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石牟礼道子の世界にふれる〜水俣フォーラム理事長・実川悠太さん

    林田英明

 「水俣病を通じて現代を考えてみましょう」と切り出して会場を見渡す認定NPO法人「水俣フォーラム」(東京都新宿区)理事長、実川悠太さん(64/写真)の声には温かみがある。「石牟礼道子の世界にふれる」と題した講演が2月23日、兵庫・伊丹市立中央公民館であり、42人の参加者が実川さんを通じて石牟礼さんの内実に触れた。

●「水俣は決定的に面白い」

 実川さんは東京生まれ。どこで水俣病と出会ったのかといえば、1972年、高校生で患者支援のグループに入った時だ。そして同フォーラムを97年に設立し事務局長を経て現在に至る。水俣病の実相を伝える展覧会や講演会、セミナーなどを全国で順次開催。全国の会員は921人、会友は1万6000人を数える。

 実川さんは「水俣は面白い。決定的に面白い」と言う。「公害の原点」といわれる水俣病のどこが面白いのだろう。高度経済成長のひずみが70年前後の5年間に表出した一方、保守的な空気も残る葛藤の時代。多感な実川青年は日本社会の揺れを自覚しながら何をなすべきかを考えたようだ。昨年2月に90歳で亡くなった石牟礼さんとも付き合いを深め、最後の5年間は濃密になったと話す。

 69年発刊の『苦海浄土』は、例えば古書店で当時こう分類されていた。「水俣・三里塚・沖縄」「女性・天皇・水俣」。水俣病の意義づけが見て取れる。社会学者・日高六郎さんの「水俣は一つの哲学の領域とも言い得る」という言葉を紹介しながら実川さんは「水俣が、公害の一つとしてではなく思想的な課題と捉えられていた」と語りかけた。左右の対立があった戦後日本社会が米ソどちらにつくかの利益争奪戦であり経済的豊かさの肯定では共通していた、それに冷水を浴びせたのが水俣だったと日高さんは喝破したと実川さんは語る。そして「水俣の事実を提示した仕事を専らしたのが石牟礼さん」と、その意義を高く評価した。

 「四大公害病」という教科書の表現にも実川さんは首をかしげる。そもそもは「四大公害裁判」であり、工業開発のさまざまな矛盾が起こした裁判が主体なのに「公害病」と呼びならわしていいのかという思いである。世界に「MINAMATA」で通じるのは石牟礼さんの力が大きい。確かに作家の井上ひさしさんや大江健三郎さんのように社会的な発言をした文学者はたくさんいる。ただ、実川さんは、彼らの発言と石牟礼さんの働きに本質的な違いを覚えてしかたがない。どうやら石牟礼さんの生い立ちが少なからず影響しているようだ。実川さんは熊本県水俣市や対岸の天草諸島を挟んだ不知火海が描かれた地図を指しながら石牟礼さんの幼少時を振り返る。天草・上島出身の石工の頭領が祖父、吉田松太郎だった。コンクリートやアスファルトがない時代、道路や港は礎石を入れて固めていく。つまり祖父は土木事業の長だった。石牟礼さんが生まれて3カ月後に一家は水俣に移る。祖父に妾ができたからか祖母は気がふれ、町をされく(歩く)。ついていく石牟礼さんのモノの見方が普通の子どもより深くなっていったと実川さんは考える。世の中から嫌われたり、さげすまれたりする側の自意識が芽生えた。そんな8歳の時、一家の事業が破産し、そばに女郎屋がある中心街から町はずれの水俣川河口に転居した。「それが良かった」と実川さんは心から言う。生き物や海の自然と多く触れ合うことができるようになったからだ。人間世界以外に心を寄せていく石牟礼さんの感性は豊かになる。動植物だけでなくモノノケまで感じるようになっていく。

 では、社会規範から外れてしまったのかといえば、そうではない。小中学校の成績も抜群で日常生活に問題はない。教師にも可愛がられるが、石牟礼さんには生きていくことの苦痛が小さくない。実川さんの言葉を私なりに解釈すれば、石牟礼さんは屹立した精神世界を幼い頃から築き上げたがゆえに、常識化された人間像に自らを重ねるのが耐えられなかったということだろうか。

●「患者さんたちを尊敬してる」

 祖父の姉妹は互いを「……様」と呼んでいたようで、同居していた母の弟は大変な読書家だった。そうした知的背景も石牟礼文学に影響を与えたかもしれない。作家の三浦しをんさんは石牟礼さんの文章を「近代小説ではなく浄瑠璃の近松門左衛門の構成に近い」と指摘する。実川さんの解説は、こうして石牟礼さんの内奥に入っていく。チッソによって熊本市より早く電気が通じるなど近代化が早かった水俣では、ラジオ普及以前の娯楽として小屋興行が広く行われ、娘義太夫の石牟礼さんに与えたものは無視できないのではないかということだ。

 16歳の時、代用教員となる。学校に来て居丈高な軍人を見るのも、戦時の教師の面従腹背を知ったのも苦痛だった。戦争という名の下に暴力や不合理が許される銃後生活。しかし、それ以上に人間社会への失望を深くするのは戦後の変容だった。平然と教科書に墨を塗り生徒への教えを一夜で変える姿に絶望して退職する。そして敗戦から2年後、同じ教員だった石牟礼弘さんと結婚。翌年、長男の道生さんが生まれる。3人の暮らしは貧しい。小学生に成長した道生さんが結核で水俣市立病院に入院し、付き添いで通ううちに奇病病棟に入院する劇症水俣病患者を初めて目にする。そこが出発点となる。大変なショックは3日間ほど続き、それは終生抜けなかった。むしろ、幼い頃からここまでの経験を踏まえて、より深まっていったと実川さんは考える。

 20年ぐらい前だろうか、石牟礼さんにふとバカな質問をしてしまったと実川さんは自省を込めて話す。「なぜ石牟礼さんは水俣病事件と付き合い続けているんですか」。すると石牟礼さんはほほ笑んで、こう答えた。「私は患者さんを尊敬してるんです。だから少しでもお近くにいたい、理解したい、それだけです」。実川さんは静かな衝撃を受けた。現代の作家たちが社会問題に関与するスタンスとは全く違う。

●パネル文削除の市民感情

 では、『苦海浄土』はどのようにして生まれたか。水俣病の資料は59年当時、新聞ぐらいしかない。そこで新日本窒素肥料株式会社水俣工場付属病院長の細川一の名を知る。水俣病の発生に気づいた医師である。「話を聞きたい」と訪ねる石牟礼さんに彼は風呂敷包みいっぱいの資料を渡し「これが全てです。お貸しします」と告げる。簡単にコピーができる時代ではない。石牟礼さんの勉強と、こうした助けがあって『苦海浄土』は一冊の本になり、68年には水俣病はチッソの排水による公害と認定される。「ここで注意してほしいのは」と実川さんは一呼吸置く。つまり水俣病が公害と認められる前の患者は、多くの水俣市民にとって「われらの誇りであり存在基盤である会社にイチャモンをつけてカネをせびり取ったタチの悪い貧乏人」と受け止められていた。被害者であることへの思いやりはない。

 最大5万5000人の町・水俣には、地域経済を支える発生源工場があった。しかもその工場はそこで生まれたものだ。「水俣は植民地」と評するのは、だから大きな間違いだと実川さんはクギを刺す。例えば新潟水俣病の場合は大都市で発生し、排出源は阿賀野川はるか上流の鹿瀬町。昭和電工は新潟で生まれた会社ではない。こうした点を押さえれば、水俣での市民感情が少し理解できるだろう。それは連綿として現在に続く。

 いま石牟礼さんは水俣市民にとって、どういう存在か。2015年5月1日の熊本日日新聞のコピーを資料として見せながら実川さんは“現実”を説いていく。肥薩おれんじ鉄道の水俣駅舎改修をデザイナーの水戸岡鋭治さんが手がけた際、石牟礼さんの紹介パネルを設置することになり、実川さんは文章を頼まれた。そこで水俣病の原因企業のチッソや国、県の責任そして発生当初の患者に対する地元差別を確定事実に絞って800字程度にまとめたところ、ほとんどが市の要請で削除されたのだ。実川さん自身も思いもよらぬ展開。水戸岡さんが「なぜ」と尋ねても削除の理由を市は明かさない。革新政党も推した当時の市長とてこうなのだ。水戸岡さんは「理不尽に感じた」が石牟礼さんのコーナーを残すことを優先して妥協。実川さんに「水俣病の闇の深さがどれほどか、改めて分かった気がしたよ」と話した。水俣市の高校3年生の就職希望トップは今でもチッソ。高給で安定しているのだから当然だろう。

 『苦海浄土』が世に出た時、地元は「水俣の恥を世間に知らせるのか」と反発した。親戚も、畑仕事をしている石牟礼さんに近づいて「いいかげんにせい。あんたのせいで私らまで……」と毒づく。しかし、石牟礼さんは動じない。水俣病闘争を彩った「水俣死民」のゼッケンや「怨」ののぼりをデザインし、彼女の『形見の声』に突き動かされて上條恒彦さんが作詞作曲した『花あかり』を本人の前で歌って聞かせた際、「おセンチでないのがいいですね」と反応するのが石牟礼さんだった。武田鉄矢さんの『水俣の青い空』も『苦海浄土』に感化されて作られた曲で味わい深い。石牟礼さんの多彩な能力と、文学だけでなくさまざまな方面への影響力の大きさに実川さんは感服して、そうした逸話を紹介するのだった。

●熟読玩味すべき『苦海浄土』

 石牟礼さんが描いたものは、水俣病の苦痛や残酷さだけではない。実川さんの声が熱を帯びてくる。実は『苦海浄土』を所どころ読んでも長らく通読できなかったと吐露する。「あまりに濃厚で私たちの日常と違い過ぎたから」と理由を挙げた。つまり、分かりやすく読みやすい流行作家とは対照的なこの文章を速読してはいけない。熟読玩味すべき作品で、実川さんは「自分と対話しながら読む本」と形容する。十数年前、高熱が続いた後、フラフラで起きられない日々を過ごしていた時、初めて読み通した。「泣いた。笑った。水俣病だけでなく人間を描いている本だったのか」と気づいた。意識が研ぎ澄まされて石牟礼さんの世界に近づいたのかもしれない。

 いま私たちの社会は急変している。この数十年の間に世界中で人口もGDP(国内総生産)も急増して環境に適応できなくなっているにもかかわらず「成長幻想精神病」に陥っていると実川さんは言う。近代化は、元々人間一人一人を守っていた共同体を煩わしいものとして壊してきた。だが、水俣病を含めて人間を傷つけ疎外する出来事が次々に起きて、これで良かったのかと自問せざるをえなくなった。「消え去ろうとしている人間の美しさや愛おしさ、悲しさが『苦海浄土』に書かれている。近視眼的でないスパンや奥行きが全然違う」と表現し、この100年に書かれたもので1000年後にもし読まれる書物があるとすれば、『苦海浄土』以外にはないと言う文学者は少なくないと評価する。

 さらに言えば、石牟礼さんを文学者ではなく思想家だと捉える動きが世界にはある。実川さんは黒板に図を書き始めた。政権と野党は対立しているようで体制に包まれ、反体制という近代主義も含んで一つの円に入る。反対軸に非近代主義を置いても人間社会についてだけの考えだ。ところが、自分が人間であることに違和感を持っている石牟礼さんは人間主義を超え、石やモノノケまで視野に入れて「命」と捉えるから壮大である。晩年、病院に見舞った実川さんが幻聴幻視について聞くと、石牟礼さんはこう答えた。「はい、とてもきれいな女の人の声です。私の知らない曲です」。生き物も見えたりするのだろうか。「はい、あなたの隣に」。人間社会と対応しながら、凡人には見えない世界も知覚している。

 実川さんは、改めて『苦海浄土』を読んでほしいと会場の参加者に呼びかけた。私も30年以上前に読んだはずだが記憶が消えている。書棚からパラパラとページをめくってみると傍線を引いていた。例えば、こういう箇所だ。

「安らかにねむって下さい、などという言葉は、しばしば、生者たちの欺瞞のために使われる」
「神さんはこの世に邪魔になる人間ば創んなったろか」
「日本資本主義がさらなる苛酷度をもって繁栄の名のもとに食い尽くすものは、もはや直接個人のいのちそのものであることを、私たちは知る」

 『苦海浄土』の副題は「わが水俣病」である。実川さんが「水俣は面白い」と言った意味も少し分かった気がした。じっくり再読すれば、また違う箇所に心引かれるかもしれない。


Created by staff01. Last modified on 2019-03-14 17:01:10 Copyright: Default

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