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韓国:当然の差別、当然の同等
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当然の差別、当然の同等

[寄稿]コルト・コルテック・ギターを作る労働者たちの話

ヒジョン(ルポ作家) 2011.05.29 11:22

これはとても当然のことなので、伝えるのも心苦しい知らせだ。同じ労働を していた労働者が同じ賃金を受け取れるようになったという知らせだ。むしろ 特異なのは、これが初めての法的(請求権)認定だという事実だ。まだ驚くべき 話が残っている。『同じ仕事をすれば同じ金額の賃金が支払われなければなら ない』という常識的な判決のために、労働者たちは地方、高等裁判所を経て、 最高裁まで4年間も法廷で闘争を続けてきた。

4月28日、法院はコルテックの女性職員11人は男性と同じ価値の労働をしたのに 賃金差別を受けてきたとして、コルト楽器は彼女らに差別賃金を支払えと判決 した。補償される金額は1人当たり少なくて200万ウォンから1200万ウォンにまで なる。

消えた会社

2006年、労働組合を作ったコルテック労働者の最初の要求は『同一』だった。 正当な理由がなければ、月給の値上げは働く人すべて同じようになされなければ ならない。同じ業務を遂行すれば、女性でも同じ賃金が支払われなければならない。

それ以前は、管理者の好きなように賃金が上がった。気に入った職員に500ウォ ン、1000ウォンと月給を上げてやるのが賃上げだった。労働組合ができて初め ての団体交渉で、すべての労働者に会社の歴史で最も高い賃上げがあった(それ でもほとんどの労働者の時給は最低賃金より百ウォンちょっと高いだけだ)。 前の年、会社は事情が苦しいという理由で賃金を凍結した。しかし労働組合が できた後、公開された会社の財政状況は全く違っていた。景気が悪かったという その年、会社は純利益87億を出した。何も知らない労働者をだましてきたのだ。

労働組合は、女性と男性労働者の賃金の差も問題提起した。入社して10年にな る女子職員が今入ったばかりの男子職員と同じ程度の月給だった。会社は口先 で改善するというばかりで、あれこれ問題から逃げていた。結局、労働組合は 2007年1月に労働部に両性平等陳情を出した。

そうして一つずつが変わって行った。女性労働者への管理者の悪口が消えた。 お尻を叩いて行くふざけも消えた。時間外手当もない残業強要も消えた。物量 が減れば、その少しの間が我慢できず、かならず職員を解雇していた風景も消 えた。労働組合ができて1年、一つ二つとなじんだことが消えた。

そしてある日、会社が消えた。

2007年4月10日、コルテック楽器は経営上の困難を理由に廃業した。いつもの日 と同じように出勤した労働者は、閉じられた工場の前の廃業を知らせる文書を 見た。その後、会社は労働組合とは何の対話もしようとしなかった。労働者たち は理解できなかった。なぜ借金一つない会社が一日で門を閉めるほど経営が 難しくなるのか?

すぐ理由が分かった。さらに多くの利益と、『労働組合』のためだった。労働 組合をなくすために偽装廃業をしたのだ。会社を閉めれば労働者は仕事を見つ けるためにちりぢりに散り、自然に労働組合もなくなるのだ。労働組合が消え た後、また言うことをよく聞く少数の人だけを選び、工場を稼動させればそれ までだ。インドネシアと中国に工場を作ったので、韓国工場は何か月か閉めて も無理はないという会社の内心が見えた。

会社はなぜ労働組合をなくそうとしたのか? 薬品の臭いに胸が悪くなるような 工場に換気装置を要求したからか? 一週間に一回支給する手袋とマスクを毎日 支給しなければならないからか? 『おとなしい』女たちに前のように悪口が 言えないからか? 最低賃金にさらに百ウォンを加えられるのが嫌だったためか? それで工場の門を閉ざしたのか?

廃業の日はちょうど給料日だった。金が出入りする時なのは明らかだった。40代 に入った労働者たちは、閉じられた工場の前であせった。会社が望むままには 散ることができなかった。消えた工場で、道路で戦う生活が始まった。5年の時が 流れた。消えた工場を根拠地にして座り込みをしたり、本社に踏み込んだりもした。 昨年4月から数人の組合員がコルテックの系列会社で偽装廃業されたコルト楽器 がある仁川工場で座り込みをしている。

私の人生が壊れた

「お前らのおかげで私の人生が壊れた」。

コルテック楽器のパク・ヨンホ社長が労働組合に言った言葉だ。しかし労働者 たちは、誰が誰の人生を壊したのかを問い直さなかった。

コルテックで働く女性労働者と会って、人生が壊れたかと尋ねた。

「違います。仙人ごっこをしているの」

3人の女がくすくすと笑う。仙人ごっことは、田舎にきていることを言う言葉だ。 尾を振る黄犬、後ろに立ち並ぶ味噌樽、低い軒と高い門の敷居。『民主労総』 と書かれたワゴン車がなければ、まさに農村の民家というそこに行けば三人の コルテック女性労働者と会える。男たちが仁川のコルト工場で座り込みをする 間、移動が自由ではない女たちは、工場がある大田に残って野菜を洗い、ご飯 を炊き、編物をして、農作業をして、会議をして、闘争を計画する。

味噌醤油の事業をするために田舎にきた。戦いが長びいて、金がなくなった。 会社はすぐ何千万ウォンがなくても続くが、労働者は僅か何万ウォンでも戦々 恐々とする。生活苦に疲れた人々は、仕事を見つけるために労働組合を離れた。 その時に考えたのが組合員が一つに集まって、味噌や唐辛子みそを作って売る ことだ。味噌醤油を作って売った金が生活費と闘争基金になるので良く、生活 費のために組合員が散らずにすむので良かった。

金を用意して戦いを準備した。この戦いが長く続くと思っている。容易ではな い戦いだということを体で体験した。

「初めは3か月で解決するはずでした」。

彼女たちは、会社が門を閉めた時、純粋だった自分を思い出して笑う。

「誰が見ても会社が間違っていたのですから。偽装廃業だと確信していました から。経営悪化という根拠は見つかりませんでした。売上も良く、何か月前まで 物量が足りないと残業もさせた会社ですからね。初めは希望的に、当然私たち の言っていることが正しいので、すぐ解決できたはずでした」。

しかし誰一人として、労働組合の肩を持ってくれなかった。労働者は座り込み をしていた工場からも追い出された。労働部も警察も市会議員たちも、誰も 労働者がかわいそうだと言ってくれなかった。長い戦いが始まった。

米国、日本、ドイツなどを6回も訪問し、コルテック・ギターと取り引きのある 外国の業者と音楽界に問題を知らせた。人々の関心を集めるために高圧送電塔 にも上がった。長い戦いの間、生活費作りは文字通り、生計『闘争』だった。 険しい道を行きながら、これまでいかに自分たちが純粋だったかがわかった。

最低賃金も払われないのに、給料日には満足していた。『子持ち』女を働かせ てやる所もないのだから、これで十分だと思った。その金で子供に勉強をさせ、 着たいもの、食べたいもの、月々手にいれられて幸せだった。夜勤残業で手足 がはれても、おがくずだらけの工場で1年12か月、風邪を押して、みんな金を稼 いだ。テレビを見て、有名な歌手がコルテックのギターを演奏していると、お 母さんが作ったんだと自慢もした。ギターの弦を一度も握る時間はなかったが、 自分が作ったギターが世界的なブランドだということで充ち足りていた。

しかし会社が門を閉めて理解した。会社の目に彼・彼女たちは、わずかな金で 言われた通りに働くべき召し使いだった。長ければ20年以上働いた会社が一日 で消えても、労働者には何もできなかった。

知らずに働いた。労働組合関連のニュースはもちろん、時事政治問題も他人事 のように聞き流していた彼女たちは今、小さなニュースにも耳を傾ける。

「全てが社会問題と、政策問題なのに。いつかは私のことになるかも知れない のに、当分自分の問題ではないからと軽視して。労働組合がなかった時はそう でした。今、それではだめだと思うんですよ」。

世の中を見る目が変わると、ニュースを見て夫と見解の違いでよく喧嘩をする と冗談を言う彼女たちだ。自分たちの判決にも思いを吐き出す。

「個人的にはこれまで積もっていた恨みが少しは晴れました。でも私たちだけ の問題ではない。作業環境が悪いほど、女性・男性の差別待遇も大きいようです。 これから女だという理由で差別されないようになればと期待します。私たちの 判決が役に立てば嬉しいです。これを契機に社会的に広く知られれば嬉しいで すし、子供たちがこんな環境で働かないようになればいいですね。他の見方を すれば、それを望んで戦っているんです」。

長い戦い、我慢する

あらゆる性差別と非人間的な扱いを拒否した労働者に対し、パク・ヨンホ社長 が『私の人生を壊した』と恨んでいる間、彼女たちは毎日毎日知っていく。こ れまでの人生がくやしいものだったことを。きちんとした待遇を受けられなかっ たことを。正当な待遇を受けるために何が必要かも悟る。

「以前はみんな他人で、警戒すべき人でした。互いに月給も公開しません。 みんな別々に月給が出ます。管理者がかわいがってくれるだけ月給をもらるの だから。いくらもらったのか互いに知らず、話もせず、わけもなく話して管理 者に押されて。同僚が私の仕事を取って、あまり難しくない仕事を取る、そんな 人でした」。

差別と競争が当然だった。労働部に陳情すると、何人かの女子職員が会社側に 立って、『私たちは女だから賃金が少ないのは当然だ』と証言をした。会社が させたと思うと腹立たしかったが、一方で自分たちみんながそうして働いてい たことを思い出した。差別され、給料が少ないのは当然だと考えていた。

しかし長い戦いで、彼女たちは悟った。世の中のどんな常識も無力な労働者に ただくれるのはないということを。無力な者どうしが、互いに声を合わせなけ れば、何も要求できないということを。

「今は分かります、一緒にいることが力だということを。ですからつらくても 離れないために、味噌醤油の事業もして、生計問題で一緒に戦えない人たちも、 いつも労働組合にいくらか補ってくれるんです」。

コルト-コルテックはもうひとつの判決を控えている。偽装廃業による不当解雇 を問う判決だ。2009年、高等法院は不当解雇だとし、労働組合の手をあげた。 大法院の判決を待っている。

しかしいつ判決が出るのか誰も知らない。労働者たちはとても長々しい闘いを しなければならない。それまで収入はなく、出て行くばかりの生活は続くだろう。 だが今、彼・彼女らはどのようにして頑張らなければならないのかをしっている。 互いを抱き合って我慢する。

大法院2011タ6632男女差別賃金請求事件の概要および意味

女性勤労者である原告は被告の株式会社コルテック(以下『被告会社』と言う) に1993.6.25.から2000.7.6.の間に入社し、被告の会社の太田工場で働き、 同じ事業内の男性勤労者と同じ価値の労働をしたにもかかわらず、被告会社は 上の男性勤労者に支払った賃金より低い賃金を原告に支払いました。

原告は上の男性勤労者が支払われた賃金と、実際に原告に支払われた賃金との 差額(2004年5月分から2007年6月分まで)の支払を請求する訴訟を2008.12.13.に ソウル南部地方法院に提起したところ、ソウル南部地方法院は2010.7.28.原告 が上の男性勤労者と同一価値の労働に従事したという事実および原告が性別を 理由として被告会社に上の男性勤労者と差別されたという事実を認め、被告の 会社に差別賃金を支払えという判決をしましたが、会社はこれに従わず、被告 会社は2010.8.13.ソウル高等法院に控訴しました。しかし、ソウル高等法院は 2010.12.24.に被告の会社の控訴を棄却しました。被告の会社はまたこれに従わ ず、2011.1.19.に大法院に上告しましたが、大法院は2011.4.28.に被告会社の 上告を棄却したことで、この事件は確定しました。

この事件では、(1)原告の労働が、上の男性勤労者の労働と同じ価値のものかど うか、(2)差額相当の賃金の請求権が認められるのかどうか、(3)客観的に差額 賃金を算定する方法があるのかどうかなどが争点になり、上の争点に関して、 原告・被告の相互の間で激しい攻防が行われ、法院は『(1)太田工場の製品生産 過程、作業工程、男女勤労者の労働強度、勤労者新規採用時の賃金策定方法な どを総合してみると、男女間で賃金の差別支給を正当化するほどの『技術』、 『努力』、『責任』、『作業条件』に差があるとは言えず、(2)憲法の平等理念、 憲法第32条、男女雇用平等と仕事・家庭両立支援に関する法律(以下『雇平法』 と呼ぶ)第7条、第9条、第10条、第11条、勤労基準法第6条、第15条に照らして、 原告は被告の会社に差別された賃金相当額を直接請求する権利があると見るこ とが妥当で、(3)原告別に最も近い時期に入社した男性勤労者の賃金と比較する 方法が最も合理的だと判断することで、原告らの手をあげてくれました。

雇用平等保障法が制定された後、差別禁止規定に違反すれば、その違反の効果、 差別された勤労者が使用者に差別賃金を請求できるかどうか、支払いを請求で きる賃金の範囲(労働委員会救済申請前の3か月に限定されるかどうか)等が議論 されてきましたが、この事件の判決は、同一価値労働について性別を理由として 同一賃金を支払われなかった勤労者は、差別された賃金を使用者に直接請求する 権利があると初めて大法院判決で認めた点、使用者に直接請求できる賃金が一程の 範囲に限らず、差額の全額という事実を確認した点で、その意味が大きいと言えます。 (キム・チャゴン弁護士)

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2011-05-30 03:11:17 / Last modified on 2011-05-30 03:11:28 Copyright: Default

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