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LNJ Logo 〔週刊 本の発見〕『辛酸 田中正造と足尾鉱毒事件』
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毎木曜掲載・第278回(2022/11/24)

絶望の中の幸せ

『辛酸 田中正造と足尾鉱毒事件』(城山三郎 2021年改版初版発行 角川文庫 640円)評者:佐々木有美

 「真の文明は山を荒らさず川を荒らさず村を破らず人を殺さざるべし」。田中正造(写真)のことばである。10月30日東京新聞埼玉版のコラム欄「各駅停車」に、“田中正造の晩年”という記事が載った。筆者の菅原洋記者は、旧谷中村を訪れた思い出をつづり、「正造が…後の世に地元で語り継がれるのは、最後まで弱者に寄り添った晩年にこそある」と書いている。その言葉に導かれるように今回出会ったのが、城山三郎の初期の傑作といわれる本書だった。

 田中正造は、国会議員として第二回帝国議会で足尾鉱毒事件を告発してから、71歳で亡くなるまでの約20年間、全身全霊で鉱毒民救済のために闘った。議員を辞しての天皇直訴は、そのクライマックスともいえる。しかし本書は、あえて谷中村の晩年の正造と、彼の死後の村民たちの闘いを描いている。

 渡良瀬川の水害と足尾銅山の鉱毒問題を一挙に解決しようとした政府は、1904年谷中村に遊水池を計画、買収とはいえ村民を強引に追い出した。結果、当時400戸あった村で最後まで残ったのは19戸。1907年7月、栃木県は、その19戸のうち堤内にある16戸を強制破壊した。先祖伝来の家々が住人が見る前で次々に倒されていった。それでも、残留民と呼ばれた人々は粗末な仮小屋を建て、冬には穴ぐらで生活をつづけた。

 小説は、正造の右腕となり、裁判や運動に奔走した若手の残留民・宗三郎の目をとおして語られる。第一部「辛酸」は、宗三郎が、にわか仕立ての仮風呂に正造を招待したところから始まる。氷雨が降ってきた。正造は、風呂もそこそこに、残留民の様子を見に行くと言い出す。60代後半の正造の身体はこれまでの無理がたたり弱っていた。宗三郎が止めるのも聞かず「わしよりも、もっと体にさわっている人もいる。雨だからこそ廻ってみたいんじゃ」と言う正造。この小説の神髄は、この冒頭の部分に言い尽くされているように思う。

 自分の身を捨てても、仮小屋で寒さや病気に苦しむ人々に会いに行き、ことばをかける。絶望的に降る雨だからこそ、正造は残留民に会いに行かずにはいられなかったのだ。『辛酸』は、1913年、正造が亡くなるところで終わる。危篤の報に、多くの知人・縁者がかけつけた。しかし正造の最後のことばは、「大勢来てるそうだが、うれしくも何ともない。みんな正造に同情するだけだ。正造の事業に同情している者は一人もいない。行って、みんなにそう言え」

 正造の事業とは、足尾銅山を停止し、遊水池化をとめて谷中村を復活することだ。買収案が出てから約10年。世間のほとんどは、この問題がおわったと思っていた。正造は、全財産を投げ出し、支援者や弁護士たちにも見放され、ほとんど孤立無援で裁判を闘い、問題解決のための土地調査などに明け暮れた。

 「辛酸入佳境 楽亦在其中」は、晩年、正造が好んで書いた漢詩である。<辛酸は頂点に達した 楽しみはまたその中にある>とは、本人にしかわからない境地かもしれない。絶望的状況に追い込まれた正造。ただ私には、谷中の地でこの上ない辛酸をなめながらも村民と分かちがたく結びついた正造は、そこにこそ幸せを見出したのではないかと思う。ちなみに村民は正造を「田中さん」「田中のじいさん」と呼び、「先生」呼ばわりはしなかったという。

 第二部「騒動」は、正造亡きあとの谷中村の攻防を追う。ここでの主人公は宗三郎をはじめとする残留民たちだ。立ち退きを迫られ、正造の後継者と見られていた宗三郎は言う。「わたしは指導者じゃありません。雄三さんも栄五郎さんも、みんな一人一人が指導者なんです」谷中村の闘いは、田中正造や宗三郎のものではなく、そこに残った一人一人の農民・家族の闘いだったことを、この小説はあらためて最後に宣言している。

 作者の城山三郎は、単行本あとがきで「一つの小説を書くことで一つの人生を終ってしまったような感じのする仕事であった。苦しかったが、倖せであった。」と書いている。それほどの格闘の軌跡を今回読めたことは、また私の一つの幸せである。

*「週刊 本の発見」は毎週木曜日に掲載します。筆者は、大西赤人、志水博子、志真秀弘、菊池恵介、佐々木有美、根岸恵子、黒鉄好、加藤直樹、わたなべ・みおき、ほかです。

 


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