| 韓国:移住労組アノアル委員長インタビュー | |
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「移住労働者の声、もうこれ以上押さえられない」清州保護所で77日間『保護』されている 移住労組アノアル委員長インタビュー チョンミンソン minsungch@hanmail.net
劣悪な保護所内の生活、連行当時暴行の後遺症、結膜炎などで明らかにやつれ たアノアル移住労組委員長は今日、清州外国人保護所で77日目をむかえた。 移住労働者労働組合は380日間の『明洞聖堂籠城闘争』の成果 2003年11月、政府の雇用許可制実施にともなう自主出国を拒否し、82人の移住 労働者が明洞聖堂で380日間の座り込み闘争を始めた。翌年の2月、シャマル・ タパ闘争団長が連行されてから籠城を解散する翌年の11月まで、九か月間『移 住労働者籠城闘争団』の代表職務代行を引き受けた現移住労働者労働組合初代 委員長アノアル・フセインは、去る5月17日、帰宅途中に地下鉄トゥクソム駅 で出入国職員に連行され、清州外国人保護所で今日77日目をむかえた。 三十人を越える出入国職員が地下鉄駅の出入口をすべて塞いだ状態で、抵抗す るアノアル委員長を路上に押し倒して手錠をかけ、サイレンを鳴しながら清州 外国人保護所に移監した。二日後、アノワールを検診した医師は、全身のあざ を発見し、連行当時の深刻な暴行の痕跡を発見した。また、連行当時、出入国 職員は法が定める最小限の手続きである『緊急保護命令書』さえ本人に見せて いないことも確認された。 こうした法務部出入国の不法な連行についてアノアル移住労組委員長は国家に 対し『損害賠償請求訴訟』を提起している。そして、訴訟が行われる6か月間、 『一時保護解除』を要請する内容の陳情書を国家人権委に提出し、国家人権委 は25日、その審議の二回目の延期をした。 服一着で何週間も暮し、一部屋20人の集団生活をしなければならない保護所の 生活は劣悪だ。一週間のうち、屋外に出られるのはせいぜい30分程度、献立に は野菜や果物も見つからない。27日に清州外国人保護所を訪問した記者に対し て、アノアル委員長は連行当時の暴行の後遺症、結膜炎、高血圧などで抗生剤 の処置を受け続けていると伝えた。 明らかにやつれた顔は、健康状態が良くないことを語っていた。困難な時期を むかえた移住労組のアノアル・フセイン(35)初代委員長と会って、家族の話、 過去の韓国生活、平等労組移住支部と明洞聖堂籠城闘争の話を聞いた。 96年韓国に来て繊維工場技術者として働く *質問:韓国にきたのはいつごろですか? 初めて韓国にきた時の思い出は?* 96年5月24日に初めて韓国にきて、ほぼ10年になります。国にいた時は、学生 運動をしていたのですが、進路に悩み、しばらく外国に行って金を稼いで、気 持を整理しようと思って韓国にくることにしました。最初は2年ぐらいと考え ていましたが、到着して働いてみると、母国よりさらに深刻なことが行われて いました。工場に通っても、社長は月給も払わず、移住労働者を哀れな人であ るかのように扱い、罵声を浴びせて脅し、人間扱いをされませんでした。でも、 当分は生活しなければならないので、どうしようもありませんでした。 初めて韓国に一人で到着して、安養に住んでいる知人を訪ね、光明のプレス工 場に雇用を得て一年間働きました。その次はソウルの聖水で働きました。 プレスの仕事はとても危険です。待遇も良くありませんでしたが、何よりも一 緒に働いていた三人か四人の同僚が指を切断する事故が起きたのを見て、怖く なってそれ以上働きたくなくなりました。 それで、その時から技術を学ぶつもりで聖水にいる友人を訪ねて繊維工場に就 職しました。布を作る会社だったのですが、他の人は60万ウォン取っていたの に、夜勤をしても手当ても払われず、40万ウォンしか支払われませんでした。 3か月働いて他の会社に移りました。 ところがその時にIMFが爆発しました。1か月働いた会社は不渡りを出して、月 給も支払われず、社長は月給の代わりに機械を持っていけと言いました。その 後、一年以上、仕事のない状態で過ごしました。98年末から99年初めまで、そ うして過ごし、また聖水の織物工場に就職しました。普通は昼夜24時間工場を 運営する繊維工場で、一年、二年、一年の半分ほど働きました。 *質問:家族について話して下さい。* 3男6女の9兄弟の末っ子です。故郷のクミルラ、クノブティに二番目の兄と兄 嫁が父の世話をしています。50歳ほどになる長兄は、バングラデシュではかな り大きい釜山のような港町のシトゴンで働いておられます。姉と妹は韓国にく る前にすでに嫁ぎ、クミルラの他の地域で住んでいます。 *質問:お母さんは故郷にいらっしゃらないのですか?* 母は私が韓国くる前の94年に亡くなりました。亡くなる2年前に脳卒中で倒れ た、その後、からだが麻痺してずっと病院の世話になって亡くなりました。 *質問:お母さんが亡くなったのも、アノアル委員長が韓国にくることになった 理由の一つだったのですか?* そういうことでもあります。当時は気が動転して、2年間どこかに行こうと考 えていて、最初はオランダに行こうとして努力したのですが、うまくいきませ んでした。韓国には学校の友人もいて、近所の人もいたので、韓国にくること になりました。 2002年6月、平等労組移住支部組合員に加入 *質問:2003年11月15日から380日間明洞聖堂で籠城闘争をしました。当時は闘争局長という職責だったことと思います。なぜ明洞聖堂闘争に参加することになったのですか?* 2002年までは、工場で働いて弾圧されても、一人では戦うことができませんで した。そして『戦える』ということさえ知りませんでした。その時まで韓国人 はみんな全く同じだと思っていました。私たちと一緒に籠城して闘う韓国人が いるとは思いませんでした。そのうちに移住支部の知らせを聞いて(移住支部 の)『目的』を見て、すぐに加入することにしました。移住支部があるという ことを知って、とても嬉しくて、喜んで集会のたびにに参加しました。 *質問:最初はどのようにして移住支部に加入したのでしょうか?* 移住支部は2002年の夏、五人の活動家、イユンジュ、コビル、ビドゥ、バズラ、 一人のフィリピンの方、この五人が明洞聖堂で77日間座り込みをしましたね。 『集会結社の自由』、『弾圧、取り締まり追放』、『人権』、『労働権』要求 して、座り込みをしました。 私は2002年6月、初めて労組に加入しました。2002年の3月か4月頃に移住支部 が初めて3-4千人の移住労働者を集めて、東大門から市庁までのデモ行進をす る大規模な集会を成功させました。しかし政府の弾圧で、2次集会ができず、 イユンジュ支部長、コビル、ビドゥ、バズラ、一人のフィリピン組合員という 五人が明洞聖堂で4月28日から7月16日までの77日間、明洞聖堂で座り込みをし たのです。 最初の大衆集会があった2002年4月、知っている先輩がその集会に参加して、 すぐ次の日に私の工場にきて興奮しながらそのニュースを知らせてくれました。 その時までは工場の仕事にいろいろ困難があっても、何の力もなく、ただ働い て過ごしました。 その先輩が『私たちも力を合わせれば、何かができるんだ』、『数千人の移住 労働者が集まって話したんだ』と集会のことを話しました。その時に移住支部 を知り、関心を持つようになりました。 2002年4月に初めて平等労組移住支部のことを知り、ソンスジン活動家と会っ て話をして、2002年6月に移住支部に加入しました。その年の12月、126人の組 合員がいるS分会で選挙があって、その時にソンスジンさんは事務局長で私は 分会長に選出され、その後、明洞聖堂闘争が始まる2003年11月15日までの一年 は分会長として楽しんで元気に活動をしました。 2002年7月に明洞聖堂の座り込みを終えて、議政府の家から出入国に連行され、 保護所での『ビドゥ、コビルの釈放闘争』、『地域の賃金未払いや暴行事件』 の時に、組合員が力を合わせて問題を解決するなど、地域分会はいろいろと大 きな成果のある闘争を続けました。 2001年5月、『平等労組移住支部』誕生 *質問:移住支部の『目的』が気に入ったそうですが、具体的にはどんなことだったのですか?* 最初に平等労組移住支部に関心を持ったのは『私たちには権利が必要です。 一緒に戦いましょう!』というものでした。 この社会で人々が安心して暮らせるようにするのは労働者です。しかし同時に 弾圧、差別を受ける人も労働者です。移住労働者も全く同じ労働者です。 重労働の困難な条件の下で奴隷のように働いています。これではいけない。無視 されてはいけない。移住労働者も全く同じ権利、自由を持つ『平等な世の中』 を作ろうということ、考えて、労働者の権利のために努力しようという点が 気に入りました。 当時、移住支部は『差別のない世の中』、『労働解放』、『労働弾圧粉砕』と いった目標を持っていましたが、移住労働者の人権だけでなく労働権も保障す ろという点が主要な部分でした。 *質問:移住支部は雇用許可制を初めから反対したと聞きました。* 移住労働者問題を解決するためにさまざまな団体が集まってきました。そのう ち、外国人労働者対策協議会は後で参加したのですが、雇用許可制法案を代案 として出しました。しかし共に会議に参加していたイユンジュ移住支部長は、 さまざまな点について反対し、結局、合意できずに最後の会議を拒否したと聞 きました。詳しいことはイユンジュ支部長から聞いてください。 *質問:移住支部が平等労組に加入するきっかけはどんなことだったのでしょうか?* 平等労組移住支部は2001年5月23日に設立されました。外労協の事務局長だっ たイユンジュ氏が移住労働運動に対して異なる立場を明らかにして、磨石のシャ ロームの家で働いていたソニャ、城南で働いていたスジン氏など、既存の移住 労働者センターで働いていた人たちが一緒に小さな団体を組織しました。ソウ ル京畿仁川女性労組の提案でその組織が下部組織になって、2001年5月23日、 『ソウル京畿仁川女性労組』は『ソウル京畿仁川平等労組』に名前を変え、 一緒に行動するようになったのです。 2001年5月23日、初めて『民主労総平等労組移住支部』が誕生した時は、 磨石、安養、ソウル支部がありました。 6か月間準備した2003年11月『明洞聖堂座り込み闘争』 *質問:『2003年明洞聖堂座り込み闘争』はどのようにして準備されたのですか?* 2003年11月15日に始まった『明洞聖堂籠城闘争』は、およそ6か月の地域宣伝戦、 署名、集会、戸別訪問等で成し遂げられました。 2001年から移住支部の安養分会長をしていたシャマル・タパ氏は、がんばって 移住支部の活動をしてきました。そのうちに2003年5月、『移住支部支部長』 に当選して、具体的に明洞聖堂闘争を準備したわけです。 2003年10月15日、『明洞聖堂籠城闘争団』が組織された時、移住労働者は大き くわけて二団体があって、それは『移住支部』と『ネパール闘争団』でした。 移住支部は、磨石、議政府、一山などの移住労働者40余人が参加して、ネパー ル共同体は30以上があり、その共同体を中心として多くの移住労働者が集まっ ていました。 *質問:その時のネパール闘争団の代表はどなたでしたか?* カジマン同志でした。最初、11月15日には移住労働者が82人いて、韓国人同志 も合わせると110人ぐらいいました。籠城が長引き、さらに多くの移住労働者 が合流して、110人にもなり、90人、120人になったこともありました。 個人的に参加する移住労働者もいました。民主労総、未来連帯、不安定労働撤 廃連帯、社会進歩連帯、仁川移住労働者人権センターなどが連帯しました。 私は2003年11月15日、明洞聖堂籠城闘争団の『闘争組織局長』として籠城を始 めました。翌年の2月15日、明洞聖堂闘争団のシャマル・タパ代表が連行され て、2004年10月の支部総会で支部長に選出されるまで、『明洞聖堂籠城闘争団 代表職務代行』を引き受けました。 籠城が長くなり、座込み場から離れる移住同志が増加しつつあったので、労組 員がばらばらにしないように2004年10月、移住支部総会を経て、支部長と事務 局長を選出し直し、11月28日の解団式を経て、籠城を整理することになったん です。 *質問:2003年11月、全国の移住労働者が雇用許可制に反対して籠城を始めた時、政府から長期滞留移住労働者に懐柔策として提案されたものがあると聞きました。* はい。政府は2003年12月から2004年1月までの二か月間、長期滞留移住労働者 でも、自主的に出国すれば再入国時に優先して入国させるといいましたね。そ の時、明洞聖堂籠城闘争団はその提案を拒否して、『自主出国拒否』、『強制 追放中断』、『未登録移住労働者全面合法化』を要求して、デモを続けました。 (明洞聖堂籠城闘争団は、当時、地域の移住労働者2130人から『自主出国拒否』 の署名を受け、2月9日付のハンギョレ新聞紙面に広告を出した。) 私は『ソウル京畿仁川移住労働者労働組合(Migrant Trade Union)』が380日間 の明洞聖堂籠城の『具体的な成果』だと思います。 私が捕まってこの清州外国人保護所にきた時、とても多くの市民社会団体が 声明を発表しました。以前はそんなことはありませんでした。私たちが闘争 しなかったら、こうしたことは得られなかったでしょう。 こうした『私たちの夢』を集めて労働組合を設立しましたが、政府は労組を認 めず、強制取り締まりを続けて『移住労働者の声』を押さえ付けとしています。 でも、これは言えます。いくら政府が『移住労働者の声』を押さえ付けようと しても、もうわれわれを止めることはできません。 もう、私たちの要求である『労働許可制』を認めなければなりません。94年度 に移住労働者が反対したのに、政府が『かまわない』と言って研修生制も通過 させました。しかしわれわれが正しかったのです。 インタビュー後記 2002年4月、ソウル市内中心部に4-5千人の移住労働者が集まり、通りをデモ行 進して、自分たちが言いたかったことを率直に叫び、初の移住労働者大衆集会 が開かれた。その知らせは口から口を通じて、多くの移住労働者に伝えられて、 アノアルもすぐ労働組合に加入した。彼はその後、分会長として地域活動を積 み上げてきて、2003年には380日間の明洞聖堂籠城闘争を率いた。2005年4月に は、『ソウル京畿仁川移住労働組合』を堂々と設立し、その初代委員長に選出 された。 4月24日に設立されたソウル京畿仁川移住労働者労働組合は、『42万移住労働 者の夢』を抱いて四か月後に300人を超える組合員を誇る単組として成長した。 記者のインタビューと同じ日にアンワルと面会した韓国人の知人たちは、清州 刑務所に収監されている韓国人労働活動家が8月15日の光復節特赦で出られる かも知れないという期待に膨らんでいた。 韓国の地で、韓国人と同じように働き、同じように暮す移住労働者たち。彼ら も私たちと同じ夢と希望を抱いて暮していく。光復節特赦は固辞しても、今、 政府と法務部出入国は移住労働組合の初代委員長を公道で暴力的に連行した 『無礼な』行政を公式に認めるべきだろう。 2005年07月28日 18:09:10 翻訳/文責:安田(ゆ) Created byStaff. Created on 2005-07-31 11:40:05 / Last modified on 2005-09-05 05:18:39 Copyright: Default このフォルダのファイル一覧 | 上の階層へ | |