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沖縄は本土にとってなんなのか 常に突き付けられるテーマ
森口豁氏の沖縄 『かたき土を破りて』と『激突死』


                笠原眞弓

第3回ねりま沖縄映画祭、『わたしの沖縄 あなたの沖縄』が9月22日からはじまった。19 59年から十数年間琉球新報記者や日本テレビのたった一人の沖縄支局員だった森口豁(か つ)さんの沖縄の映像とお話を聞いた。 2年前の同映画祭で永田浩三さんとコンビでの出会い以来、またお話を伺いたいと思って いたので、ドキドキしながら出かけた。森口さんは、高校生のときに沖縄を訪ねて同じ高 校生と交流した。その時、日本ではない日本を見て大きなショックを受け、以来沖縄に関 わり続けたということだった。 今回も、期待を裏切らない正直なお気持ちがあふれ出るようなお話を聴かせていただいた。 森口さんは28本の自作ドキュメンタリーの中から、“今この時期”にふさわしいものとし て『かたき土を破りて』と『激突死』の2本を持っていらして私たちに見せてくださった。 『かたき土……』は、1970年12月20日のコザ暴動(事件とは言いたくないとの彼の弁)で、 翌年の1月3日に放送されたもの。 『激突死』は、その2年半後、本土復帰1年後の73年5月20日に、コザ暴動に参加した青年、 上原安隆さんが国会議事堂にオートバイで突っ込み、亡くなったことの検証で78年の作、 どちらも25分のドキュメンタリー。 コザ暴動をどのように撮ったか、から書こうと思う。 夜中の12時半頃電話が急を告げ、1時過ぎに現場到着。人々はイエローナンバー(米軍関 係車)のを次々襲い、火をつけていた。地元警察も出動していたが、人々のやるに任せて いた。彼らすらも米軍のやり方に少なからず怒りを感じていたのだろうとのこと。MPの警 戒ラインを大学生のスチールカメラ担当の助手とともに突破して撮影した。当時のフィル ムカメラは、ライトも付いていない。それに小さなライトを括り付け、現場を撮り歩く。 その光のあるところが、ハイライト事件現場であり、撮るべき現場にカメラを案内してく れる目印でもあったそうだ。 そのようにして撮ったフィルムは、当時沖縄県外に持ち出すには、税関を通さなければな らなかったし、その日のフライトは昼の大阪便だった。そこで空港に行きその便に乗る人 に、これは云云(しかじか)で、密輸してほしいと頼む。その日のニュース番組で、大阪局 から全国に映像が流されたという。 コザ暴動は、いったいなんだったのか。 事件のきっかけは、酔った米兵が女性をひき逃げしようとしたこと。基地内に逃げ込めば、 この事故は確実になかったことになる。それを阻止しようとして、それまでの怒りが爆 発した事件だった。もともと沖縄の県民性は親切でおとなしいのに、あれだけの行動に出 たという意味を米国は知るべき。人間としての抵抗であり、生き方として決然と立ち上が ったことを深く理解しなければならないと強調。 1945年以来米軍による統治が行われていた沖縄では、米軍人による犯罪行為は罰せられる こともなく、野放し状態だった(現在も日米地位協定によって、米軍人・軍属の犯罪の裁 判権は日本にない)。いまだに「沖縄は天国」と米兵に言わしめていると現状にも言及し たが、何より驚いたのは、米兵がらみの犯罪の多さ。B4用紙1枚に50件ほどの犯罪を記入 してつないだ巻紙がほどかれたとき、その場にいた私たちは思わず「ワァーッ」と声を上 げた。 70年の犯罪件数は急増していて、コザ市内だけでも相当数あったし事件化されていないも のもこの何倍もあると、具体的な事件件数を上げた。 そして『激突死』である。 この作品は、私にとってかなりショックだった。 上原安隆(26)さんの生前を知る人へのインタビューで、彼が議事堂に突っ込んだわけを探 っていくものだった。 休みの日だった。彼は自分のオートバイに乗って外出した。いつものように?そしてあの 議事堂の前の道を直進して正門にぶつかった。残ったのは門扉の柵の幅に傷ついたヘルメ ット。門扉はたったの3、4本が曲がっただけ。その映像は、彼の生涯をかけての抗議行動 が、たったこれだけしか影響がないことを示していた。数日後にはその門扉も新しくされ、 まるでなかったようになっていただろう。 彼はコザ暴動に加わり、起訴されていた。米軍相手のバーでボーイをしていて、特に彼ら に敵意を持っていたわけでもなかったらしい。だが、彼は友だちと一緒にあの暴動に加わ っていた。 上京した彼は、何を考えていたのだろうか。森口さんが聞き取りをしているうちに気づい たこととして、当時起訴された人たちでも、労働組合員の場合は、組合が支援していたが、 市井の上原さんのような人は、誰も支援していなかった。 彼にとって裁判闘争は、非常にきついものだっただろうという。 本土政府と沖縄との関係も復帰を通して齟齬があらわになっていき、限りない絶望が広が っていた。日本国憲法の下、民主主義の国に復帰するつもりだったのに、見えない規制が 沖縄を苦しめていた。 基地がなくなり、健全な産業が興ることを望み、期待していたのに、一つも満たされなか った。それなのに、復帰で沖縄問題は解決したと本土の人は離れていった。メーデー壇上 に72年まであった沖縄のスローガンが、次の年には沖縄の“お”の字もなかった。それが “本土”の正体で、今も変わらないと強調する。 翁長雄志さんが2013年、(東京での?)オスプレイを巡るデモのとき、沿道から罵詈雑言を あびせられた。その時、日本人と向き合う覚悟が出来たと話しているように、あまりの仕 打ちが戦中、戦後を一貫して今も続いている。 森口さんが配ってくださった資料でもわかるように、戦後天皇は保身のために沖縄を進駐 軍に売った。そして、復帰のときに日本政府は「日米地位協定」という見えない密約で再 び沖縄を売った。この事実を忘れてはいけないと、2本の映像は叫んでいる。 後日談だが、作品のかなでも安隆さんのことを歌い続けている海勢頭豊(うみせど ゆたか )さんと森口さん が正門を訪れ、花を手向けたいというと、守衛が拒否する。黙って引かない森口さんは、 粘って花を立て、お参りして帰る背中に、こともあろうに「すぐに撤去するからなァ」の 罵声がかぶさったという。もちろん、その言葉の撤回をせまったそうだが、当然である。 いま上原安隆さんのヘルメットは、双子のお兄さんの安房さんが持っている。「兄の息子 が大きくなったら、訳を話して渡したい」という。

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