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執行までの日々、もし自分だったら〜映画『教誨師』が描いた死刑囚

    堀切さとみ

 人は必ず死ぬのだけれど、病気や事故ならしょうがない。だけど、死刑という死に方だけは望まないというのが自然な感情だろう。誰だって自分が死刑になるかもしれないと思って生きたりはしない。ただ、日本に生きていると「死刑」、しかも絞首刑という、かなり残酷な死に方をする可能性があることに、あらためてゾっとする。

 映画『教誨師』を観た。オウム幹部の13人が処刑されて三か月。「死刑」について考えてみたかった。

 教誨師を演じたのは今年二月に急逝した大杉漣。彼をはじめ、映画の制作に関わったすべての人たちが、死刑囚、あるいは教誨師と自分とを重ね合わせたことだろう。学はないけれど気の優しいホームレス、経済的に追い詰められた父親、愛する女性と結婚できなかった男、騙されて主犯にさせられてしまった女、親分肌のヤクザ、この社会を客観視している青年。この映画に登場する六人の死刑囚たちだ。彼らをみていると考えざるを得なくなる。ちょっとしたつまずきで、誰もが死刑という運命を背負うことになるかもしれない。死刑判決が出されたとき、自分だったらどうするか。執行までの日々を、どのように過ごすだろうかと。

 教誨師と死刑囚。死刑囚は命が切断される日に脅え、かたや教誨師は生き続けることのできる存在だ。死刑囚にひたすら寄り添い、思いを馳せ、想像するのだが、決して安泰な場所にいるわけでもない。そんな教誨師・佐伯と、六人の死刑囚の対話が始まる。読み書きのできない初老の死刑囚に、佐伯は文字を教える。そこには人が変わり、生きる術を獲得していく姿がある。その一方で、生きる意味ナシと決めつけた人たちを殺めた青年(相模原の障害者殺傷事件の犯人を髣髴とさせる)は、「なぜ殺人を許さないと言う奴らが死刑を許すのか」と不敵な笑みを浮かべて言う。佐伯は語りかける。「君のことが怖いんだ。それは僕が、君のことを知らないからだ」。そして、「理解はできなくても、君の中にある穴を見つめ続けたい」という。

 加害者の声を聞く。そうした行為を唾棄する人もいるだろう。「死刑囚のことを、なんで想像したり理解したりする必要があるのか」と。たとえばオウム信者たちを撮ったドキュメンタリー『A』(森達也監督)は、「この映画を観ることはオウムに加担することだ」と言われたりした。「加害者=自分とは異質のもの」として避け、知ろうとする人を排除する。こうした傾向が、日本にはとりわけ強いように思う。でも、佐伯は「加害者になり得た自分」というものを認識している。そんな佐伯を軸にしたこの映画の中で、教誨師は教えられる存在になり、死刑囚は感謝される存在にもなり得たのだ。

 森達也は死刑についてこう書いている。「もしあなたが音響ホールを設計するプロならば、自分が設計したホールの音の響きを何度も確認するはずだ」「あなたは死刑判決を下すかどうかを判断するプロフェッショナルだ。ならば死刑判決を下された人たちが、どのように執行されるかを知らなければならない。どの程度に苦痛を感じていると推量できるのか、知らなければならない」。なのに、この国の大臣は職業的倫理など皆無で、執行前日には酒を飲んでドンチャン騒ぎだった。国家の名のもとに人を殺すとは、そういうことなのだろう。

 そして「人を殺したんだから、残虐に殺されるのはあたりまえ」という人は多いが、七月に処刑されたオウム幹部の中には、一人も殺していない人がいたことを、私はつい最近まで知らなかった。杜撰なのは国家ばかりではないのだ。

*映画は全国で公開中。映画公式サイト


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