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消えゆくアパートを訪ねる

[チェ・インギの写真世の中](29)ソウル地域の40年のアパート探訪

チェ・インギ(貧民活動家) 2013.05.07 17:14

わが国初のアパートは、ソウル市鍾路区内資洞一帯にあった三国アパートだと 伝えられています。このアパートを作ったのは中国や日本に石油を輸出してい た三国商会で、1935年に4階建(建坪635坪)と3階建(199坪)のビル2棟だったそう です。ウィキ百科の「大韓民国アパートの歴史」には、1932年、朝鮮住宅営団 はさまざまな住宅類型を研究するために、大韓民国にさまざまな代案を実現す ることになり、そのうちの一つが忠正路に残されているアパートです。草創期 の建物所有主、豊田氏の名前を取って韓国式発音のプンジョンアパートと改称 されましたが、混用された後にユリム・アパートに変わります。解放の後には 米軍宿舎として使われ、アパートの屋上ではパーティーが開かれたりもしたそ うです。1960年代末に韓国人が買収し、ホテルに使っていましたが、道路を広 げるために一部が撤去され、今はチュンジョン・アパートになっています。近 くには民衆言論チャムセサンの事務室があります。光復後、最初のアパートは もうなくなった1958年の城北区鍾岩洞に建てられた鍾岩アパートです。小学校 5年から6年まで、筆者はここに近いスンニェ小学校に通っていいました。同じ クラスの友達がそこに住んでいたので、たびたび遊びに行きました。当時、家 がとても広かったことを思い出します。最近、資料を調べたところ、一所帯当 りの広さは17.3坪(共用面積含む)で、4階建て4棟に合計152世帯が暮らしていた と言います。恐らく友人の家は2世帯を一戸に改造して暮らしていたものと推測 されます。

写真は1965年に建てられた鍾路区昌信洞東廟駅の前にある東大門アパートです。 合計131世帯で、弘済洞の弘済アパート81号や、敦岩洞アパート90号など、当時 建設されたいくつかの小型アパートの一つだったといいます。東大門アパート の特徴は、表から見れば一つのアパートですが、管理室を通って1階に入ると、 小さな広場が開けていて、広場を基準に双方の世帯が互いに向き合っていて、 空は開かれられるように建てられました。一時、アパートの高級さを維持する ために、管理室からみだりに物を出せないように、家ごとに管理をしたりもし たということです。この他にも当時は珍しかったオンドル部屋と台所、トイレ などを必須面積にして、面積を極小化し、板の間を廃止してオンドル化して、 トイレを個人用半水洗式にして、板張りか多用途室をおきました。コメディア ンのイ・ジュイルなどの芸能人がたくさん住んでいて、「芸能人アパート」と 呼ばれたりもしました。

ソン・ジョンモクの「韓国都市60年の話」を読むと本格的なアパート団地時代 を開いたのは1962年に大韓住宅公社が作った麻浦アパートです。このアパート は当初、中産層以上の市民が暮らせるように10階程度の高層で作ろうとしまし たが、米国対外援助機関(USOM)の反対で6階(6棟350世帯)と低くなったそうです。 人々の最大の悩みは「それではキムチ甕はどこに埋めればいいのか」だったそ うですが、この話は当時の世相を思わせる部分です。ヴァレリ・ジュレイゾー (Valerie Gelezeau)の本、「アパート共和国」によれば、西欧ではアパートを 否定的な意味で描写されます。たとえば複雑な都市問題と都市暴力の象徴で、 大団地アパートは都市の分裂を助長し、社会的関係を断絶する住居形態と指定 されています。約30年前、本格的にアパート団地ができた当時の市民の反応は どうだったのでしょうか? なじみがうすいアパートは、住民の心を動かすこと ができず、とても冷淡だったそうです。特に、麻浦区チャンジョン洞のワウ・ アパート崩壊事故により、アパートのイメージはとても悪かったことが分かっ ています。写真は江西区塩倉洞のドンマル・アパートです。1970年に建てられ たアパートです。外形的には全体4棟に見えますが、一棟に二つの建物が向い合っ ていて、その間にオープンな階段がかみ合っていました。本当に独特な姿の アパートです。

韓国では、都市計画という物理的な行為は、強制撤去と連動して動作します。 ソウル市は1950年代末から1972年まで、無許可のスラム街の住民30万人を住民 の意思とは無関係に、市周辺の98の地区に強制移住させます。本格的な再開発 政策が進められ、都市に多くの人を収容できる住居形態としてアパートに注目 しないわけにはいかなくなりました。家屋主には市営アパートの入居権や移住 補助金が支払われ、朴正煕(パク・チョンヒ)政府は都市化と共にアパート団地 を積極的に奨励し始めました。その上、富裕層と上流層を引き込むために多様 な奨励策を積極的に進め、学校移転などを含む居住環境の総体的な改善策が続 きます。写真は南山の入り口にある中区の会賢市民アパートです。まず政界の 人物や、安全企画部の職員もたくさん住んでいたと記録されています。恐らく 近くに南山の安全企画部対共分室があったからでしょう。この他にも一時、 「アパート」という歌で一世を風靡した歌手、ユン・スイルをはじめとして、 ここにも多くの芸能人が住んでいたことが分かっています。地上10階1棟で構成 されています。合計352世帯で、面積はほぼ専用38.34m2です。今の基準では、 永久賃貸アパートの広さでしかない小さなアパートですが、わが国初のセント ラルヒーティング式で、2部屋と最新式の施設だった水洗式トイレと小さな木の 床があります。特に外形的には、出入口が1階と6階の2か所にあるのが特徴です。 南山の急激な傾斜地に作ったので、丘が6階の高さまで上がってきていて、丘と 6階に陸橋を設置して出入口を作り、出入りできるように設計したのです。

1968年、東部二村洞に公務員アパート団地、1970年には漢江マンションのアパー ト団地などができ、アパートは富裕層が暮らす高級住宅団地になり始めました。 しばらく停滞していたアパート開発ブームは、中東建設景気の後退とからみ、 韓国のアパート開発ブームに速度がつき始めます。この当時は、汝矣島周辺の 堤防道路の輪中堤と江南の開発が行われ、漢江を中心に多くのアパートが建て られ、屏風のように川辺を囲むようになります。写真は1970年の竜山区漢南洞 漢南のシボム・アパートです。山腹に建てられた漢南の示範アパートは、古く なっていますが比較的には外形は良好に見えました。スカイ アパートと同じよ うに、広場の床はセメントとコンクリートではなく土で覆われています。ここ はすぐに再建築が進められる可能性が高いようです。もうソウルの住居は半分 以上がアパートに変わっています。アパートをめぐる逆機能がたまに台頭して います。一時は富の代名詞で、欲望の対象だったアパートが、果たして時間が 経った後、私たちにどんな姿になって戻ってくるのでしょうか?

2012年の夏に訪問した西大門区忠正路のクムァ示範アパートです。何年か前、 近くに貧困社会連帯の事務室ができて、何回か行き来した所です。このアパー トはもうすぐ消える運命です。今まで訪問したアパートの中で一番古く危険に 見えました。古いアパートから漂ってくる臭い、とても古くなった窓枠とクモ の巣、狭い階段で屋上へ向かうと、こわれた醤壷や、その間には誰かが描いた 奇怪なグラフィティがあります。薄暗くなって建物のあかりが一つ二つと灯り、 古いアパートの屋上からながめるソウルの夜景がひと目で入ってきました。人々 が窓からソウルを見下ろして、多くのあかりのように、希望を夢見たのでしょう。

これまで私たちの社会では、撤去はそのままアパート建築につながりました。 地域の住民に分譲権を与える代わりに容積率を高める方式で建てられたアパー トは、時間が経つと住民がまた入居できない問題を生んだりもしました。また 入居者に賃貸アパート入居権を与えても、3-4人世帯が住むには狭い現実と高い 賃貸料と管理費は、絵に書いた餅でした。無分別に作ってきたアパートの問題 というべきでしょう。

1970年に建てられたミグン洞の西小門アパートを見てみましょう。これまで、 この社会では、一夜明ければ一戸二戸と引っ越しして、町は掘り返され、その 代わりに新しい空間を支配する見慣れない建物がきれいにできました。この国 は、すべてのビルを高層にする欲望で沸き立ちました。今紹介しているアパー トは、開発の死角地帯に放置され、元の場所をしっかり守っていますが、大部 分のアパートは古くて崩れる一歩手前の巨大なコンクリートの建物に残され、 危なっかしく生命を続けている状態です。西小門アパートは近くにある警察庁 に抗議訪問に行くたびに通る所にあります。1階は商店で構成され、道の屈曲に 合わせてて曲がっています。7階の階段を上がると、各階の高さがとても低く、 各世代が双方に配置されている形になっています。

何坪のアパートに住んでいるのか? どんなブランドのアパートに住んでいるの かが人を判断する基準になってしまった世の中ですが、このように古いアパー トに住むことについて堂々と自負心を持てる社会になることを望みます。

西小門アパートからあまり遠くないところにある1971年に建てられた中区中林 洞の聖ヨセフ・アパートを訪ねました。ミグン洞の西小門アパートが道路に沿っ て曲がっているのに対し、60世代が暮らす聖ヨセフ・アパートは丘に沿って上 へと曲がっています。大きな中央階段を中心に、回廊が長く繋がっていて住居 空間が配置された形です。扉ごとに聖堂の名前が記されているのを見れば住民 が近くのヤッキョン聖堂の信者であることがわかります。アパートの名前が聖 ヨセフ・アパートなのも、最初はヤッキョン聖堂の所有で、その後に聖堂が別 の事業のためにアパートを民間に売却したからです。これまで、韓国社会はア パートを売買することにより富を蓄積して、私生活の保障というものを抱かせ ました。しかし一方で、コンクリートの壁の中の排他的共同体で孤立した島だ という指摘もありました。しかし小さな庶民のアパートは、こうした財テクの 手段とはほど遠く、伝統市場の雰囲気がある周辺の大小の商店街は人間の交流 が活発に形成されていることを知らせます。

1971年に建てられた城北区貞陵洞のスカイ・アパートです。このアパートに入っ た瞬間、まるでいつか見たことがあるような「既視感」を感じました。恐らく 映画のロケ地としてよく使われるからでしょう。アパートの入り口に今まさに 咲き始めた花と木は、長い忍苦の時間に耐えているように見えました。スカイ アパートは崩壊に備えて鉄柱を打ち込んだ跡があちこち眼につきます。アパー トの内部構造は、開放的な回廊型です。屋上に上がると近くの貞陵の青い山が ひと目で見渡せます。三角形の小さな広場を中心に、アパートは合計3つの建物 で形成され、きれいな土の床そのままでした。空き家をそれとなく開いて入る と、小さな水洗式トイレと2つの部屋が見えます。アパートの外壁には「ソウル 市と城北区は生存権を保証しろ」という文字が比較的鮮明に残っていて、かな り前に住民の抵抗があった痕跡を見せます。

一番年が若い1973年に建てられた東大門マンションアパートです。このアパー トがある町にある三一アパートに筆者が住んでいた経験があるので幼年期を思 い出します。東大門アパートの近所には1960年代に作られたわが国初の東大門 室内スケート場がありました。厳しかった時代、朴正煕大統領の子弟や高官が 利用する時は、室内スケート場をまるごと借りて使用したので、その周辺が厳 しく統制されたりもしました。東大門マンションアパートは内部にエレベーター が設置されています。アパートの管理人に聞いてみると、初めて建てられた時 からあったそうです。「マンション」という名前からもわかるように、当時は とても豪華なアパートだったということです。アパートの構造は、各階ごとに ホール型で、エレベーターと階段があり、各世代の住宅は二つのホールを中心 に配置されている形です。東大門マンションアパートは長い間ずっと住居機能 が維持されるのではないかと思います。

清渓川のサミル・アパートは、初の庶民アパートと呼ばれています。1955年に 始まった清渓川の覆蓋工事は15年かかったと言われていますが、筆者の記憶で は70年代の末にも工事が行なわれていたと記憶します。清渓高架工事は1967年 に始まり、約10年の歳月がかかりました。清渓高架は金浦空港からウォーカー ヒル・アパートまで、都心を横切り一気に走る高架道路でした。高架道路から おりると清渓川周辺のスラム街が眼に入りましたが、ここを撤去してできたの がまさにサミル・アパートです。サミル・アパートの1〜2階は商店街になって いて、3〜7階は住居用に建築され、とても長い廊下の双方に各々住居空間があ ります。約33.057m2の広さで、部屋二間と小さなトイレがあり、木の床と煉炭 ボイラーを備えたアパートでした。当時としては最新式のアパートでしたが、 筆者がサミル・アパートで暮らしていた時には、すでに7階まで煉炭を配達しな ければならない不便を甘受しなければならず、次第に古くなり始めたと記憶し ています。もうほとんどが撤去され、清渓川7街と8街の間に一部2層だけが残っ ている状態です。

1967年にできた世運(世界の気勢が集まるという意)商街は総工事費44億ウォン の住宅・商店複合アパートの嚆矢です。13階建てのこのアパートは、ソウルを 約1kmにわたって横切り、鍾路から清渓川、乙支路、忠武路、そして退渓路まで 続きます。ここは1945年に朝鮮総督府が都心が爆撃された時に大火事が広がる のを防ぐため、幅50m、1km程度の火災防止用道路と空地だったそうです。ここ は朝鮮戦争を経て、避難民や故郷に戻れない人々が集まり2200軒ほどの無許可 の掘建小屋で暮らすようになります。ここを建築家のキム・スグンが35歳の時、 商店街であり住宅、自動車の道路であると同時に歩道という野心に充ちた計画 を進めます。1〜4階は商店、5〜17階はアパート、地上は自動車専用道路と駐車 場、3階は4つの商店街群をつなぐ1kmの歩行デッキが計画されられました。その 上、5階には人工の地盤を作り、町役場・派出所・銀行・郵便局が作られ、屋上 には小学校が作られて、各地区が一つの小さな都市になるという構想でした。 しかしこの破格的な計画は結局、未完成で終わります。都心の中のマンモス・ ビルは、清渓・サミル高架と共に「祖国近代化」の象徴で、一時は東洋最大の 電子商店街でした。しかし過ぎ去った歳月の痕跡は、こうして新しいものを古 いものに変貌させてしまいました。ソウル市の呉世勲(オ・セフン)市長の時に 公園として開発しようとしていた世運商店街が、現代式のタウン型商店街とし てリモデルされるというニュースがありました。しかし、都市中心部の大規模 な再開発事業を公営方式で進めることが負担だった上、統合開発をすると補償 金をめぐり地主間の対立が憂慮されました。現在は世運商店街の未来はとても 不透明のようです。

以上、ソウル地域の40年以上のアパートを見てきました。住民は不便を訴えて いますが、アパートの位置と条件により開発は容易ではなく、現在は住宅不動 産景気が低迷しているため放置されています。すでに撤去が始まったアパート を除き、いくつかのアパートは構造がしっかりしていて独特の外形を見せてい ます。数年前、ソウル市は昌信洞の東大門マンションを買いとって、芸術家の 作業空間として賃貸するという記事を見たことがあります。だが記事が出た後、 進展はなさそうです。ふとした思いつきですが、古いアパートを自治体が購入 してリモデルし、さまざまな方式で保存してはどうかと考えてみました。今ま でアパートをめぐる都市の痕跡を一つ一つ調べました。貧しい人々を暮らしの 根拠地から押し出して、そこに作られた巨大なアパート村の未来はどう変わる のでしょうか?

参考資料

  • 〈アパート共和国〉、ヴァレリ・ジュレイゾー(Valerie Gelezeau)、(フマニタス)
  • 〈韓国都市60年の話〉、ソン・ジョンモック(ハヌル)
  • 〈大韓民国アパート発掘史〉、チャン・リムジョン、パク・チニ(孝兄出版)

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2013-05-09 06:22:29 / Last modified on 2013-05-09 06:22:30 Copyright: Default

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