*レイバーネットMLから
ひょうたん島研究会・TT(高木@千葉高退教)です。
すべての友人の皆さんへ。
以下の雑文を書いたけど、発表媒体がないので、ここで紹介します。
時間があれば、お読みください。
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ぼくが清志郎の後輩になったのは
「偶然のお陰」だったのだ
:T.T.0624(ひょうたん島研究会)
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坂本龍一が亡くなった2023年3月23日からおよそ1年だからだと思うが、『朝
日新聞』がこの24年3月、「坂本龍一が遺したもの」と題する短期連載を掲載し
た。その中の「金平茂紀さんへのインタビュー記事」がぼくには面白かったので、
若干のコメントを付けながら紹介する。
この記事の見出しは「逃げずに 自由にモノを言おう」で、以下、記事からの
引用は、□内に書く。
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この記事の冒頭、金平は次のように言う。
┌─────────────────────────────────┐
│ 私は2人(坂本と忌野清志郎)の音楽が好きで、実は3人とも「都立高校│
│世代」。私は高2で北海道から都立西に転校し、カルチャーショックでした。│
│坂本さんは都立新宿で、清志郎さんは都立日野。自由にモノを言い、素直に│
│世の中のことと向き合う都立高文化がありました。 │
└─────────────────────────────────┘
ぼく自身は「世代」でものを考えることはない。「事実」としては安倍晋三と
ぼくは「同学年」だが、彼とぼくの考え方に共通点があるとは思えない。
*
「都立高つながり」で言えば、ぼくは清志郎の3期後輩に当たる。ついでに言
えば、三浦友和も清志郎と同じ2期生。彼らが日野高校を卒業した直後に、ぼく
が同校に入学したことになる。
ぼくが同校を選んだ理由は清志郎がいたからーーではない。ぼくが清志郎をーー
というか、RCサクセションを知ったのはぼくがTT大学に入った後、『ぼくの好き
な先生』が流行ってからであった。
しかもぼくが受験したのは、「日野高校」ではない。ぼくが受験したのは「71
群」ーー当時の都立高校入試は「学校群制度」で行われていて(1967年〜81年)、
ぼくが受験した「71群」は、「日野・南多摩・富士森」の3校。当時受験生だっ
たぼくは合格した後に実際に通う高校をどうやって決めたのか理解できていない
が、結果として行ったのが日野高校だったわけだ。
つまり、ぼくが清志郎の後輩になったのは、「偶然のお陰」だったのだ。
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上で紹介した発言に続けて、金平は言う。
┌─────────────────────────────────┐
│ (清志郎の亡くなった09年の)対談時に坂本さんが一番力を込めて話した│
│言葉が今も強く残っています。 │
│ 「清志郎がずっと言ってきたことは『なんで日本はこんなに言いたいこと│
│が言えない国になっちゃったのか』ってこと。モノを言いましょうよ。個人、│
│ミュージシャン、メディア、政治家、みんな」 │
└─────────────────────────────────┘
この「みんな」の中に、2024年春現在学校で働いている皆さんにも入ってほし
いと思う。もちろん、ぼく自身も。(2024/03/28早朝)
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staff01.
Last modified on 2024-03-28 13:02:49
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