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2023年9月からの新連載「フランス発・グローバルニュース」では、パリの月刊国際評論紙「ル・モンド・ディプロマティーク」の記事をもとに、ジャーナリストの土田修さんが執筆します。毎月20日掲載予定です。同誌はヨーロッパ・アフリカ問題など日本で触れることが少ない重要な情報を発信しています。お楽しみに。今回はイスラエルによる虐殺の歴史を振り返ります。(レイバーネット編集部)

●フランス発・グローバルニュースNO.4(2023.12.20)

イスラエルによる「虐殺の恐怖」と「殲滅作戦」

土田修(ル・モンド・ディプロマティーク日本語版前代表、ジャーナリスト、元東京新聞記者)

 10月7日にイスラエルを攻撃したイスラム組織ハマスのことを欧米のメディアも多くは「テロリスト」と形容している。英国BBC放送だけは報道番組でハマスのことを「テロリスト」と言わず、そのため政府から叱責を受けたが、それに応じる気配はない。イスラエルは1カ月余りのガザ攻撃で2万人近い住民を殺害している。アメリカは「人道支援」を口にしながらもイスラエル支援を止めようとはしない。一体、どちらが「テロリスト」なのか疑問だ。

 2000年に始まった第二次インティファーダ(民衆蜂起)の際に欧州連合(EU)はハマスをテロ組織と認定したが、当初、フランス政府はイスラム主義組織との対話の必要性から歩調を合わせなかった。実際、ハマスは武装部門を持つものの、イスラエル政府やカタール政府から長年、資金提供を受けており、2006年のパレスチナ自治区の国政選挙で勝利した歴とした「政体」だ。「ムスリム同胞団」に属し、政治部門はカタールにあるが、ガザ地区で医療福祉を中心とする住民活動を続けている。

 その後、フランス政府もEU諸国の圧力に屈してハマスを「テロ組織」と認定したが、レバノン南部のヒズボラについては議会に議席を持つことからいまだに「テロ組織」として認定していない。ル・モンド・ディプロマティーク紙に掲載された「問われるテロリズムの定義」(日本語版2023年12月号、福井睦美訳)によると、民間人を標的にした攻撃が「テロ行為」であるのは間違いないが、歴史上、アルジェリアにしてもアイルランドにしても、多くの解放運動の闘争方式は、近代的な軍隊を相手に軽装備で立ち向かう「インサージェント(非対称戦力)」だった。


*サブラ・シャティーラ事件の記念碑

■シャティーラの虐殺

 1964年5月にエルサレムで設立されたパレスチナ解放機構(PLO)は武力闘争でイスラエルからパレスチナの解放をめざした。1967年の第3次中東戦争でイスラエルがヨルダン川西岸とガザ地区を占領し、25万人のパレスチナ人難民がヨルダン川東岸へ逃れる。1970年にヨルダン軍がPLO部隊への攻撃を開始し、「黒い九月事件(ヨルダン内戦)」が勃発。PLOは本部をヨルダンのアンマンからレバノンのベイルートに移したが、1971年にヨルダンにあったPLO組織は壊滅する。

 フランスの作家ジャン・ジュネはPLO幹部の誘いで1970年10月にヨルダンを訪問、11月にはアンマン近郊のワフダート・キャンプでPLOのアラファト議長に会い、PLOの全組織を訪問する権利を認めた自由通行証を手渡され、「パレスチナの悲劇を証言する本を書いてくれ」と要請された。それから、1972年にヨルダンを出国するまで2年ほどパレスチナ・キャンプでフェダイーン(解放戦士)と行動をともにしている。

 この時期、パレスチナ・ゲリラはイスラエルとヨルダンに対する二正面の「非対称」戦争を強いられており、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)による旅客機4機ハイジャック事件(70年9月)、日本赤軍によるロッド空港での銃撃戦(72年5月)、「黒い九月」によるミュンヘン五輪襲撃事件(72年9月)などが起きている。

 パレスチナ・ゲリラが世界中から非難される中、ジュネはこう書いている。「〈テロリズム〉とか〈テロリスト〉といった言葉の含む侮蔑的な響きに、パレスチナ人の無関心が対峙する。自分が悪魔であろうとも、自分たちの企てが全世界から悪魔の所業とみなされようともかまわない。それに対する無関心をパレスチナ人はかち取っていたが、それは勇気であり、また果敢さでもあった」(『恋する虜』、鵜飼哲・海老坂武訳、人文書院)。自分たちに向けられた「テロリスト」という非難に対する「無関心」。そこに「果敢さ」を見出したジュネがこの本を書いたのは10数年後のことだった。

 その間、1982年にはイスラエル軍がレバノンに侵攻し、9月にサブラとシャティーラにあるパレスチナ人難民キャンプで右派民兵による大虐殺事件が起きる。イスラエル軍の監視と同意のもとで虐殺は三日三晩続けられ、女性や子供、老人を含む数千人が激しい拷問を受け殺害された。その数日前にベイルートに到着していたジュネは現場に入り、数多くの虐殺死体に「友愛」の眼差しを送り、帰国後、わずか1カ月で『シャティーラの四時間』(鵜飼哲・梅木達郎訳、インスクリプト)を書いた。

 「蝿も、白く濃厚な死の臭気も、写真には捉えられない。一つの死体から他の死体に移るには死体を飛び越えてゆくほかないが、このことも写真は語らない」「イスラエルはシャティーラで虐殺をやって何を得たか。答えはこうだ。イスラエルはレバノンに侵攻して何を得たか。二カ月間民間人を爆撃して何を得たか。パレスチナ人を追放し抹殺すること。シャティーラでイスラエルは何を得ようとしたのか。パレスチナ人を抹殺すること」。この作品は演劇化され、『バルコン』『黒んぼたち』『屏風』など他のジュネの戯曲同様、フランス国内だけでなく日本でも上演されている。一方、『恋する虜』は83年6月に執筆を開始し、86年4月にジュネがパリのホテルで亡くなった、その翌月にようやく出版された。

 イスラエル建国前から地下武装組織イルグンの指導者だったベギンはパレスチナ住民を追い出す作戦として「虐殺の恐怖」を使った。すでに難民化している人々を、再度ディアスポラ(民族離散)の民として「自発的に」出て行かせるよう仕向けるためだ。イルグンは右派政党リクードの前身だ。

 現在、そのリクードのネタニヤフ政権がガザ地区で無差別の「殲滅作戦」を実施している。イスラエルによる植民地化と民族浄化の政策、それに戦争犯罪の起点にあるのがシャティーラの虐殺だったのかもしれない。国際社会がいかにハマスを「テロリスト」と非難しようとも、彼らが無関心でいられるとしたら、それはジュネが目にした「虐殺の恐怖」が過去のものになっていないからだ。

*「ル・モンド・ディプロマティーク」は1954年にパリで創刊された月刊国際評論紙。欧米だけでなく、アフリカ、アラビア、中南米など世界各地の問題に関して地政学的・歴史的分析に基づく論説記事やルポルタージュを掲載。現在、23言語に翻訳され、34カ国で国際版が出版されている。日本語版(jp.mondediplo.com)は月500円から購読可能。


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