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誰のための「現代化」か

[チェ・インギの写真世の中](19)釜山チャガルチ市場

チェ・インギ(貧民活動家) 2012.12.26 14:42

生臭い海辺のにおいが鼻先をかすめます。そして遠く船の汽笛の音とカモメの なき声もかすかに聞こえてきます。「おじさんはやくおいで」しっかりした声 と新鮮な海産物を手に握ったチャガルチのおばさんの姿で、ここが釜山のチャ ガルチ市場だと実感します。釜山と言えば、チャガルチ。チャガルチといえば おばさんではないでしょうか? チャガルチ市場は釜山広域市中区南浦洞と西区 忠武洞にあります。本来は現在の釜山市庁があるヨンミサン東南側の海岸と、 南浦洞の乾物市場周辺にありましたが、1930年代に南港が埋めたてられてから、 今の位置に移ってきました。チャガルチという名前も、私はここで太刀魚(カル チ)を売っているからチャガルチだと思っていましたが、忠武洞ロータリーまで のびていた砂利(チャガル)の多い場所をチャガルチョと呼んだことにも由来し たそうです。釜山駅からチャガルチ市場に行く方法も簡単です。地下鉄に乗り チャガルチ市場駅でおりるか、釜山駅の反対側のバス停留場で27番に乗れば、 一本で行きます。チャガルチ市場の向かい側は南浦洞で、釜山国際映画祭がこ こで開かれます。近くに龍頭山公園と国際市場があります。

チャガルチ市場についての資料をさらに探してみると、1889年の日帝強制占領 期間に釜山水産株式会社を作ってから出発したと伝えられています。そして 1922年になり、釜山漁業協同組合が南浦洞に建物を作って委託販売事業を始め、 チャガルチ市場の商人が求心点を探して集まりました。これによって、釜山の 魚市場は北港の釜山水産株式会社と南港の釜山漁業協定委託販売場に二分化さ れ、その後釜山水産株式会社は国内最大の魚市場である現在の釜山共同魚市場 に発展することになり、南港から出漁する零細漁船の漁獲物を扱う零細商人が 釜山漁業協定委託販売場の周辺に集まって、今のチャガルチ市場を作ったそう です。現在は、専有面積7243m2、釜山漁業協同組合・魚介類組合などの近代化 された魚市場が480ほどの店舗を形成し、主に沿岸や南海でとれるタラ、ニシン、 太刀魚、貝、海草類などを販売しています。

こことの縁は、2005年にチャガルチ市場の現代化事業推進計画が立てられてか らです。当時はマスコミで、チャガルチ市場の露天商摘発をめぐる多くの記事 が流れていました。活動家が名刺と宣伝ビラをいっぱい包んでチャガルチ市場 を訪問しました。チャガルチ市場前に道路ができ、露天商がなくなる運命とい う記事を見て、とにかく出かけましたが、実際にはチャガルチ市場の露天商は、 天下泰平でした。摘発の現実をよく認識していませんでした。チャガルチ市場 に興味を持ち始めた契機は、かなり前に社会運動に目を開き始めた頃に、ある 月刊誌に載ったチェ・ミンシク作家の写真です。『摘発班員に喉もとを捕まれ て連れて行かれる露天商の惨めな姿』を撮った一枚の写真は、ガンと頭と胸を 打ちました。写真というものは家の出来事や旅行先の風景を撮るものと認識し ていた私に、チェ・ミンシク作家の写真はまさに衝撃でした。これまで私の生 に大きな影響を与えた本と先輩、そして同僚に劣らず、この一枚の写真はまだ 胸の中に深く残像が残っています。今でもチャガルチ市場に行くと、チェ・ミ ンシク作家を覚えている露天商の方がいます。下の写真の中のタイヤキおばあ さんです。

タイヤキを売るおばあさんは、戸籍年齢では39年生まれで8.15の光復でここに 来たそうです。詳しい記憶はありませんが25歳の時からチャガルチ市場で商売 を始めたそうですが、名前を聞いても忘れてしまったと、言いませんでした。 前はミシン一つで男子ズボンやジャンパー、作業服を直してくれて、服を売っ てIMF以後にはタイヤキを売り始めたそうです。タイヤキおばあさんが自慢する ものがあります。タイヤキの生地を自分で直接作り、何か一つか二つ多くいっ て、とてもおいしいそうです。上得意も多いのですが、ある日本僑胞はタイヤ キを食べたいと何日か前にも訪ねてきたと自慢します。そしてタイヤキおばあ さんは、娘二人に息子一人、すべて市場で稼いで育てたそうです。たくさんは 稼げなくても、自分はおかゆを食べても、子供たちを育てたといいます。今、 子供さんたちは休めと言っても、休んでどうすると、路上に居座っていても、 他人に悪口を言われず後ろ指を差されなければそれだけだといいます。去年の 夏におばあさんを取材して、秋に写真を選び、また訪ねて行ったのですが、こ の日はタイヤキの枠だけがぽつんと残っていておばあさんはお目にかかれず、 残念でした。チャガルチ市場の露天商を組織しようと思って釜山を訪問するた びに行くのですが、チャガルチの露天商はしだいに減って、組織はだめになっ ています。

写真は今年七十を越えたヨンジおばさん(実はおばあさん)でいらっしゃいます。 チャガルチ市場の共同売場内の商人は、写真を撮られることに寛大ではありま せん。乱暴にカメラを突きつければとてもひどい目にあいます。ヨンジおばさ んも、初めは「何で写真を撮る?」と怒りました。「チャガルチのおばさんの 商う姿がとても美しいのです」とし「インターネットに載せれば宣伝にもなる し、良くありませんか?」と愛嬌を振りまくと「それならきれいに写せ」とい います。ヨンジおばさんに一日に何匹の魚の腹を割くのかと聞きました。する と、魚を買えば教えてやると言います。大きな魚を黒いビニールに入れて一日 中歩き回れないから困ると言うと、「写真を次は必ず持って来い」といいます。 そうして無駄口をたたいていると、通りがかりの外国人数人も割り込んで、珍 しそうに小さなカメラでずっと写真を撮ります。その後でチャガルチ市場共同 売場に立ち寄り、ヨンジおばさんに撮った写真を差し上げて、少しずつ縁を結 びました。ヨンジおばさんの上手な包丁さばきは一日二日の鍛練された手並み ではありません。真冬の骨に染みる風と、夏の暑さをバッサバッサと切って、 今まで血をはねとばしながらきたのでしょう。深く皺が刻まれた黒い顔が全て を語ってくれます。確かに家族の運命があの包丁にかかっていれば、切れない ものはありません。

ところがチャガルチ市場の現代化事業は果たして成功したでしょうか? まだ思 わしくないようです。2012年11月29日、大統領選挙を控えてチャガルチ市場の 商人は「李明博政権は海を放棄した」とし「海を放棄した李明博政権によって 漁民と庶民生存の根拠地である海を奪い、水産業とチャガルチ市場を危機に追 いやった」と対策を要求しました。事実上、国内の魚市場現代化事業は不振を 免れないか、むしろ現代化事業の後に商圏が活性化せず、逆に萎縮した事例も あるそうです。釜山の『多大浦シーランド、仁川総合魚市場、束草シーフード ランド』がその代表的な例です。商店街で営業し、収益をあげるより結果的に 高い賃貸料収益のためだけに店舗を分譲するマインドが市場の活性化を阻害し ました。結局、無理な現代化事業による結果のように見えます。

チャガルチ市場を通り、影島大橋方向に少し歩くと、乾物を売る古い商店が並 ぶ姿が見えます。商店がまばらになる所に来ると、小さい交差点があり、海方 向右側に折れる狭い道一本がまた現れます。ちょっと見ると海と共に橋の工事 をしている姿が目に映ると思います。ここがまさに釜山市中区と影島区をつな ぐ韓国初の連陸橋の影島橋です。1934年11月23日午前10時30分、爆竹を信号に 影島橋は開通しました。当時の釜山の人口は16万人でしたが、その日、この橋 を渡った人は何と5万人に達したといいます。もちろん日帝強制占領期間に収奪 を目的として日本人により作られた橋ですが、朝鮮戦争の避難で、家族を見失 えば、この影島橋で待つという約束を残した程、釜山では象徴的なところです。

「吹雪が舞う風が冷たい興南埠頭に声の限りに歌って探す、クムスンどこに行っ て道に迷い、さ迷ったのか、血の涙を流しながら、一事の後に私一人できた。 一家親戚すっからかん、今は何をするのか、私のからだは国際市場の商人だ、 クムスンに会いたい、故郷の夢も懐かしい。影島橋の欄干の上に三日月だけが 淋しく浮かぶ」。歌手ヒョニンが歌った『力強いなクムスン』という歌詞にも 登場する影島橋は、2013年7月に新しく建設される予定です。影島橋の下には、 古い占い師の家が残っています。1970年に写したチュ・ミョンドク写真作家の 写真でも、影島橋付近に小さな占い師の家がたくさんあるのが発見できます。 ちょうど障子の扉が半分ほど開いた占い師の店の間からカメラを取り出して 「おばあさん、写真一枚撮ります」というと、赤い熟柿をおいしそうに食べて いたおばあさんは背を向けて、私を見ます。ん? しばらくあわてました。占い のおばあさんは前が見えない視覚障害者でした。

前が見えないということは、本当に絶望的だと思います。占いのおばあさんは、 自分の不幸にもかかわらず、現実に絶望して悲しみを抱いて生きる不透明な人々 の未来を占って、痛い傷を軽くなだめたと思います。ですから2012年、3次希望 バスの時です。多くの人が夏休みも返却して影島造船所85号クレーンに上がっ たキム・ジンスク釜山民主労総指導委員に会いに行くところでした。バスは、 釜山大橋の入口で警察に阻止され、全く動けませんでした。一部は抗議デモを して駆け引きをして、警察の注意を引いている間に三々五々阻止線を突破して 悠々と影島橋を渡っていきました。希望はよく虹に例えられます。目の前で、 はっきりと見えるのに、空しくも手でつかめないもの。近寄れば近寄るほど、 遠くに逃げる虹のように、あるいは希望とは、そんなものなのかも分かりませ ん。もし私たちが影島橋の上で警察の阻止線を突破できなかったとすれば、私 たちが途中で諦めていれば、そして行っても特別なことはないかもしれないと 諦めていれば、その日の希望バスは、いやその後も希望バスはなかったでしょ う。どうして諦められるでしょうか。あそこにああして見えるのに。あの橋さえ 渡れば仲間に会えるのに。

チャガルチ市場とその近くの影島橋は、日帝強制占領期間に日本が自国の漁民 を保護するために建設しました。ですから日帝の苛酷な収奪がその目的だった のです。そう思えば都市化は新しい階級関係と近代社会体制の形成と共に出発 しました。急激な都市化は圧縮的だっただけに、単に離農現象に限られる人口 集中の問題を越えています。そのうちに都市は人のために建設されるのではな く利益拡張の方便になり、伝統的な人間関係の断絶を呼び起こしました。よく 知られるように影島橋の近くには釜山の第2ロッテワールドができます。影島橋 周辺の環境はもちろん、橋の下の占い師の運命は、風前の灯火のように危険な 状況に置かれるのは明らかです。チャガルチ市場も現代化事業が進められて、 近代的な消費関係の拡散と流通関係へと急速に再編されそうです。チャガルチ 市場の露天商は、摘発よりもさらに恐ろしい競争力を失い、次第に消えて行く でしょう。影島橋の下の階段に座り、海をながめて、しばらく考えに溺れます。

次の話は無分別な現代化事業を原点に戻し、また以前の活気に満ちた在来市場 に戻った釜山の機張市場を訪問する番です。

・斗山百科『影島橋とチャガルチ』参照

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2012-12-29 01:43:36 / Last modified on 2012-12-29 01:43:39 Copyright: Default

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