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〔週刊 本の発見〕エーリヒ・ケストナー 『飛ぶ教室』 | |
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時代や年齢や国の違いを超えて『飛ぶ教室』(エーリヒ・ケストナー 著、高橋健二 訳、岩波書店、1600円)評者:大西赤人
父親は子供向けの本に関して言わば幾分の「岩波」信仰があったのかもしれず、特に小学生時分の大西は、『ドリトル先生』もの(ロフティング)、『ナルニア国』もの(ルイス)、『ツバメ号』もの(ランサム)、『星の王子さま』(サン=テグジュペリ)や『指輪物語』(トールキン)、あるいはとりどりの岩波少年文庫を買い与えられた(ちなみに、だからといって漫画を避けるようなことは一切なく、手塚治虫、白土三平、水木しげる、永島慎二、石森章太郎等々、親子ともども読んでいた)。そんな中でも忘れがたい作品といえばケストナーによる一群の物語であり、『エーミールと探偵たち』や『ふたりのロッテ』や『点子ちゃんとアントン』を夢中になって読んだわけだが、一冊を選ぶとすれば、やはり『飛ぶ教室』ということになる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 子供向けに何らかの作品を創造することは、決して容易ではない。そして作り手は、話を緩めたり、和らげたり、ボカしたり、単純にしたり、判りやすくしたりすることが子供向けと考えがちである。ケストナーは、そのような態度を一蹴する。 「私は、ある著者からおくられた子どもの本をとりあげて、読みはじめましたが、まもなくわきへおきました。ひどく腹が立ったのです! なぜだか、いいましょう。その著者は、じぶんの本を読む子どもたちをだまして、はじめからおわりまでおもしろがらせ、楽しさで夢中にさせようとします」 『飛ぶ教室』に描かれる少年たちは、しばしば屈折を抱えている。それは、いわゆる「天真爛漫」とか「無垢」とかとは隔たったありようだ。でも、その心情は、時代や年齢や国の違いを超えて、しんしんと我々にも伝わってくる。マルティンやヨーニーやウリーの――そしてその周りの大人たちの――姿に、自分や知っている誰かやの姿を重ね合わせることにもなる。 ケストナーに対しては「ベンヤミンを含む、マルキシズムの立場からは、政治的に立脚点が無く、その理想は、プチブルジョアのための慰めでしかない、という批判」(Wikipedia)も存在するし、訳者の高橋に対しても、太平洋戦争中における大政翼賛的姿勢、戦後の自己批判の欠如への責めが見られる。しかし、それでもなお、『飛ぶ教室』の魅力は捨てがたい。「いたまえ」「したまえ」「くれたまえ」というようないささか大時代に訳された物言いも、むしろ少年たちには似つかわしく感じられるのだ。そして付け加えれば、1933年に書かれた本書において�狎犬�ている�疊爐蕕料蠹�部分が、その概ね十年後には、個々の好むと好まざるとにかかわらず様々な場面で殺したり殺されたりしていたのであろうと想像する時、冷厳な想いに駆られる。 *「週刊 本の発見」は毎週木曜日に掲載します。筆者は、大西赤人、志水博子、志真秀弘、菊池恵介、佐々木有美、根岸恵子、黒鉄好、加藤直樹、わたなべ・みおき、ほかです。 Created by staff01. Last modified on 2023-02-02 21:52:27 Copyright: Default | |