本文の先頭へ
LNJ Logo 〔週刊 本の発見〕しぶとく生きつづけている人々/『幻の女〔新訳版〕』
Home 検索
 




User Guest
ログイン
情報提供
News Item hon182
Status: published
View


毎木曜掲載・第182回(2020/12/3)

しぶとく生きつづけている人々

『幻の女〔新訳版〕』(ハヤカワ・ミステリ文庫)』(ウィリアム・アイリッシュ 著、黒原敏行 訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、980円)評者:大西赤人

 自分が最も一心不乱に本を読んでいた時期はいつだったかと考えてみると、十代半ばから後半あたりだったろうか。その頃は、犂を措《お》く能わず瓩箸いΨ茲泙衒原腓修里泙泙如∪2砲鮴砲靴鵑妊據璽犬鬚瓩り、何時間も読みつづけて一冊を終えるということも珍しくはなかった。しかし、大人になるにつれて折々の雑事が増え、そこまでの集中は出来なくなって行ったように思う。

 中学一年生の時、クラブの先輩からSFの面白さを教えられ、星新一や筒井康隆、フレドリック・ブラウンやレイ・ブラッドベリを読み漁った。その後、ターゲットはミステリへと移り、とりわけエラリイ・クイーン、アガサ・クリスティー、ヴァン・ダイン、ディクスン・カーなどによるいわゆる「本格もの」を次から次に手にした。作者と同名のエラリイ・クイーン、あるいはエルキュール・ポアロ、ファイロ・ヴァンスというような名探偵が登場し、難事件に立ち向かっては最後に関係者を一堂に集めておもむろに謎解きをする……。リアリティーがあるかとなれば全く疑問ではあるものの、惹句に書かれた「密室殺人」「意外な犯人」「ドンデン返し」などのキーワードを眼にするだけで、たまらない蜜の味だった。

 当然、ミステリにおける古典的名作は数多く存在するわけだが、その中でも絶対に外すことが出来ない一冊が、ウィリアム・アイリッシュ(別名コーネル・ウールリッチ/写真)による本書『幻の女』である。1903年にニューヨークで生まれたアイリッシュは、コロンビア大学在学中から小説を書きはじめ、当初は、フィッツジェラルド(『華麗なるギャツビー』などの作者)の影響を受けたジャズ・エイジの作家だったという。1930年代から推理小説――サスペンス、スリラーを手がけ、都会に生活する人々の時に悲劇的な物語により、「サスペンスの詩人」と呼ばれる人気作家となる。ヒッチコックの『裏窓』、トリュフォーの『黒衣の花嫁』の原作者としても知られ、短編の名手であるが、最も有名な作品といえば、1941年に発表された長編『幻の女』に違いない。

 稲葉明雄による「夜は若く、彼も若かったが、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった」という書き出しは名訳として称賛され、2015年の新訳版においても黒原は、「このたびの新訳では、稲葉明雄氏の名訳を、ご遺族の了解をいただいたうえで、そのまま使わせていただきました。新訳者の務めを果たしていないと叱られそうですが、どうもそれ以外にないのです」(訳者あとがき)と述べ、踏襲している。

 妻殺しの疑いをかけられたスコットは、犯行の時間帯、名も知らぬ通りがかりの女性と酒場やレストランや劇場で時を過ごしていたとアリバイを主張する。しかし、警察がそれらの場所で聞き込みをしてみても、スコットのことは誰もが記憶しているのに、女については誰一人覚えていない。結果、彼は裁判で死刑を宣告されてしまう。物語は、彼を愛するキャロルと彼の親友・ジョンとが死刑執行日までに「幻の女」を見つけ出そうとする過程を追いながらスリリングに進み、意外な真相へとたどり着く。

 もちろん、スコットが無実でなければ話が成り立たないから、死刑執行前に真犯人が見つかることは当然である。ミステリを読み込んだ読者ならば、話の展開に予想がつく向きもあろうし、ネット上の評価を見ても猗反佑凌翰が不明瓩箸猩辰北詰がある瓩箸、期待外れ的な声も少なくない。たしかに、御都合主義的な部分があることは事実で、そもそも、自らの命のかかった被疑者がそこに居たと主張する女を誰も見ていないと証言しているとなったら、警察、検察たるもの、何らか人為的な工作が介在したのではないかと一度は疑ってみなければ嘘であろうと思う。

 しかし、『幻の女』の醍醐味は、そういうところではない。随所に登場する人々――大都会において、決して(人生の)表通りを歩いてはいない、しかし、幸福ではないかもしれないが同時にしぶとく生きつづけている人々――の姿が実感を伴って迫ってくるのである。それは、作家として成功しながらも、後半生の三十五年間をホテルを転々としながら過ごし、1968年に亡くなった時には葬儀の参列者が僅か五人だけだったという厭世的なアイリッシュ自身、その感性の投影なのであろうと思われる。

*「週刊 本の発見」は毎週木曜日に掲載します。筆者は、大西赤人・志真秀弘・菊池恵介・佐々木有美・根岸恵子・志水博子、ほかです。


Created by staff01. Last modified on 2020-12-04 09:54:09 Copyright: Default

このページの先頭に戻る

レイバーネット日本 / このサイトに関する連絡は <staff@labornetjp.org> 宛にお願いします。 サイトの記事利用について