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毎木曜掲載・第248回(2022/3/24)

人間にとって国家は必要か

『くらしのアナキズム』(松村圭一郎著、ミシマ社、2021年、1800円+税)評者:佐々木有美

 今年はじめ、民俗学者・宮本常一の『忘れられた日本人』を読んだ。戦後の対馬(長崎県)の村で行われていた「寄りあい」についての文章に、深く心を惹かれた。宮本がある村で古文書を借りたいと申し出ると、その件が村の寄りあいにかけられることになった。村で取り決めを行うときは、みんなが納得いくまで話し合う。ときには夜をこすこともあるが、様々な意見が出され、最後にまとめ役が結論を投げかけ、異論がなければそれがとおることになる。このやり方は200年前から続いていたという。

「気の長い話だが、とにかく無理はしなかった。みんなが納得するまではなしあった。だから結論が出ると、それはキチンと守られねばならなかった」。これこそ、今を生きるわたしたちが忘れている自治、民主主義の本来のあり方ではないかと思った。しばらくして本書に出会った。そして、「寄りあい」の話は、実は「くらしのアナキズム」と呼ばれるべきものだったのだと得心した。

 アナキズムというと、19世紀のクロポトキンやバクーニンらを思い出す人も多いだろうが、著者は人類学者である。本書の問いはここから始まる。果たして人間にとって国家は必要か。人類の長い歴史の中で国家が存在したのはごく最近に過ぎない。「未開」の少数民族と呼ばれる人々は、国家の強制力に頼らず自らの手で平和と秩序を生み出した。調査・研究の中から強制のない社会を発見した人類学者たちは、そこにアナキズムの思想を見出した。

 思想家の鶴見俊輔は、アナキズムとは「権力による強制なしに人間がたがいに助け合って生きていくことを理想とする思想」と書いている。人びとに当たり前のように税金を課し、軍隊や警察という強制力を持って、民衆を戦争や暴力にさらす国家に対して、アナキズムは民主的で自由、平等な空間をつくることを目指す。それは国家だけに限らず、人間社会のあらゆる場を対象にする。日本という国の中にありながら、村の「寄りあい」で保たれていたアナキズム。本書には、「茶飲みに行く家を減らさない」という言葉も出てくる。公式の場だけではなく、たえず生活の中でコミュニケートしていくこと、日常の付き合いを絶やさないことが人々を支える。

 敗戦後、雑誌『暮しの手帖』を発刊した花森安治の詩を著者は引用している。
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おそらく、/一つの内閣を変えるよりも、/一つの家のみそ汁の作り方を/変えることの方が、/むずかしいにちがいない。
内閣は、三日や一週間なくても、/べつにそのために国が亡びることもない。
ところが、暮しの方は、/そうはゆかない。
たとえ一日でも、/暮すのをやめるわけには、/ゆかないのである。
ぼくらの暮しを、まもってくれるものは、/だれもいないのです。
ぼくらの暮しは、けっきょくぼくらがまもるより外にないのです。
考えたらあたりまえのことでした。
そのあたりまえのことに、気がつくのが、/ぼくら、すこしおそかったかもしれませんが/それでも気がついてよかったです。(後略)
(『灯をともす言葉』より)
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 2月24日、ロシアによるウクライナ侵攻が始まった。まさかまさか、事態がここまで進むとは。白昼堂々の強盗。思い浮かんだのはそんな言葉だ。逃げ惑う市民たち。犠牲者が増えていく。ロシア兵も犠牲者だ。ウクライナの成年男子は兵役のため国外に出ることを禁止された。国家と分かちがたく結びつく戦争という暴力を目の当たりにして、「くらしのアナキズム」を思った。わたしたちは日々の営みの中で、ほんとうの自治と民主主義の実践を積み重ねる以外に、戦争を根本からなくすことはできない。

*「週刊 本の発見」は毎週木曜日に掲載します。筆者は、大西赤人・志水博子・志真秀弘・菊池恵介・佐々木有美・根岸恵子、黒鉄好、加藤直樹、ほかです。


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