刑事上の責任を問うことは難しいという。むし ろ検察は、火災の責任が撤去民にあり、資本を守る公権力にあえて立ち向かっ た撤去民に拘束令状を請求した。これが資本主義『体制』を保衛するために存 在する自由民主主義の『法』だ。自由民主主義の『法』は、ただ資本の支配を 正当化するために存在するだけだ。

しばしば『過剰鎮圧』が問題というが、われわれは『過剰鎮圧』ではなく『鎮 圧』そのものが問題だという、つまり『鎮圧』そのものがすでに『過剰』だと いう問題意識を持たなければならない。今までどの政権が『過剰鎮圧』をしな かったか? いや『過剰鎮圧』ではない『鎮圧』が果たして可能なのだろうか? いったい生存権と住居権を要求する労働者と撤去民の忘れられない絶叫がなぜ 『鎮圧』の対象になるのか? 本当に国家のすべての権力が国民にあるのなら、 労働者と撤去民ではなく、彼らの生存権と住居権を剥奪する資本と、資本のた めの暴力集団の『公権力(警察、軍隊)』と『私的暴力(いわゆる『警備会社』と 呼ばれる用役チンピラたち)』が『鎮圧』の対象になるのが当然だ。

李明博政権を『公安政権』と呼び、これが単に李明博政権の問題と主張する者 は、以前の政権、特に金大中政権と盧武鉉政権で殺害された労働者と撤去民の 数を推し量ってみなければならない。いわゆる『民主政権』では今のような公 権力の暴圧がなかったと主張するのは、犠牲になった英霊を冒とくすることで、 彼らを二回殺すことに違わない。

だから「李明博政権は公安政権」というつまらない声にとても大きな重さをお くのはやめよう。李明博政権が公安政権であることは明白な事実だが、資本主 義体制においてはすべての政権は公安政権だ。したがって李明博政権だけをね らうそのような非難に特別な意味はない。

李明博でなく鄭東泳やムン・グキョンが大統領になれば、龍山での惨事がおき ないかったと考えるのだろうか? しかしシム・サンジョンが大統領になって進 歩新党が院内1党になっても、いや、オ・セチョルが大統領になって社会主義労 働者連合が院内1党になっても、自由民主主義が維持され資本主義を克服できな い限り、大きく変わることはない。

したがってわれわれは「殺人政権」という問題意識よりも『殺人体制』という 問題意識を拡散させて進まなければならない。いくら政権が変わり、国会が変 わっても、体制が変わらない限り、龍山惨事のような悲劇が繰り返されるとい う『事実』をもっと多くの人々と共に考えるべきだ。

もちろん情勢条件を無視した政治的判断はありえない。われわれは絶えず、そ してさらに活発に、体制への問題意識を拡散させて進まなければならないが、 『資本主義廃止』と『社会主義建設』が当面の要求事項にはなりえない。われ われは『資本主義廃止』と『社会主義建設』の輝かしい展望を持って活動しな ければならないが、急進的なスローガンだけを繰り返して叫べば体制を転覆で きるような実力が生まれるわけではない。われわれは展望と共に、今の現実的 争奪の可能性を持つ要求事項を提示し、大衆の同意を拡散させて進まなければ ならない。

例えば憲法を改正して、生存権と住居権が所有権と財産権より優位にあること を明示することを要求するのだ。上で自由民主主義の『法』は、ただ資本の支 配を正当化するために存在すると言いながら、こんな主張をするのは自己矛盾 のように聞こえるかもしれない。だが憲法改正運動は大衆の呼応を引き出す有 効な手段であり、今の『法』自体に対する問題意識を拡散させる契機として作 用することができる。

またわれわれは憲法改正と共に『条件のない基本所得』の導入を要求しなけれ ばならない。すでにドイツでは『条件のない基本所得』の導入に対する議論が 左派政党、緑色党、その上社民党まで形成されているのはもちろん、大衆的に も活発に進行しているという。

人間を絶え間ない生存競争に追いやり、落伍者は淘汰しろと主張する資本主義 は、すでにそれ自体が『殺人体制』だ。われわれはこの『殺人体制』を終わら せるのが当然だが、体制を終わらせるのは少数の力だけでは不可能だ。われわ れはまずたとえ体制内ででも、資本主義的方式を越える代案を提示しつつ、体 制に亀裂を作らなければならない。それにより次第に大衆の同意を拡散させて いくことで体制を克服する力を蓄積しなければならない。

ある者はこのような要求を改良主義的だとあざ笑うかも知れないが、上の主張 は資本主義体制を維持しつつ、その中で人生を改善しようというのではなく、 資本主義体制に亀裂を入れることで結局体制を克服する動力を形成しようとい う戦略だ。

われわれは、子供たちが開発より生命を、利益より人間を尊重する社会で暮せ るようにしようと主張しなければならない。われわれは殺人的な『競争』では なく、共に暮らす『連帯』を語ることで、大衆の呼応を得なければならない。 『条件のない基本所得』の導入要求は、すべての人が人間らしく暮せる社会に 対する要求に進む第一歩になることができる。

貧困は克服の対象ではなく、撤廃の対象だ。貧困を解決できない体制は撤廃さ れるべきで、生命を撤去する体制は廃止されなければならない。われわれは暮 らすために生命を担保にして闘争しなくてもいい社会に行かなければならない。 しかし単なる怒りの表出や感情の排せつだけでは何も変わらない。

したがってわれわれは『問題は李明博ではなく資本主義』という意識を拡散さ せて行かなければならない。またスローガンだけを叫ぶのでなく、資本主義を 克服する動力を大衆から形成するために、大衆の呼応を得る当面の要求を提示 しなければならない。

私は資本主義を廃止しようという要求が極端な発想だという主張には決して同 意できない。資本のために人間が犠牲になることを仕方がないと主張する資本 主義が極端なのか、そんな資本主義を廃止しようという要求が極端なのか。

チョ・セヒは『小人が打ち上げた小さな球』の『作家の話』で、次のように指 摘している。

「革命が必要な時、われわれは革命を体験することができなかった。だからわ れわれは育てられずにいる。第三世界の多くの国が味わったように、私たちの 土地でも革命は旧体制の小さな後退、そして小さな改善で阻止された。われわ れはそれの目撃者だ。」

1987年を勝利だと信じたわれわれは、2002年の盧武鉉の執権と2004年の民主労 働党の議会進出が進歩だと信じたわれわれは、果たしてどれほど成長したのだ ろうか。2009年、韓国の多くの小人たちは何を打ち上げるべきなのか。

龍山殺人鎮圧関連記事一覧

news/view.php?board=news&id=45196">原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳)に従います。


Created byStaff. Created on 2009-01-27 03:04:29 / Last modified on 2009-01-27 03:04:30 Copyright: Default

関連記事キーワード



このフォルダのファイル一覧上の階層へ
このページの先頭に戻る

レイバーネット日本 / このサイトに関する連絡は <staff@labornetjp.org> 宛にお願いします。 サイトの記事利用について