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韓国:おばさんの反乱は始まった
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おばさんの反乱は始まった

月見草に似たヨム・ソンエのミシンを訪ねる

オ・ドヨプ記者/ 2007年03月16日11時47分

春。カメラバッグを肩にかけて出る。路地と階段が絶えず続く。昌信洞。限り ない路地と急な坂道のように、ここに集まった人々の人生は昌信洞によく似て いた。

春。日差しがあふれる場所を訪ね、花を探しに行きたい。だがドアをあけて入っ たところは花どころか一筋の日差しもない。ミシンと端切れだけが非常に長い 蛍光灯のあかりの下に咲いている。もし彼女に会わなければ、私の春は憂鬱だっ ただろう。

ヨム・ソンエ。ちりちりのおばさんパーマに黒い半袖Tシャツ、うすいベージュ の半ズボン。まだ花冷えの寒さで冬は終わっていないが半袖に半ズボンだなんて。 冬のジャンパーを着て入った私がむしろ心苦しくなる。だがなぜだろうか? 彼 女の服装は全く不自然でも寒そうにも見えない。むしろ元気さを感じる。

化粧もしない素顔をのぞくとシワが一つもない。目も鼻も口も、一つもシワは ないようだ。一度も誰かと争ったこともなく、広い心で生きてきたようだ。苦 労という単語とは全く似合わない顔だ。もちろんこの思いは彼女の声を聞く までしか有効ではなかった。

花を探して出かけたい春の日

私がまず驚いたのは彼女の年齢を聞いた時だ。そして彼女の人生を聞いた時、 私の人を見る目はまったくめちゃくちゃということを悟り、驚いた。

55年生。五十三だ。お父さんが立派な職場も金儲けもうまくなかったが、誕生 日だけは戸籍に正確に書いたという。

ヨム・ソンエ、彼女は11歳の時に故郷の全北道高敞からソウルにきた。冬栢花 がとてもきれいな仙雲寺の近くで生まれた。ヨム氏が村を作って暮す一帯だ。 だれもがソウルにくる時に彼女の家族も上京し、昌信洞に落ち着いた。

「来たばかりの時は、ごたごたと気が動転しました。とても路地が多くて道が 難しかったらしく、道に迷って家に帰れないこともありました。話し方もソウ ルの言葉がうまくできません。お国言葉なので他人に気兼ねもして…。」

二男二女の長女だったヨム・ソンエの最初のソウルの家は、田舎の家よりひど かった。部屋一間に六人家族が暮した。かまどは床の下にあったし、台所はな かった。広間で食事を作って食べなければならなかった。

「田舎の家のほうが良かったんですよ。あちこちの家を借りて暮しました。他 人の家で他人と一緒に暮さなければならず、水も井戸から汲んで飲まなければ なりませんでした。水を何杯か汲んでから働きに行ったりしました。トイレが 共同でなかっただけでも幸運でしょう」。

ソウルにきても学校には通わなかった。娘だからと両親が送らなかったのでは ない。勉強するのがとても嫌いだった。十四才の時、平和市場のナムバンを作 る店に就職した。使い走りをしていたが、人手がいるからというので仕事を始 めた。

十四才の開始は終わりなく続く

「仕事が難しいとか大変だとは考えませんでした。勉強したくないので技術で も身につけようと思って仕事をしました。他人のしていること見てまねたので は。何坪もない工場に屋根裏部屋を作り、2階にしたのでその高低といったら。 私は家がソウルなので弁当を包んで家から通いましたが、田舎からきた子供た ちは、そこで働いて食べて寝ていました。冬は電気もないので寒いところでそ のまま寝なければなりません」。

ヨム・ソンエはその時期その友人が今はどう暮しているのかを考える。成功し た人はどれぐらいいるかと尋ねる。「ある人、高いところに座っている人を想 像でもできますか?」と私に尋ねる。

退勤時間はなかった。バスに乗って帰る人は終列車の時間が退勤時間だった。 ヨム・ソンエは家が平和市場に近い昌信洞だという理由で11時40分に退勤した。 通行禁止にかからないように。

「製品工場に通うことが格好が悪いとか恥ずかしいとは思わず元気に通いまし た。その時の月給は2千ウォンでした。1ヶ月欠勤しなければ2百ウォンのボー ナスがもらえました。その200ウォンのために、苦しいとか大変だとも思わず 通いました。その時は2百ウォンの価値は大きかったんです」。

盆暮れには1ヶ月の半分ぐらいは徹夜をしたりもする。朝の六時まで仕事をし て、1、2時間寝て、朝八時からまた仕事を始める。眠くらならない薬だという タイミングを飲みながら。

「私はとてもよく眠ります。何日か徹夜すると死にそうです。女物の水着を作 る工場でミシン工として働いていた時です。腰のところに二十本ずつゴムひも を入れなければなりません。ミシンをかける時、前で押さえなければいけない のに、うとうとし続けます。うとうとしているとミシン工のお姉さんがミシン 台をポンとたたきます。びっくり驚いて目が覚めててもまたうとうとしていま した」。

40年過ぎた今では笑いながら話す。だが十三、四の時、襲ってくる眠さに耐え なければならなかった話を聞く私は、一緒に笑えない。

襲ってくる眠さ、今は笑いながら話せるが

休みの日曜日がある土曜日は必ず徹夜をした。日曜日には何をしたかと聞くと、 ただ家にいたという。徹夜をして日曜日がどうして休日なのだろうか? 尋ねる 私がばかなのだろう。朝八時から夜十二時になるまで働き、土曜日は徹夜。ヨ ム・ソンエに休日はない。「何を習わなければならない、どこかに行かなけれ ばならないとは考えたこともありません」。

もちろん家いただけではない。夏には製品工場のシーズンオフがある。そんな 時はイチゴ畑にも行き、ブドウ畑にも行った。山にも遊びに行った。

仕事をしながらおしゃべりもするけれど、互いに名前も知らず、工場生活をし ながら過ごす。道を歩きながらも名前の代わりに「何番」と番号を呼ぶ。

「だれそれさんというべきなんでしょうが、道を歩きながら何番、と呼びます。 格好悪いとも思わずに。ミシンに番号がついていますね。その番号を呼ぶので す」。姉さんたちとプールに行って互いに何番、何番と呼ぶので、おじさんた ちが近寄ってきて尋ねたという。どこの酒場かと、一度遊びに行くと。

「互いに番号を呼ぶので、ホステスだと思ったのでしょう」。

笑い話というには、本当に苦々しい話だ。一日に十三、四時間以上一緒に働き ながら、ニックネームでもない番号を呼ばなければならないとは。誰が番号を 呼ぶようにしたのだろうか? 裁断場にも番号があったのだろうか? 裁断師や裁 断補助を番号で呼んだという話は聞いたことがない。ここにも男性と女性とい うくびきがあるのではと不純な(?)気がする。

昔の話を気楽に話すヨム・ソンエも、今日の話は容易ではない。誇らしく語る べきミシンの経歴を堂々と言うことが恥ずかしいという。「減らせるなら経歴 も年齢も減らしたいです」。製品工場40年、一流ミシン工、ヨム・ソンエ、な ぜ誇らしく話せないのだろうか?

彼女は保証金千万ウォンに家賃五十万ウォンを払い、生活の場所であり仕事場 である昌信洞のある建物の2階を借りて住む。95年度にミシンで稼いだ金で檀 国大学校前の地下にビヤホールを開き、商売をしたが5年でみな食いつぶした。 空手に借金だけが残ったまま、またミシンの前に座らなければならなかった。

ミシンから「浮気」、結局借金だけが残る

また戻って、熱心に踏んだ。借金も返して、一人の息子にきちんと教育を受け させたくて、昼夜を知らずに働いた。だが市場はなかなか難しかった。

「斗山タワーができて、若い層を狙い、低価格競争が始まりました。中国から 大量にじゅうたん爆撃をするんです。東大門の商圏を食いあらすために」。

40年の技術者は、裁断された布があれば単品から完成品まで一日中ミシンをか けて40枚作れる。以前は3千何百ウォンだった工賃が、今は2千数百ウォンに落 ちた。朝8時から夜11時まで微動もせずにミシンに張り付いて、やっと十万ウォ ンになるということだ。

30日を働き続けると3百万ウォンになる。ここに工場の家賃をはじめ、電気代 ガス代などの経費が1ヶ月に百万ウォンかかる。40年の技術者が夜11時まで、 1ヶ月30日、ずっと働き続けて稼ぐ金が2百万ウォンだ。

さらに堪え難いのは金額の多少を別としても、仕事の材料が30日分もないこと だ。

「昔のミシンは簡単で、木の台に取りつけられていて、踏み板を踏むとカタカ タと前に出ていってミシンをかけたものです。今は徐々に徐々に発展して、ミ シンにコンピュータまでつくようになったじゃないですか。経歴も長くなり、 機械も発展して、すべてが良くなったのに、すべてがアップするのに、なんで 工賃だけ、人件費だけが、アップするどころかダウンしなければいけないんで すか? 国会に行って何かいわないとね」。

「製品仕事」をする人に支持されたら国会に出て行かないかと話す。工賃がど ん底に落ちる苦しみを語りながら、ヨム・ソンエは笑い話を付け加える。骨太 な笑い話を。結婚して3年で新郎を事故で失い、一人で息子を育てながら、顔 にシワができない理由がここにあるようだ。

製品仕事をする人に支持されて、国会議員にでもならなくちゃ

「仕事の材料さえ切れなければ、夜を徹して稼いで、借金も返して、息子も楽 に勉強させてやれるんだけどね…。以前は徹夜しても労働の代価を、全てでは なくても、ある程度受け取れたではないですか。今はどんなにじたばたしても 大変です」。

ヨム・ソンエには欲がない。賃貸アパートの一つでも持つことが願いだ。ビヤ ホールで金を失ったがそれにこだわらない。ただ自分ができるミシン仕事で借 金を返せばそれまでだ。彼女の欲と言えばこれだけだ。だがこの素朴な望みも しようとしない。

ヨム・ソンエは挫折しない。挫折する余裕もない。五十を超えるまで働いたが、 老後どころか当面の暮らしも容易ではない金には絶望するが。時々「私がお金 の管理ができないから」と反省はするが、金の前に卑屈にならない。

困難の中で楽観を探し、自負心を失わないようにした。昨年ヨム・ソンエは ファッションショーの舞台にモデルとして立ち、照明を浴びて力強いウォーキ ングをした。どんなモデルにもできない昌信洞のおばさんの豊富な経験と知性 がつまったウォーキング。

彼女の唯一の技術であるミシン技術を使って自分で服を作って着た。カメラ のフラッシュが爆発して、テレビのインタビューもしてテレビにも出た。 昌信洞でミシン仕事をする人が直接服を作り、モデルになり、ファッション ショーをした。

反乱のおばさん、その堂々としたウォーキング

「国会議員、長官たちと並んで舞台に立った日が忘れられません。その日一日、 自分で楽しんだのが良かったです。いつか私が主人公になって、多くの人の前 に立ちたい。自信ができましたし、幸せでした。今、黙黙と屋根裏部屋で韓国 の経済を起こした主人は私だと叫んだわけだから」。

用心深く「50代おばさんたちの反乱」を夢見ると話す。7-80年代に韓国産業の 中枢だった衣類業は今、落ち目扱いされているが、反乱は7-80年代の時代にミ シンを習った50代のおばさんの力でまた起きと低い声で話す。

インタビュー中ずっと、ミシンは一瞬も止まらなかった。きちんと録音ができ ないのではないかと心配だったが、ミシンを止めてくれとは言わなかった。頭 が悪くて書き止めることもできず、録音に頼ってインタビューをするのだが、 ちゃんと声が入らなくても、それより大切な40年の経歴を持つミシンの音は生 きているのではと思って。ミシンは休む間もなく回り、ヨム・ソンエの声も止 まらない。ロウソクの火を消してモチを切るハン・ソクポンのお母さんのように。

その間にもそでを返し縫いして、部品を付けて、カラーを切り、心を込めて返 し縫いをする。誰も彼女たちを覚えていない。だがまだ昌信洞の丘のあちこち からミシンの声が聞こえる。数千の工場があって、数万人が働いている。服を 作りさえすれば売れた時は、斗山タワーの消えることがないネオンの下では見 つけることはできなくても、蛍光灯のあかりの下のヨム・ソンエの人生は力強 く進む。「50代のおばさんの反乱」を夢見て。

「今、店をやっている人たちは、服が売れなければ金がとれない、それだけで す。裁断、シアゲ、ミシン、仕上げまで、三つか四つの店をたどって製品が店 に出ます。店をしている人たちは布の値段だけ損をすれば終わりだ、と考えま す。工場には、店に出ない完成品が積まれていても。その店だけ見て下請けを する人は裁断に工賃に工場の経費に、そっくり抱え込んで損して、とてもひど い状態です。工場がどんどんつぶれていきます」。

誰も彼女たちを記憶していないが

昌信洞のおばさんの反乱、その始まりは「参加性労働福祉の場」が企画した 「おしゃべり攻防ファッションショー、昌信洞おばさんがミシンに翼をつける」 だった。世界第一を自慢する技術力を基礎に高付加価値の製品で競争力ある市 場を確保することだった。

「それが一瞬でできることではありません。何だかんだと言われるけれど、私 は今が始まりだと考えます。これから私たちがどのように道を開くかにかかっ ているんです。天然染色がいいのか、と批判する人もいましたよ。とにかく、 市場を活性化して、生活の基盤を新しく探さなくてはね。共同作業場も作って、 もっと良い環境で働きたいです。今は第一歩なので、何度か試行錯誤はするで しょう」。

ヨム・ソンエもミシンを習いながら、指に針を刺して病院に行って抜いたこと もあった。そんなことは茶飯事と、事故とも思わなかった。ミシンを習う時、 「3回は針で刺さなければ一流の技術者になれない」という話を聞いた。今、 反乱は始まり、何度かの試行錯誤の後に結果がどうなるのかを見なければとヨ ム・ソンエは話す。

寝る時間以外は一日中座っていなければならないヨム・ソンエに、からだに悪 いところはないかと尋ねた。ストレスで糖はあるがほかは大丈夫だという。

「病気になって当然ですが、私が健康なので大丈夫です。小さいときから自然 のものを食べていたから元気なのでしょう。お母さんが山にたきぎを取りに行 くと、葛を取ってきて食べさせてくれました。さつまいもを食べて、蓬を食べ て、これが精力剤より良かったようです。田舎に住んでいた時、オンドルにと うもろこしの幹を放り込んで、さつまいもを乗せて、生でも食べて、蒸しても 食べました。川でたくさん田螺を取って食べて、イナゴを取って食べて、サト ウキビを植えて七月にはそれを取って食べて。食べるものがなく、間食もせず に食べていたので元気なのでしょう」。

ヨム・ソンエはつらい記憶もいつも気楽そうに話す。これもまた彼女を丈夫に するのだが、もちろんお金のストレスも無視できない。職場に通いながら、大 学入試の勉強をする息子を見れば胸のどこかが痛くなる。

ヨム・ソンエを苦しめるもの

一人で育てた一人息子なら、厳しい姑役をするのではないかと尋ねると、ミシ ンを止めて手で遮る。

「私はガールフレンドに最善を尽くせと言います。私に特別に対してくれと。 誰かが私の息子に『君のお母さんに良くしろ』と言ったら、絶対そんなことを 言うなと言いますよ。結婚に、未亡人の母が問題になるのなら『お母さんを忘 れろ』と息子に話しました。君の家庭が重要なんだからと」。

ヨム・ソンエ自身も男と会えば私だけを愛してくれて、他の人より特別にして くれるように望むだろうと話す。完全に愛を独占するのが当然だと考える。息 子一人だが、ヨム・ソンエ自身がそうで、息子もそのようにガールフレンドと 会うことを望むという。

「兄弟が多い家で暮せるといいですね。一人で暮していたので、結婚してガヤ ガヤ騒ぎながら暮せるといい。妻に妹がいたらお小遣もたっぷりあげて。妻の 側によくするといいですよ。妻は新郎が実家によくしてくれれば、自然に新郎 にもよくしますから」。

息子はじっくりと良く育った。問題があるとすれば、よく金を稼げない自身だ とヨム・ソンエは告白する。五十年背負って生きてきた貧困、優しくするより 金が重要だったという思いを持たせる。

「兄弟は今いい暮らしをしている。以前、一緒に製品工場に通ったもんだ。私 は稼ぎを全部両親に持って行ったのに、兄弟は自分のものはしっかり持っていっ た。本当にしっかりしてる。結婚した後、勉強して大学も出たし。私と違っ て」。

インタビューが二時間が越え、自然に言葉から「です」がなくなる。演歌が好 きなヨム・ソンエ。今は誰かがカラオケに行こうと呼んでくれないという。連 絡さえくれればすぐ駆け付けるのにと言いながら。

演歌が好きな、そして歌に漬かる

私は彼女の歌を聞いたことはない。だが彼女の演歌は心を打つだろうと思う。 彼女は貧困と金のことをずっと話したが、胸の中ではそれの支配を拒否して暮 しているのは明らかだ。彼女が歌う時、その痛みも少しずつ出てくるのだろう。 笑いを絶やさない彼女の生の向こうに、彼女を糖尿にしたストレスの理由があ るのだろう。あえて傷跡をほじくり出したくなかった。

ただ、そのまま聞いていたかった。尋ねなくても豊かな話の袋を放つヨム・ソ ンエは、昌信洞の坂と路地に似ている。休みなく製品を縫いあげるミシンの音 も、ヨム・ソンエと同じように笑っている。彼女は口ではなくミシンの音でイ ンタビューをしたのかもしれない。休みなく出てくる糸巻きの糸のように。じっ くりと、じっくりと、私の胸にヨム・ソンエが入ってきた。

「インタビューする人いなければいつでも訪ねろ」。一日中ミシンと話をする ヨム・ソンエは人が懐かしかったのかもしれない。「以前のようでないから。 今は隣に誰もいない…、以前には同じ食べ物でも互いに分けあったじゃない」。

お金が人の価値を決める世の中で、永遠に金と無縁で彼女は暮すのかもしれな いと思う。彼女が金のことを話しても、彼女の胸の深くには深く流れる情けと いう川が流れているのかもしれない。ときどき彼女の顔をのぞくと、思わず妹 に会ったように、気が楽になるからだ。

ヨム・ソンエが働き、飯を食べ、眠る場所に来て10分もたたないうちに、のど がからからになった感じがした。布や糸なら綿よりあまりホコリが出ないと思っ たが違った。インタビューを終えて戻り、この文を書き終えようとしている今 でも、のどがからからだ。

韓国の70年代の姉妹たちは、そうして生きてきた。ホコリを吸い、針で突かれ、 タイミングを飲んで頑張って徹夜して生きてきたのだ。そしてまだ反乱を夢見 ている。十三、四才の夢を五十代のおばさんの夢に、まだそうして昌信洞で暮 している。

昌信洞の五十代おばさんの夢に

帰る道すがらずっと、昌信洞の路地が路地のように思えず、丘に上がる階段が 階段のように思えなかった。ひとりのからだをかき回しながら歩いているよう な気がした。そして多くの人々の顔が突然路地から飛び出してくるような気が した。針で突いた傷にミシン油を塗らなければならなかった白黒写真が、カラー 写真で2000年代にまた撮らなければならないのか、夜空に大声を上げて問う。

今、窓の外で背の高いビルが明るく見える。発展の裏舞台である昌信洞には、 教会の赤い十字架が夜を照らす。

この夜、また行ってみたい。まだヨム・ソンエのミシンは回っているのか。一 筋の陽の光もない所で、太陽の代わりの蛍光灯がまだ彼女の人生を照らしてい るのか。月見草のように夜を明かしたヨム・ソンエが座っている。

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンス:営利利用不可・改変許容仮訳)に従います。


Created byStaff. Created on 2007-03-19 05:36:37 / Last modified on 2007-03-19 05:36:38 Copyright: Default

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