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塗りかえられた地図〜福島原発20キロ圏内を視察して

堀切さとみ

 6月18日から二日間、埼玉県の市民グループ「原発とめよう秩父人」が主催した福島原発20キロ圏内視察ツアーに参加した。原発周辺は今、どうなっているのか。
 大熊町は6月30日に帰還困難区域が一部避難指示解除になり、10月には双葉町にも復興住宅が完成する。原発が立地する町への住民の帰還が進む一方で、この一帯は元の姿をとどめることがないまでに変貌していた。

「汚染土を再利用」は本当だった

 はじめに中間貯蔵施設へ。予め申請すれば、環境省職員の案内つきで見学することができる。
 中間貯蔵工事情報センター(大熊町)で、身分証明書をチェックされる。30人のツアー参加者の中には、帰還困難区域への立ち入りは初めてという人たちも多かったが、タイベックス(防御服)や足カバーなどが配られることもなく、なぜかヘルメットだけが渡された。センター内は撮影できるが、これからバスで回る中間貯蔵施設の動画撮影と録音は禁止。写真撮影も決められた場所のみと言われる。
   中間貯蔵施設は双葉町・大熊町にまたがり、福島第一原発を取り囲むようにつくられている。福島県内で除染した土砂をフレコンバックに詰めて運び、15メートルの谷地に埋めていく。東京ドーム11杯分だという。
 驚いたのは、中間貯蔵施設の役割は、放射性廃棄物の受け入れ、分別、保管、減容だけでなく、汚染土壌の再生利用をうたっていることだ。飯舘村長泥地区では既に、汚染度の低い土壌を農地に再利用する実証実験が行われていると、堂々とPRしていた。
 「そもそも汚染土壌の中から放射線量の低い土をどうやって分別するのか」と質問すると、センター職員のAさんは、「フレコンバックの中身を直接測定するのではなく、1メートル離れたところの空間線量を測って換算する」と説明した。ちなみに環境省が定める低濃度の基準は、8000ベクレル/圓澄Aさんは見学の最中「私が話すのは実験の結果のみ。安全であるとは言いません」と、何度となく繰り返していた。

ここではバスから降りて、写真撮影することが許された。空間線量は1.52μシーベルト/時

福島イノベーション・コースト

 「浪江町は日本のハンフォードだ」と話すのは、元原発労働者で現在はガイドをしている今野寿美雄さん。(写真上)彼が案内してくれたのは、浜通り一帯にできた「福島イノベーション・コースト」だ。
 浪江町の棚塩地区一帯をバスで行くと、ドローンのための滑走路、水(H2О)を分解し、水素(H2)にするための巨大施設、その電気分解のための太陽光パネルが次々と立ち現れる。東芝、イワタニ、旭化成・・・錚々たる大会社が、新しい産業を興し始めていた。

 少し行くと森がある。かつて東北電力「浪江小高原発」の予定地だったところで、浪江町民の反対運動によって白紙になった。その一帯に、完全閉鎖型の牧場をつくるのだという。北海道や岩手から1500頭の乳牛を引っ張ってくるそうだ。
 同じ浪江町の中で、殺処分に反対し、被ばくした牛たちを飼い続ける「希望の牧場」のことを思わずにはいられなかった。

 浪江町ではコメ作りが復活しているが、イノベーションコーストの一環としてGPSを使った自動運転による農作業が始まっているそうだ。収穫された米は、アイリスオーヤマが買い取って、産地表示義務のない外食産業で使っていると今野さんは話す。  同じ話は双葉町の農業従事者からも聞いたことがある。地元農民は、協力したくないと言っていた。

「故郷だと認識できない」


請戸小学校 津波の位置を示すラインがみえる

 請戸小学校(浪江町)は二階の床まで津波が襲ったが、先生も児童も、近くの大平山に逃げて助かった。その校舎が「震災遺構」として遺されている。
 二階の教室の壁には、請戸小で被災した子どもたちの作文が、沢山貼られていた。その中のひとつ、当時六年生だった児童が書いたものだ。

「あの震災から10年が経った。今年の春、私は浪江に帰町した。大平山の頂上、海岸線を望む高台の公営住宅で、私は再び浪江での生活を始めた。『請戸』の地名が付く住所にまた住むことが出来たのは、感慨深いものだった。同時に困惑した。暮らせど暮らせど、浪江に帰ってきた実感が全くと言っていい程湧かなかった。自分はもはや、この変わりきった浪江を、故郷として認識できていないのか。そう思うと恐怖さえ感じた。そんな折、久々に請戸小学校に立ち入る機会があった。そこには、あの時と同じ姿で、私を迎えてくれる教室があった。・・・あの校舎は震災前の私たちの記憶と、震災後の記憶、両方を深く刻み、そしてそれらをつなぎとめてくれる唯一の存在なのだと強く感じた」

 グラウンドには六匹の石の蛙が福島第一原発の方向を向いている。地元の人が避難後、自分たちの代わりに原発を監視してくれとの思いで置いたのだという。この学び舎は、どれほど地元の人たちや、子どもたちの支えになってきたことだろう。
 その一方、浪江町では昨年、伝統ある五つの小中学校が解体された。反対署名を集めても、せめてきちんと皆で集まってお別れしたいという願いもかなわなかった。
 早々と解体しなければならないのは老朽化が理由だという。「それが本当なら、40年の寿命を超えた老朽原発を動かし続けるのは何故なのか」と、見学者の一人が口にしていた。

「最先端実証の地」の実態


伝承館で話をきく

 同じく津波の跡地に作られた「東日本大震災・原子力災害 伝承館」(双葉町)。2020年9月にオープンした時から、原発事故のことをきちんと伝えていないと不評だった。
 「農産物の出荷や観光客が減ったのは風評のせい」というパネル。国や東電を批判することは禁じられた29人の語り部。
 高校生などが全国から見学に来るが、展示をみただけでは「大変だったけど復興は進んでいる」というレポートしか書けないのではないだろうか。

 それでも少し変わったなと思ったのは、職員Bさんの存在だった。双葉町の小学校で教師をしていたというBさんは、団体客の私たちに終始丁寧に話をしてくれた。
 イノベーション構想の展示コーナーで「浜通りは今、水素燃料に力を入れているんですが『水素が夢のエネルギー』といわれても、安易に信じちゃいけないと思ってるんですよ」と思いを語った。親が原発で働いているという教え子たちの前で、原子力が危険だと言うことはできなかった。安全神話を支えてきたことを、今、反省しているという。
 「<語れない語り部>なんて批判され、語り部の人達も傷ついてるんです」とBさん。そして「本当はね。語っちゃいけないことなんて、ないんですよね」と自分に言い聞かせるように話した。

 伝承館が建っているのは、13メートルの津波が人と家をのみ込み、昨年と今年の三月にも震度六強が大地を突き上げた場所だ。
 そして今野さんが案内してくれたのは、伝承館の近くにつくられている「福島復興祈念公園」。その公園内にあるアスファルトの道は、東日本大震災で三メートルも横ずれしてしまっていた。福島第一原発からわずか4キロである。

 「世界に類を見ない」「最先端の実証の地」という触れ込みで進められる浜通りの開発だが、それらが建つ地盤は脆弱だ。人々の記憶と伝承する営みが、この地で生かされることができるのだろうか。


Created by staff01. Last modified on 2022-07-10 14:33:23 Copyright: Default

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