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韓国:人権映画、世の中を動かす
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『忘れずにおこう』、第1回人権映画の思い出

[感じて〜人権映画祭](2)人権映画、世の中を動かす

人権オルム/ 2009年06月05日9時52分

忘れずにおこう

1996年、私は人権映画祭と出あった。その年の11月2日から8日まで、梨花女子 大で開かれた人権映画祭を取材するために、私は客席の片隅でメモをしてカメ ラのシャッターを押した。1回映画祭のスローガンは『忘れずにおこう』だった。 そして私はその場で、忘れられない何人かの人と会った。開幕式の一番前の席 には、今は北に行かれた長期囚の方々が座っていた。

そしてその横には、彼らを連れてきた若い青年がいた。その人は私の学校の先 輩だった。ムリョギ先輩と呼ばれた彼は、街頭闘争がある日には常に戦闘組を 指揮した人だった。思いがけない出逢いだった。労働現場で離れることが出来 ない自らを恥じていた私に、その場の先輩もまた不自然だったのは同じだった。 私は恥ずかしそうに笑いながら挨拶をし、先輩もまた恥ずかしそうに笑ってみ せた。彼は監獄に行ってきた後、しばらくふらふらして、長期囚の先生たちの 影響で漢方医学と入試を準備しているという。それぞれ仕事があって、出逢い は短く終わった。仕事がなくてもわれわれはお互いを無視しただろう。

▲1回人権映画祭ポスター

その時の私を思い出す。いわゆる『運動の危機論』があふれた90年代中盤、後 日談という名で誰かは敗北主義、また誰かは自慢のような武勇談で、80年代を 個人史の中で送ったその時。私の選択は、過去の時間、過去の人々との決別だっ た。自らを隔離させて念を押した。この彷徨は直ぐ終わるだろう。この彷徨が 終わる日、また一度、しっかりした姿であなたたちの前に立つ。しかし一人で 道を探すのは容易ではなかった。長くないと思った幽閉は、思ったより長びき、 私は数年をそうして一人で過ごした。深夜、懐かしさにいきなり涙が流れる時 もあったが、私の席は相変らず恥ずかしかったので、私はその孤独さに耐えた。 そして私は1回人権映画祭で突然、すべての縁とぶつかったのだ。

『軟らかい』人権の前に置かれた『苦難』

『人権』の意味は広くて奥深い。だが96年の私にその単語は『暴圧』や『弾圧』 という攻撃的な語彙と比べ、柔弱に感じられ、まるで『慈善』のような恩恵授 与の中だけで維持されるような感じがした。その感じはどこからきたのだろう? 恐らく80年代を経て、『自由』や『民主』のために戦っていた時、人権という 言葉をあまり使わなかったからかもしれない。あるいは『世界人権宣言』のよ うに『今日の歴史』の時間に少しだけ思い出す記念日の中だけで存在する死ん だ単語と思ったためだろう。しかしそんな軟らかい感じの『人権』という言葉 の前に、1回映画祭は苦難の中で行われた。

鍾路区庁では『ビデオ』という理由で映画祭開催不可と判定し、とても苦労し て見つけた梨花女子大の管轄区庁の西大門区庁でも、イベントの間に『公演法 上の申告義務不履行』という、前例のない法を突きつけて、公演中断を命令し た。それだけでなくイベントの期間中ずっと「今そんなイベントを認める学校 がどこにあるか?」という教授と教育部の圧力で、イベント要員は失敗するかも しれないという恐れに夜も眠れなかった。人権を主題にした素朴な映画祭に、 それほどまでにかけられた圧力は、そうしてもう一度、この国の人権指標を確 認させてくれた。

激しい「運動」としての映画祭

映画祭のための映画祭でない、なるべく多くの人々に「人権」を教える激しい 「運動」としての映画祭。これは、人権映画祭が第1回の時から守ってきた。だ から山河も変わる10年たった今、相変らず人権映画祭を行うのは難しい。表現 の自由を制限する事前検閲を拒否したという理由で、貸してくれる劇場がない のだ。昨年の大学路のマロニエに続き、今年はキャンドルの広場だった清渓広 場で開かれる人権映画祭。その映画祭に力を貸したくて、恥ずかしい記憶を全 てまとめよう。

その日、私は大学の同期と会った。あいつは共に親しかった他の友人の便りを 伝えてくれた。解雇後に原職復帰闘争をして、暴力容疑で収監中だという。一 度行ってみないかという言葉をぎこちない笑いで押し出して、急いで別れを告 げた後、私は市庁前の花壇で一人で焼酎を飲んだ。君に会いに行かなければな らないのだろうか? 行って私が何の話ができるのか? 結局私は行かなかった。 寒い天気に急いで飲んだ焼酎のおかげで胃痙攣をおこして応急室に運ばれてし まったから。

一日中、病んで映画を見た。拷問に勝てずに同僚を売った過去のために18年間、 魂まで壊されれて罪悪感に陥っていた偽装活動家マルシャ・メリンスの話、 〈背信の時間の中で〉。映画の最初に監督は静かに尋ねる。

「あなたは苦痛なしに過去を回想することができるか」
そして付け加える。「1990年代のチリは、忘却というおかしな病気にかかっ ている」と。

1996年にも、そして今2009年にも、この二つの文章は相変わらず響きになって 近付いてくる。私は相変らずその友人と会えないまま、苦しく過去を回想して、 2009年のこの都市はあまりにも多くの死を簡単に忘れている。

その忘却を人権映画祭は破りさる。私の前に広がった世の中だけが全てだと信 じたい安易な私に、人権映画祭は赤い薬と青い薬を広げてみせたモビアスのよ うに、本当に世の中を見ろと言ってくれる。おかげで私は生き残り、毎年人権 映画祭に出したい映画を作っている。第1回映画祭の時のあのささやきを今でも 私は時々繰り返してつぶやく。『忘れずにおこう』、そうだ「忘れずにおこう」 と。(リュ・ミリェ)

1996年第1回人権映画祭:映画の中の人権、人権の中の映画
日:1996年11月2日-8日
場所:梨花女子大法政大講堂
主催:人権運動サランバン、梨花女子大総学生会

ソウル人権映画祭の後、約二か月間14の地域都市で開催した。人権社会団体約 百団体と約600人の個別市民後援で、計32編の映画を無料で上映した。約3万人 (ソウルだけで1万5千人)の観客が映画祭に立ち寄った。

「表現の自由」という大義のため、事前審議を正面から拒否して映画を大衆上 映したのは国内で「第1回人権映画祭」が最初で唯一だった。人権映画祭のこ うした精神は、全国に大きな反響を呼んだ。上映場貸与不可の圧力など、当局 の弾圧の中でも市民の大きな呼応により第1回人権映画祭は大きな困難なく祭 りの雰囲気の中で幕を下ろした。(出処:人権映画祭ホームページ)

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2009-06-07 15:36:46 / Last modified on 2009-06-07 15:36:47 Copyright: Default

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