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ソウルの月、百四村

[チェ・インギの写真世の中](22) 104番地だから百四村になった貧民街

チェ・インギ(貧民活動家) 2013.02.01 14:59

旧正月を控えて時々百四村の消息が聞こえてきます。百四村は2009年に蘆原区 中渓本洞の18万8899m2が再開発区域に入り、最後の月の村(訳注:タルドンネ。 貧しい人々が不便な山腹で暮らす)として紹介され始めました。町の全体に昔の 情緒がそっくり残っていて、人々の目をひきつけます。

村をに行くには、蘆原駅で1142番の地域バスに乗り、終点に着くと仏岩山の中 から百四村が現れます。これまで百四村は、次第に雰囲気が衰退し、2012年5月 2日にソウル市都市計画委員会が中渓洞百四村再開発計画案を最終的に通過させ ました。そして昨年秋に訪問した時は「中渓本洞百四村住居地保全事業」による 土地利用計画とデザインガイドライン樹立を始めるという消息に接しました。

百四村はひと目見ても貧しいです。昔も今もそうです。1980年初め、町の教会 の先輩と登った仏岩山と水落山から見たマドゥル平野は、それこそ水田と畑に 取り囲まれた所でした。そういえば、その時は山を取り巻く村はすべて、今の 百四村のような貧民街で、特別な所ではありませんでした。そして視線を転じ、 上渓洞方向を見ると四方にはソウル江北地域のほとんどのゴミが集まるゴミ 処理場があった所です。いつからか、ゴミ山で覆われ、黒い廃水が流れていた 所にアパートが一つ二つでき、あっという間に巨大なアパート村になりました。

ここも、多くの古い貧民街がそうであるように、朝鮮戦争後にソウルと首都圏 に押し寄せた貧しい人々を、1960年代と1970年代のソウル都心開発で、一気に 都心から追い出された撤去民が新しい棲家を探して定着した村です。その時の 番地が104番地だったそうです。百四村という名前になった理由です。ふと思う のですが4号線の駅ができたのが1985年頃だったのですが、その前はどうやって この百四村から都心に出てきたのでしょうか。気になります。

写真のおばあさん(82歳)は百四村の88階段のすぐ横で暮らしています。しかし 猫との仲は良くないようです。猫がニャーニャーと鳴くと情けなくなり落ち着 かないそうです。路地からこっそり頭を差し出す猫を見ると口でシッと言って 追い払うふりをします。猫は逃げるふりをして、また戻ってきて、また細い声 で鳴きます。そばで見ていると、実はおばあさんと猫は友だちなのではないか という気がします。

88階段を降りて、また村が二つの通りに続く三つ角に戻ってきました。ここは 近々撤去される所です。路地に入ると入口から賑やかな壁画が眼につきます。 昨年訪問した時とは違う様子です。陽光は路地全体を豊かに照らしてくれます。 新しく開発される地域をゆっくり歩いてみると、午後のある時、よく日があた る路地に椅子を出して、暖かい陽光を楽しみながら談笑する村のお年寄りが数 人集まっています。

数年前から村の壁画を主題にした作業がどんどん増えて、今では多様な声が聞 こえてきます。百四村にずっと関心があって、絵で表現している人がいます。 現代床屋をはじめ、商店に絵を展示しているイ・ソングク氏です。「私が暮ら していた所も、以前の百四村と同じ所でした。百四村は2003年から都市ができ、 文化が変わる過程について、絵と写真、調査作業をしています」。付け加える と、百四村の壁画にはいろいろな意見があります。昨年、百四村5洞と6洞中心 に壁画作業をしようとすると、住民が嘆願書を出して抗議し、結局できなかっ たそうです。「ここに描かれている壁画を見ると村の歴史と伝統とは無関係に 漫画のキャラクターが描かれています。没個性的に千編一律に展開していて、 残念です。明らかに村の住民を他人の視線で対象化する問題があります」。 いまでは村の壁画について、真剣に省察をする時のようです。

村住民のイ・ヨンファン氏(76歳)から、もう少し詳しい状況を聞きました。 動きが不便ながら、訥々とした語り口で少しずつ話してくれます。

「ここはソウルだが、まるでずっと昔に戻った感じです。いつここに来られた んですか?」

「1972年には往十里に住んでいました。家が撤去され、政府が一方的に私たち の家族をここに送り込みました。32歳か33歳か、家族4人を連れてこの村に入っ てきて住み始めたのです。ところが政府は何の支援もしませんでした。人が暮 らせるような所ではありませんでした。何かを少し作ると、みんな叩き壊され たんです。他の人たちが入ってきても同じでした。そんな形で生涯ここを守っ てきたのです」。

「その時ここは山の合間だったと思いますが、出かける時はどうしたのですか」

「バス乗って行くんです。バスはこの下まで入ってきました」。

ここで、気がかりなことがなくなりました。幸い、かなり前からここにはバス が入っていたのです。仏岩山は岩山です。木は多くなく、岩があちこちに広く 散っていて、当然、電気や水道施設は想像もできなかったのです。その後、 1980年代までは無許可地域でしたがそれから許可が出て、村の住民が土地を買 い、2000年代中盤に地価が上がり、外部の人によって大きな投資が行われ、 1200所帯ほどのうち、土地の主人が所有する600所帯程度が残りましたが、都市 ガスもなく、生活が不便なので、空き家が多いそうです。

百四村は入口のテジンスーパーを挟んで、大きく二つの区域に分れています。 路地は山の斜面に沿って中に入っていくと、所々家が空いています。道ではな いようですが、明らかに道だった所も多いです。階段を歩いて上がると、体を ひねってやっと通れるようなところもあります。1人がやっと通れる程度の幅を 入ると空き家が見られます。すでに多くの家が空いています。狭い路地を歩く と、塀の上に壷が見えます。われた植木鉢には草花が植えられていて、乾燥台 にかかっている洗濯物が冬の風で干しダラのようにかちかちに凍りついていま す。訳もなくさ迷って、百四村88階段の近くに出ました。長い階段をなんとか 昇り降りする村の住民たちを見ながら、カバンから缶コーヒーを出して、一杯 飲みました。

現代理髪館の看板があるドアをあけて入ると、おじさん(70歳)が懐かしそうに 迎えてくれます。暖かい煉炭の暖炉にあたりながら、この村の来歴をもっと 聞くことにしました。

「2016年10月が入居予定で、現代理髪館の周辺の5洞6洞の村はソウル市が買っ て、ここに賃貸アパートの代わりに保存地区を作るんだ。そしてあの向こう側 はみんな撤去してアパートを立てるというけど、どうなるんだか」。

本格的な撤去が近付き、現在は支障調査が行われているという話もあるが、村 がどう変わってほしいかという質問に、ここで生活する住民のほとんどは健康 状態が良くない高齢者や生活保護受給者だそうです。細々と暮らし、所得の半 分以上を家賃と暖房費として支払うと事実上何も残らないそうです。アパート に入っても管理費などを払うのは容易ではなく、それに長い間暮らした町を捨 てて、別のところでは暮らせないということです。

「村の人が集まって暮らしていた時の面白い記憶があれば話して下さい」。

「正月にはみんなが集まって、飲み食いして、ユンノリやらそんなことが面白 かった。しかし本当に、この町ができてから、この床屋には今でもお得意さん がまだ来る。それもみんな面白い」。

百四村は既存の路地を自然に維持し、自然の地形によってできた低層住居地を リモデルしたり新築し、保存・管理する開発方式を指向するそうです。しかし、 また質問してみれば、周辺の都市が急激に開発され、一晩で消える村のために ソウルの人は故郷を忘れて久しいという話が出回るほど掘り返されています。 しかし最近は路地や貧民街など既存の空間を再構造化し、一種の『場所差別化 戦略』の一環という側面があります。不動産景気の沈滞とからみ、象徴的操作 という側面もうかがえます。

それに百四村の未来はまだ不透明のようです。住民と入居者双方のための開発 が順調に進むのか、まだわかりません。私が見る百四村の印象はそうです。所々 に貧困の痕跡が残っています。ここを暖かい貧民街と描写するのは事実を歪め るものです。すでに家を残して主が出ていった場所に残っているものは、割れ たガラス窓と、無造作に捨てられた主人を失った世帯道具が広場一杯の雑草に 埋もれています。路地と貧民街を復元することの意味は、既存の路地と貧民街 の価値を、ただ民俗村のように視覚的に見せることを越えなければなりません。 昔の情緒を享有するだけでなく、次第に消えていく生活の共同体を生き返らせ ることに進まなければなりません。

もう一つ言及するなら、これまで全国で大規模な都心開発事業が暴力的な方法 で進められ、これにより多くの入居撤去民が生活している家で人権を侵害され てきました。あるいは百四村もこうしたことが起きるのではないかと心配です。 入居者が櫓闘争を選ぶ理由の一つが、住民の住居生存権を威嚇する野蛮な用役 チンピラの暴力です。住居環境を改善するという名目で、みだりに家から追い 出されるようなことがあってはいけません。今までの暴力的な人権侵害はこの 暖かい百四村でもいつでも強行されかねないのが現実です。竜山で起きた惨事 の後、最近まで警備業法と行政代執行法を改正し、強制退去禁止に関する人権 指針や条例を実行力持って法制化しろという主張は、だからさらに説得力をもっ て聞こえます。

「人も優しいだけではだめです。優しさを守る『きつさ』を持つ必要がありま す。ちょうど、まだあまり熟していない果実を取って食べる人を恐ろしい病気 にするように、優しさは自分を防る手段を持っていなければ、悪い連中を太ら せる餌になるだけです。優しさを守るために、しっかりした厚い外皮をかぶる ようにです」。

この言葉は、チョン・ウイク先生の「一人だけ楽に暮らして何が面白いのか」 という本の一節です。われわれは、貧しくても幸せなこともあると言います。 それは違います。貧困は崖っぷちです。貧しくても幸せだと言えるなら、貧困 は、私たちをもう一段階厳しい所に追い込むでしょう。貧困をきちんと認識す ること、私たちが連帯しなければ、いくら頑張っても、この恐ろしい貧困を変 えることはできないのだということを直視しなければなりません。

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2013-02-02 23:16:49 / Last modified on 2013-02-02 23:16:49 Copyright: Default

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