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LNJ Logo 〔週刊 本の発見〕『当事者は嘘をつく』(小松原織香 著)
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毎木曜掲載・第249回(2022/4/7)

切実かつ痛々しいエッセイ

『当事者は嘘をつく』(小松原織香 著、筑摩書房、1800円) 評者:大西赤人

 もう亡くなった広島県生まれの知人・Fが様々な機会に口にしていた「あいつは狠里辰燭沖瓩犬磴蹐Α廚箸いι集修好きだった。「知ったげ」とは、検索してみると備中ないし備後地方の方言で「知ったかぶり、知った風」と解釈されているけれども、彼の言い方には、それには収まらないニュアンスが感じられた。即ち、たとえば医師とか弁護士とか政治家とか官僚とか研究者とか、特に何かしらの権威をまとった人物がいかにももっともらしい――内容自体としては決して誤ってはいないが、極めて第三者的で、時には高みからの――発言を行なった時、Fは「✕✕は狠里辰燭沖瓩犬磴蹐Α」と冷ややかに、しかし、必ずしも全否定ではなく✕✕は、あそこがいかんのよ瓩箸いΔ茲Δ塀世蕕さをも含めて、耳打ちしてくるのだった。

 この狠里辰燭沖瓩忙て、より一般的に見聞きする批判の表現として、「評論家」がある。たとえばWikipediaの「評論家」の項目には、「自分で実行しないで他者の行為をあれこれ言う者を皮肉めかして『評論家』と呼ぶ」との記述が見られる。特に社会活動・言論活動などに携わる人間にとっては、自らの言動を他者から「評論家」と評されたならば、それは相当決定的な指弾と感じられるのではなかろうか。ただ、ここで留意すべきは、この「評論家」というラベル自体に明確な基準などなく、従って反証も困難なため、ある意味、非常に効率的な切り捨て御免、言ったもの勝ちという形になりかねない。

 一方、現代では、言わば軽侮の眼を向けられる狠里辰燭沖瓩筺嵒章晴函廚笋搬亢砲飽銘屬垢襪發里箸靴董◆崚事者」という存在がある。基本的に「当事者」とは、明らかな犯罪行為を筆頭として、無形の偏見・差別など様々な不当行為によって権利を侵害・毀傷された「被害当事者」という場合が主であろう(当然、そこには「加害当事者」も存在するものの、両者の重みは自ずから大きく異なる)。そして、「被害」を蒙った当事者という立場、そこからの発信は、しばしば非当事者の異論・反駁を許容しない絶対性を発揮する。大西自身、先天性の重篤な疾患を抱え、それに起因する身体障害者でもあり、そのために高校入学を拒まれた経験を持ち、著名な文筆家の文章で差別的に家族ぐるみ存在意義を否定されたこともあるから、自身の被害感覚の程度はさておき、客観的には当事者の列に連なる一員と見做され得るだろう。だからこそ以前から当事者のありように関心を持ち、以下のように書いたこともある。

「当事者・被害者と呼ばれる存在には、たしかに一種の至上主義がつきまとう。それには、聖域という言葉がふさわしいかもしれない。当事者である、とりわけ、何らかの被害を受けた人間そのものであるという揺るぎない事実に支えられ、当該人物の発言・行動は絶対のものと化して行く。その発言・行動に対しては、周囲の誰も何も言えない、異を唱えることが不可能――少なくとも困難――というような状況が醸成されてくる」(「『当事者性』の特質と弱点」)

 本書の『当事者は嘘をつく』なる題名は、大西の眼に何とも刺戟的かつ挑発的に映った。聖性を伴う当事者が「嘘をつく」というのだから。小松原は「この本は私にとって、初めてのエッセイ」(「あとがき」)と記しており、たしかに緩い組みで200ページ余りの一冊ではあるけれど、その内容――なかんずく第六章までの前半部分――は、エッセイという呼称は似つかわしくないほど切実かつ痛々しいものだった。著者は「まえがき」を――

「私はずっと本当のことを語ることが怖かった。
 私は一九歳のときにレイプされた。性暴力被害者であること自体は、私にとって大きな問題ではない。家族や身近な人たちは、みんな私がサバイバー(生存者)であったことを知っている。私は暴力のその後を生き延びたことを誇りに思っている」

――と書き起こす。彼女は「性行為に同意した」し「暴行も脅迫もなかった」から「私は刑事司法の枠組みの中では、『性犯罪被害者』には該当しない」と明言する。しかし、追って、「私は、いま、彼に関する一連の経験を性暴力またはDVの被害体験であると認識している」

と記す。小松原は、「被害以降にまったく別のものになってしまった」自分=「私」を再構築するために、「研究者」を目指した。当事者でありながら研究者となる、それは、自分の傷口に塩をすり込みながら自身の反応を観察・分析するような荒業とも感じられる。彼女の記述は当事者による「生き延びるため」の生々しい模索の吐露であり、しかし、それだけならばあくまでも鮮烈なる手記・体験談に留まるのだが、そこに研究者としての距離を置いた叙述が加わる。言ってみれば、二重人格者による同時進行記録のような構造になっている。

 中でも、当事者に寄与するはずの医師やカウンセラー、とりわけ「支援者」に向けられる著者の舌鋒は鋭い。小松原は、「お前に何がわかる」「あなたにはわからない」という類の当事者の言葉を全肯定し、共感する。

「『良き支援者』の協力の誘いこそが当事者の言葉の力を奪うのであり、形骸化した『当事者の語り』はかれらの知の体系に埋め込まれる。私は『わかってほしい』という心を捨てて、当事者として支援者と闘わねばならない」

 これは、「狄佑燭襪發里料杼力の否定瓩僕拭圓み》しないためにも、自らはむしろ『当事者性』からなるべく距離を置き、悪く言えば第三者的、良く言えば客観的な立場で関わりたいと常に考えている」(前掲)大西とは異なる立脚点とも感じられるが、いずれにせよ、当事者に何かしらの関わりを持つ人々に会うと、猊読の一冊!瓩反篩Δ靴討い觝Fこの頃なのである。

*「週刊 本の発見」は毎週木曜日に掲載します。筆者は、大西赤人・志水博子・志真秀弘・菊池恵介・佐々木有美・根岸恵子、黒鉄好、加藤直樹、ほかです。


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