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〔週刊 本の発見〕『極北へ』(石川直樹)
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毎木曜掲載・第380回(2025/3/13)

悠久の時のなかの一瞬の記憶

『極北へ』(石川直樹 著、毎日新聞出版、2018年) 評者:根岸恵子

 『ツンドラブック』(「The Tundra Book: A Tale of Vukvukai, The Little Rock」2011年ロシア 監督Aleksei Vakhrushev/写真)という映画を数年前に日比谷図書館で上映した。私の極北への情熱がこの企画を実現させた。この映画はシベリア極北の厳寒の隔絶された世界で暮らすチュクチ族の人々の暮らしを1年間に渡って追ったドキュメンタリー映画である。雄大な極北の景色を背景に過酷な環境で、トナカイの放牧によって生きる遊牧の民。純白に覆われた大地。私が魅了されるのはその圧倒される絶景と風の音。聳え立つ白い威容のある山々を目にして感動しない者はいないだろう。

 極北とはそういう土地だ。人々を魅了し、拒絶する。この『極北へ』は一人の冒険家石川直樹さんが歩いた極北の記録である。

 筆者の石川直樹さんは、高校生の時、一人でインド旅行を経験した。根っからの冒険家なのだろう。そのころカヌーイスト野田知佑さんと出会い、彼の助言通り大学に進学し、1年生の時、カヌーでのカナダからアラスカまでのユーコンの川下りを実現している。彼が影響された冒険家には、すでに故人となった星野道夫さんと植村直己さんがいる。

 私も星野道夫の極北についての本や写真集を見て身震いした人間である。それに私の人生の目標の一つがユーコンの川下りだ。カナダで暮らしていた時、同じコミュニティにBlackwater Paddlersというカヌーイストたちのグループがあって、ユーコン川をカヌーで下った映像を見せてもらった。連なる山々のなかをユーコンが滔々と流れる美しい景色に憧れて、いつかは行ってみたいと思いながら、何十年も時が経ってしまい、いまだに行けていない。

 私は時々人から勇敢だと言われるが、私など無難なところをうろついているだけで、とても冒険家とは言えない。極北に憧れてはいるが装備を考えるとその重さに気持ちは萎えてしまう。だから探検記や写真集を読んだり見たりして満足するが、本当は極北へ行きたい。この本は石川直樹さんの体験記であるが、彼が20歳そこそこで登ったデナリ(かつてはマッキンリーと言われたが、本来の名前であるデナリと今はよんでいる。しかし、トランプがまたマッキンリーに名前を戻すと言っているので、やめさせたい)から彼が旅した極北の20年間をまとめたものである。

 石川さんはアラスカ各地、グリーンランド、スカンジナビアを旅した。彼は旅先で見て経験したことをまるで今読者が見ているかのように描写する。そして、自然や動物、人に対する彼のまなざしのやさしさを伝えている。また気候変動が極北の環境や動物に与える影響を鋭く指摘している。

 彼はスカンジナビアの先住民族サーメを訪ね、ノルウェー海の沖合のロフォーテン諸島で発見されたという1万年前に描かれた古代の壁画を見に行く。発見者のクヌートという老人とボートに乗って現場へ向かう。クヌートが岩の前で指をさし「な、見えるだろ?」と石川さんに問う。でも石川さんには見えない。

 「ぼくは第一発見者である彼の『な、見えるだろ』という言葉を忘れない。(でもぼくには見えない)世界はそういうふうにできている」。このくだりが私は好きだ。世界はそういうふうにできている。暮らしたものにしか見えない何か。私も各地を歩きながら、「土地の人にしかわからない何か」にいつも魅かれ、結局わからないまま歩きつづけている。

 そうして歩きながら、古い教会や辻にある道標を通り過ぎながら、私が見たのは悠久の時の流れの僅かな瞬きの瞬間だということを知っている。通り過ぎた後もこの地は残り続け、あとから通り過ぎていく人々や朽ち果てていくなにかを風のなかにしか感じることはできない。極北もまたそういう場所だ。氷河は日々崩壊し、動物の生き死にが繰り返され、大きな時計の流れを感じずにはいられないのだ。旅とはそういうものではないだろうか。

 ワタリガラスがこの本には何度も登場する。極北の話をするとき、ワタリガラスは忘れてはならない。チュクチやアラスカの神話、星野さんの本や極北について書かれた文献にワタリガラスは必ず登場する。世界を創造したのはワタリガラスだと。

 石川さんが最初にデナリに登ったとき、空を舞う3羽のワタリガラスを見た。高山病に苦しみながら、斜めに傾けたナイフの刃のような岩と雪のリッジを超えた後、感覚が失った状態でふと見上げた空にその3羽はいた。「ワタリガラスと自分のあいだに存在する『今』は過去にも未来にも存在していない」。悠久の時のなかで、その一瞬は記憶のなかに鮮明に溶け込んでしまったのだ。


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