太田昌国のコラム : グラスゴーの名を聞いて、ニカラグアを思う | |
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グラスゴーの名を聞いて、ニカラグアを思うケン・ローチと日本に関わるエピソードも付け加えておこう。2003年、彼は高松宮記念世界文化賞の映像・演劇部門の受賞者に選出され、授賞式のために来日した。彼の映画に親しんできた十数人で彼の話を聞く会をもった。同賞のスポンサーは右派メディアのフジサンケイ・グループであり、関係者の中には、サッチャーの「盟友」であった中曽根康弘のブレーンもいるとの情報を日本から得ていたケン・ローチは、賞金の一部を日本のしかるべき労働運動に寄付することを希望した。中曽根改革による国鉄の分割民営化に反対し、国鉄改めJRから解雇された労働者の争議団があることを教えられた彼は、そこに寄付した、という話もしてくれた。日本では未公開だが、英国国鉄の民営化の動きの中で揺れる労働者の姿を描いたという『ナビゲーター ある鉄道員の物語』(2001年)の監督にふさわしいエピソードだ。 ここで『カルラの歌』に戻る。結局、カルラという名の彼女は、内戦下の中米・ニカラグアから、故国への支援を訴えに英国巡業中の舞踏団の一員であることがわかる。すでに恋仲になっていたカルラとグラスゴーのバス運転手、ジョージは共にニカラグアへ向かう。そこでは、1979年の左派サンディニスタ革命を潰そうとする米国のレーガン政権(サッチャーと中曽根の「盟友」)が全面的に支援する反革命勢力「コントラ」が、北のホンジュラスから越境しては、軍事作戦を展開していた。農作物を焼き討ちし、農民に読み書きを教える学生ボランティアを殺害するなどの行為を繰り返し、こんな「結果」をもたらしている革命から、人びとの心を離反させることを企図したのだ。ケン・ローチは、映画の後半でこの内戦の過程をも的確に描いた。国際的な時代状況に積極的に投企したケン・ローチらしい作品だったと言えよう。 さて、映画の紹介はここまでだが、『カルラの歌』後半の舞台となったニカラグアでの大統領選挙が終わった。79年サンディニスタ革命の直後から大統領の座にあったダニエル・オルテガは、上に触れた内戦が長く続いたことに飽いた民心の支持を失い、1990年の大統領選挙で敗れ、下野した。ソ連、中国、キューバなど先行する革命と異なり、複数政党制を採用していたのだ。その後2006年の選挙で勝利し、再び大統領の座に戻ったが、やがて独裁化の傾向が、かつての解放ゲリラ闘争時の同志たちからも指摘・批判されるようになった。私は、79年革命の勝利以降、下野するまでの10数年間のニカラグア革命の過程について、かなり詳しく論じていた(『鏡としての異境』、影書房、1986年。『鏡のなかの帝国』、現代企画室、1991年)。革命直後の死刑廃止、前独裁政権時の弾圧者に対する、報復ではない寛大な処遇、複数政党制の採用、民族問題での重大な過ちとその克服過程、多面的な貿易相手国の模索、『被抑圧者の教育学』を書いたブラジルの教育学者パウロ・フレイレが注目したように、新生ニカラグアで模索された、詰め込み方式ではない「対話的」で「相互浸透的」な教育方法――など、過去のもろもろの革命とも異なる、新しく刺激的な試行錯誤が試みられていた。論じるに値する革命だったのだ。 だが、大統領に復帰して以降のダニエル・オルテガは、そこで積み重ねられてきた革命の「成果」を捨て去りつつあると思える。解放ゲリラ戦線で生死を共にした同志たちが、少しでもオルテガ批判を行なうと、容赦なく逮捕・勾留する動きもたびたび伝えられている。なぜ、そうなったのか。そして、ニカラグアはどこへ行くのか? 私もそうだが、『カルラの歌』でニカラグア革命への熱い思いを披瀝したケン・ローチも、その現状を苦い顔つきで眺めているかもしれない。 グラスゴーを枕に、COP26の中身にも触れるつもりだった。特に、大国ではなく小国の為政者の演説や、気候変動の甚大な影響をもろに受けている先住民族の立場からの発言に注目しながら。紙数が尽きた。他日を期したい。 Created by staff01. Last modified on 2021-11-10 18:46:16 Copyright: Default |