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LNJ Logo 木下昌明の映画の部屋(270回・最終回) : アニメ『君の膵臓をたべたい』
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「映画の部屋」の執筆を続けた木下昌明さんは、12月6日大腸癌・前立腺癌のため逝去されました。享年82歳。以下に掲載するのは『月刊東京』2020年12月号に掲載された「連載・映画から見えてくる世界」の「第123回・五輪中止騒動ほか」です。この文章が絶筆となりました。『サンデー毎日』にはドキュメンタリー映画を対象に永年紹介を続け、またレイバーシネクラブでの映画の解説にも毎回足を運び、11月3日には「憲法を考える映画の会」で『地の塩』(ハーバート・ビーバーマン監督)上映にあわせ講演。晩年には自らもカメラを回し『娘の時間』はじめ家族の素顔を捉え、また反原発の国会前行動取材に毎週でかけるなど行動力は衰えを見せませんでした。最後の著書『ペンとカメラ』からもその一端が伺えます。がんを患ってなお、果敢な活動をみせた彼の生き方を忍ぶ縁として、ここに遺稿を掲載します。転載を快諾された『月刊東京』編集部に感謝します。(しまひでひろ)
*写真=11.3『地の塩』上映会で解説する木下さん
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●木下昌明の映画の部屋(270回・最終回)

五輪中止騒動ほか―アニメ『君の膵臓をたべたい』

 このところ新型コロナウイルスの感染者数がどんどんふえていることが気になって、インターネットのユーチューブをよくみる。11月9日の段階で、世界ではついに感染者数が5000万人を超えたという。これにはあぜんとする。ウイルスの感染は戦争ではないのだが、それでも第三次大戦が音もなく忍びよってくる気配のようだ。

 最近、ユーチューブで清水有高という読書家がつづけている「一月万冊」というサイトにひかれている。そこには時々刻々起きている情報や話題を取り上げ、何人かの知識人も登場し、オンラインで対談している。これがちょっとおもしろい。また、清水の博学ぶりにも驚かされるし、話にちょっと疑問がわくと、その事実関係は正しいかどうかをさっと調べて画面にのせてみせるが、その素早い調査能力にわたしは舌を巻く。さすが、「一月万冊」と豪語するだけあって感心させられる。

 そのほか、ユーチューブには小動物のドキュメントや、治らないがんに関する医師の話、一種のニュースのように世界のどこかで起きている事件や事故の情報などもある。なかにはニセ情報も目につくが、情報を流すだけでなく、それに対するコメントというか、批評めいたものが柱となっていて考えさせる動画も多い。

 「一月万冊」で、特にわたしの目についたものが、真赤な文字で描かれた「五輪中止」の動画である。これが、たちまち話題をよんで広がっている。これは本間龍という大手の広告代理店、博報堂で18年間営業畑にいた作家が流した情報とのことだ。かれは今度のオリンピックの運営を取り仕切っている電通にも精通していて、その当の代理店関係者や政府のオリンピック開催者など、複数の情報が本間に寄せられて、IOCのバッハ会長が「五輪中止」にふみきった、というのだ。

 その一報がネットに流れるやマスコミの一部では大騒ぎとなり、また開催を推進する側では反論の声もなく沈黙が支配した。というのも大手の新聞社やテレビ局は、みなオリンピック関係のスポンサーになっているからだ。わずかに『日刊スポーツ』紙などが橋本五輪相に聞いてみたところ、彼女は全面否定したという記事がのった。

 また、TBSの朝の番組でも「中止報道」を取り上げる予定だった、という。そのためにTBSの記者が本間に取材にきていた。しかし、それが上層部からの差し止めの要請があってダメになった、というのだ――そのいきさつを本間が動画で話している最中、当のTBSから電話がかかってきて謝罪があったということで、話は決着した。その電話の一部がカットされていたので、ちょっとわかりにくい部分もあった。が、テレビ局の内側がわかっておもしろかった。

 本間は、ユーチューブでもう一つ、デモクラシータイムス.〈ニッポンの崖っぷち〉にも出演していて、山岡淳一郎相手に「今回のオリンピックは99%ありえない」(8月31日)と断言していた。2人は新国立競技場で話し合っているのだが、この大きな会場は最終的には8万人も入れるという。えっ、そんなに? と驚かされるが、しかし中止になった場合はどうなるのか? 「オリンピックは商業化によって巨大化してグロテスクになった」と本間は手厳しい。だから、そもそも中止になるかどうか以前に、オリンピックは純粋なスポーツの祭典というより利権のため、カネのための祭典でしかない、と本間は批判していたことがわかってくる。

 安倍前首相の場当たり的な「復興オリンピック」音頭が中止になったらどうなるのか? ユーチューブにうつるオリンピック用のハコモノ(新国立競技場をはじめ東京アクアティクスセンターや広大な選手村等々)に目をみはりながらも、空洞化していくであろう街にやりきれない気分に襲われた。そもそも五輪は、安倍が福島の汚染水を「アンダーコントロール」と大ウソつくことからはじまった。この原発の敷地には、いまトリチウムを含む汚染水タンクがずらりならべられている。それがもう限界とばかりに海に放出されようとしている。常にウソとその場しのぎの政策が大手をふって歩いている。

 「一月万冊」によると、五輪中止かどうかは、アメリカやヨーロッパのコロナ感染のまんえんにかかっているらしいが、現在、その患者数の多さは日本とはケタ違いである。それでも菅首相は、戦時下の特攻隊員よろしく「オリンピックは人類がコロナに勝った証として開催する」と息巻いている。その意気込みやよしだが、それによって世界は少しも前向きに動いているわけではない。

 ところで、中止を訴えつづけている本間龍とは何者か。本間の本の奥書からかいつまんで紹介する。かれは1962年生まれで、1989年、博報堂に中途入社し、18年間勤務。退社後、知人に対する詐欺罪で一年間刑務所に服役したあと、『名もなき受刑者たちへ』(宝島社)、『転落の記』(飛鳥新社)などをまとめ、その後『電通と原発報道』(亜紀書房)、『大手広告代理店のすごい舞台裏』(アスペクト)など、多くの著作を発行している。それらでは、広告代理店がメディアをどのように支配しているかが究明されている。また憲法が広告によって殺されるしくみや、大勢のオリンピックボランティアをタダでこき使っている醜い手法、といった日本社会にまかり通っている負の側面を抉り出している。本間は、動画だけをみるといっけん大人しそうにみえるが、一筋縄ではいかないしたたかさを持ち合わせている人物のようだ。

行動する元官僚の魅力

 もう一つ、わたしが日ごろ注目しているユーチューブに、デモクラシータイムス.がある。そのなかで特にこれはと思ったのは、佐高信が古賀茂明にインタビューしている「官僚と国家」(9月3日、22日、10月22日)の動画だ。これもコロナのおかげで生まれたオンライン形式の対話である。

 そこでは元官僚の古賀からみて、安倍や菅らの政治家と官僚のゆがんだ対応ぶりや、その関係性の深さが具体的に語られている。特に菅のマスコミ対策で、記者連中を招いて食事会を開きながら、記者たちを丸めこんでいていくさまや、またテレビ朝日の「報道ステーション」で、コメンテーターだった浜矩子や古賀茂明をやめさせたときのいきさつなどの話を興味深くみた。安倍の政治的モラルは「悪いことをしても捕まらなければいい」というもので、古賀の説得力のある話に、かえってやりきれない気分に陥った。日本の政治家はどこまで堕落すればいいのか。

 古賀茂明がテレ朝をクビになったころ、わたしは国会前や渋谷の抗議集会でかれを何度かみかけたことがある。特に学生たちによる団体、シールズが集会をはじめるようになったころ、そのシールズを励ますよう、時にスピーチしていたかれの姿をみかけた。わたしは集会のたびに、その模様をビデオカメラで撮ってレイバーネットに動画として流した。あの時代、若者を中心に安倍政治への抗議行動が盛んに行われた。わたしもカメラで一生懸命撮りつづけたものだ。政治的にはひどい状況がつづいたが、わたしは青春にめざめたように楽しい日々をすごした。

人は「選択」して生きる

 話はとぶが、いま評判のアニメ『鬼滅の刃』はまだみていない。主人公が鬼と戦って果てしなく斬り合うドラマだそうだが、人物像の描き方がグロテスクでどうにも好きになれない。もっとも予告編しかみていないのだが……。

 その点では前回取り上げた『千と千尋の神隠し』のほうがずっとよいのではないかと思った(『月刊東京』11月号)。『千と千尋の神隠し』には誰かと誰かが殺し合うシーンが一つもない。「それだったらこれはどうか」といって友人から送られてきたのが『君の膵臓をたべたい』というアニメだった。わたしはタイトルをみただけで映画をみる気をなくしてしまった。しかし、昨年、小さな出版社の編集者の知人が、突然膵臓がんを患って亡くなったことを思い出した。かれはわたしよりも10歳若かった。その出版社を訪ねると、かれはいつもおいしいコーヒーをいれてくれた。わたしが何年もがんを患っていると知って心配もしてくれていた。それなのにかれの方が先に逝ってしまった。がんは老化現象の一つらしいが、そのせいばかりではないと思い知らされたのもこのときだった。

 アニメ『君の膵臓をたべたい』は、しみじみしていながらおもしろかった。男子高校生の主人公が、病院の外来にいるとき、近くのイスから一冊の文庫本が落ちたのを目に止めるところからはじまる。ペラペラめくると、そこにはみてはならないものがかかれていた。――自分は膵臓を病んでいてあと一年しかもたない――と。そこへ当の女生徒がやってきて「わたしの日記だ。みたでしょう」と問いかけてきた。彼女とは言葉さえ交わしたことないクラスメイトだった。ぼくは猖椶涼"だったので、女生徒には関心がなかった。しかし、「死」に逝く者と、そんな死がわからないぼくとの奇妙な交流がはじまる。この関係ならぬ関係がおもしろい。なかでも二つのシーンにひかれた。

 雨の日、彼女の前の恋人がやってきてぼくを新しい恋人と誤解して殴ってきたので、ぼくは思わず「ぼくなんかと付き合うより、君を心配してくれる恋人や友人と付き合った方がいいよ」と叫ぶ。すると彼女は、濡れた路上に座りこんで「君とここにいたいの。君といることを選択したんだ」と叫び返す。それはどんな意味があるんだろう。自分はもうすぐ死ぬということ、それは誰とも共有することでないが、しかし、ひそかに共有してくれる人がほしいということ。特に若いころは時間は無限にあるように思えた。それなのに不意に死が訪れると人間に対する思いが変わってくる。そこから短い人生を送るための「選択」という言葉も生まれてくる。 もう一つ、ぼくが彼女の病室を訪れるシーン。そこでぼくは「君にとって生きているということってどういうこと?」と問うところがある。

 すると彼女は「生きることか」とつぶやいたあと、「生きていることは誰かと関心をわかち合うことなの」と答える。 うーん、そうなのだ。誰でもいい誰かでなく、一人でもいいから自分が生きて死んでいくことを主観的にも客観的にも理解してくれるひとが、どこかにいてくれること――若い彼女がそう思ったことに、わたしは共感しつつ納得した。

*『月刊東京』12月号より転載 『月刊東京』FB


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