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ミナマタを世界に伝えた男の素顔〜映画『MINAMATA』をみて

堀切さとみ


(C)2020 MINAMATA FILM, LLC (C)Larry Horricks

 『MINAMATA』を観た。世界的な報道写真家ユージン・スミスに惹かれたジョニー・デップが、ユージンの最後の写真集から構想を温めて作った映画である。

 現実とは異なるエピソードも出てくるので、水俣の歴史やユージンの仕事を知る人にとっては違和感を持つこともあるようだ。水俣で三年間ユージンのカメラ助手をしていた石川武志さんのインタビューに詳しい。(『週刊金曜日』9月17日号)。それでも、ジョニー・デップの思いには共感できるものが多く、心を揺さぶられた。

 ユージンが水俣に行くのは1971年。ちょうど土本典昭監督がドキュメンタリー映画『水俣〜患者さんとその世界』を世に出した頃だ。水俣を多くの日本人が取材する中で、アメリカ人の姿は異端であり、またある種の期待をもって受け入れられたことがわかる。胎児性水俣病の娘を「宝子」と呼ぶ家族が、ユージンと妻アイリーンを快く家に泊まらせる。「世界に伝えて欲しい」という思いを持ちつつも、いざ我が子にカメラが向けられるとなると拒んでしまう家族。ユージンはそれを当然のことだと理解する。

 日本の風習(靴を脱いで家にあがる、夫婦の寝室に他人が入ってくること等)に戸惑いながらも、水俣の人々と打ち解けあっていく。「僕に触るの、怖くない?」と言う青年に、「怖くないよ」と応えるユージン。こむら返りの彼にカメラを手渡し「撮ってごらん」と促すシーンが眩かった。

 自主交渉派の住民が、チッソの工場の前で訴える。「水俣病は偶然でも遺伝でもない。責任が問われるべき害悪ははっきりしている」。一生もとに戻らない体、痛みに苦しみぬいて死んだ家族の無念。そんな人々に、会社は賠償ではなく「見舞金」を渡すのみだ。「まず責任を認めて謝って欲しい」という魂の叫びが「金欲しさの住民」にすり替えられ、覆い隠されていく。

 そしてチッソの社長はユージンにいう。「PPM(100万分の一)という単位を知っているか」と。取るに足らない量のことで、海に流せばその影響はなくなる。そして、水俣の漁師たちも全体から見ればPPMにすぎないと言い放つのだ。これはミナマタ、ひいてはフクシマのことだけではない。世界中で起きているあらゆる汚染問題の現場で、この論理が貫かれ続けている。

 映画の中でひときわ魅力的に感じたのは、世界的な報道カメラマンを英雄視せず、弱さや葛藤を抱えた人物像として描いていることだった。ユージンが水俣から手を引こうとする場面が出てくる。「一枚の写真は千の言葉以上のものを表現する」と豪語していた彼が「所詮、強いものが弱い者を苦しめるだけのことだった」という解釈をのこして。

 「水俣」の何を撮るのか。「伝えて欲しい」という思いにどう応えるのか。彼はずっと葛藤していたのだと思う。「宝子」と呼ばれる娘と母親が入浴する有名な写真。その穏やかな一枚を撮るときの「演出」を、映画はしっかりと捉えてみせている。

 ユージンは「ミナマタ」の写真集を出した三年後、59歳で亡くなった。チッソの社員から暴行を受け、その時のケガが死期を早めたのだろうとアイリーンは言う。「なかったことにしたい」という思惑との闘いは、いつの時代も変わらない。

 ジョニー・デップがとらえたミナマタは、過去の歴史ではない。フクシマやオキナワの原点であるばかりでなく、水俣問題そのものが今も続いていることを知らしめている。そのことが、この国に住む私たちへの熱烈なメッセージに思えるのだ。


Created by staff01. Last modified on 2021-09-26 21:29:41 Copyright: Default

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