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LNJ Logo 太田昌国のコラム : 死刑と天皇制批判の言葉を説得的なものにするために
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 ●第28回 2019年2月13日(毎月10日)

 死刑と天皇制批判の言葉を説得的なものにするために


*死刑囚絵画展から

 2月10日・11日の連休は、主催者が異なる二つの講演会に呼ばれて、広島へ行った。死刑制度と天皇代替わりがテーマである。いずれにも、私は批判・反対の立場で語るのだが、植民地支配の問題と並んで、私の立場とは真逆の意見あるいは雰囲気がこの社会には充満している。それだけに、私の考えが、意見を異にする人びとに対して説得的な中身でなければならない、と最近は特に意識している。死刑に関しては、死刑囚が絵画・詩歌・フィクション・ノンフィクションなどを通して行なう表現が、それを見聞きする外部の私たちにとっても、人生について、犯罪と刑罰の在り方について、悔恨と償い、そして赦しから和解へと至る可能性について考えるうえで、いかに深い意味をもつかを強調した。この14年間各地で表現展を開催することで感じている手応えからすれば、人びとの多くは死刑制度の具体性について、また死刑囚が起こした事件の経緯・取り調べの在り方・獄中処遇・現在の心の内面について、知る手掛かりをほとんどもたないがゆえに「死刑はあってもよい」と考えているのだと思う。日暮れて、道はなお遠い。だが、「戦争の発動と死刑の執行を通して、国家がひとに死を強いる権限」を廃絶する未来への展望を捨てるわけにはいかない。

 天皇制も手ごわい。特に、まもなく去り行く現天皇・皇后に関しては、多くの人びとが一定の「親しみ」か「信頼」を抱いているように見える。皇族たちの言動には、私から見て、もちろん、常に批判すべき「偽善的な」内容が孕まれているが、問題はそれを受容する私たち(主権者)の側にあるという形で、事の本質に向き合うほうが有効ではないかと私は思う。現天皇は皇后と共に、「日本国民統合の象徴」(憲法第1章「天皇」第1条)であるという自己の使命を〈懸命に〉果たしている。彼らの制度的在り方は、主権在民・両性平等・平等原則などを定めた憲法の他の条項に背反しているが、それを知ってなお、「天皇制はあってもよい」としてきたのは「主権の存する日本国民の総意」(憲法第1条)に他ならない。

 戦争の犠牲者、自然災害の被災者、水俣病患者、ハンセン病者、子ども、老人、辺境の人びと……などは、時の政府の政策如何では、あまりに「弱者」であるがゆえに「統合されるべき国民」から外れて、打ち捨てられがちだ。天皇・皇后は、この「寄る辺なき」人びとにとりわけ「寄り添う」ことで、「日本国民統合」に尽力している。その「感動的な姿」が、天皇自身が墨守したいと考えている象徴天皇制を、人びとの心のなかで強化するのだ。

 その意味で、「一木一草にある」天皇制の根拠を批判的に考え抜くための素材が重要だと考えて、知る人ぞ知る堀田善衛『方丈記私記』(ちくま文庫)と坂口安吾『堕落論』『続堕落論』(新潮文庫)を挙げた。東京大空襲後の下町で焼け跡を掘り返していた被災者が、軍服を着て大きな勲章も付けて、ピカピカの外車から降りて視察に来た昭和天皇を前に土下座し、「陛下、私たちの努力が足りずに、むざむざと焼いてしまい、申し訳ない次第でございます」と言って涙した姿を、堀田は書き残している。「責任が、原因を作った方にはなくて、結果を、つまりは焼かれてしまい、身内の多くを殺されてしまった者の方にある」というのか! 他方、安吾は、「8・15」が、「奥の手=天皇による処理」を待ちかまえていた軍部と国民が一体となった「日本社会全体の合作」だったと喝破している。「天皇制が存続し、かかる歴史的カラクリが日本の観念に絡み残って作用する限り、日本に人間の、人性の正しい開花は望むことができないのだ」とは、安吾の断言である。いずれも、主客転倒した不条理な事態をすら自発的に受け入れて隷従する「国民」の実像を描き出している。天皇制批判は、何よりも、「国民の」自己批判として貫徹されなければならないことが、ここで明らかにされている。そのような言葉が多様に生まれ出ること――そのための工夫をしたい。(2月13日記)


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