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LNJ Logo 太田昌国のコラム「サザンクロス」/オウム真理教信者7人の死刑執行の背後に
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 ●第21回 2018年7月10日(毎月10日)

 オウム真理教信者7人の死刑執行の背後に

 オウム真理教をめぐる報道に接すると、重大な権力犯罪に触れることなく、またしても表層をなぞる情報ばかりが大量に噴出しているという思いに駆られる。7月6日に行なわれた7人もの大量処刑に関しても、それぞれのメンバーがどの件についていかなる役割を担ったかについての報道はなされている。これだけを見せつけられれば、なるほど、こんな大罪を犯したのか、死刑は致し方ないな、と多くのひとは思って、終わりになるだろう。

 だが、松本サリン事件(1994年6月)も地下鉄サリン事件(1995年3月)も、本来ならば(――ということは、それ以前の事件に関して当該警察が「まっとうな」捜査活動を行なって、しかるべき任務を果たしていたならば、ということだ)未然に防ぎ得たはずだと確信している私には、事態は違って見える。それは、1989年11月に起こった坂本弁護士一家(当時、神奈川県横浜市に住んでいた/写真)「失踪」事件に関わることである。坂本弁護士が以前から、オウムに出家した子どもを持つ親の相談に乗っていたこと、オウム幹部は坂本弁護士の動き方に警戒心を抱いていたこと、事件現場にはオウムのバッジであるプルシャが落ちていたこと、事件から3か月後の1990年2月には、坂本弁護士「失踪」事件に関わりながら、その後教祖と仲たがいした一信者が、一家3人の遺体を埋めた場所を神奈川県警に通告していたこと――これらを重ね合わせるなら、遅くともこの1990年初頭の段階で、オウム真理教の「暴走」を食い止め得るだけの「捜査資料」を神奈川県警は手にしていたのだと言える。

 ところが、神奈川県警が1980年代に行なっていた共産党幹部宅電話盗聴事件に関する裁判で原告側弁護人であった坂本氏は、県警からすれば「敵」であった。そのために県警は基本捜査を徹底してサボり、一部報道機関を使って、坂本弁護士の金銭横領疑惑や内ゲバによる失踪情報を流すばかりであった。警視庁捜査一課は1991年8月、オウム捜査専従班を設けたが、神奈川県警から横槍が入り、わずか2カ月で解散に至っている。各警察署の「管轄権限」が壁になって立ちはだかったのである。権力としての警察は、こんなことまで敢えてするものなのだという事実を、私たちはしっかりと頭に刻み込んでおかなければならない。

 松本サリン事件は、先に触れたように、1994年6月の出来事である。地下鉄サリン事件は1995年3月である。上に述べたような歴然たるオウムの「痕跡」を犯行現場に残しながら、しかも遺体埋葬現場の「垂れ込み」情報もありながら、坂本弁護士事件の捜査・摘発がわが身に及ぶことがなかったこの4〜5年の間に、オウム真理教は、警察の捜査能力の低さを嗤い、嘲り、増長したのであろう。オウム教祖は、それほど強大なものではないと見くびった「国家権力とのたたかい」を信者たちに号令した。国家が独占している暴力をオウムが手にできれば国家に対抗できると幻想して、銃・VXガス・サリンなどの武器と毒ガスの開発に全力を挙げた。国家権力を無化する方向性においてではなく、国家の真似事を目指したオウム教祖は「省」という権力機構を設け、今回処刑された人びとを担当大臣に任命した。人生上の迷いや苦しみの救済を一宗教に求めたに過ぎない若者たちは、こうして「国家遊び」に興じるうちに、「国家」の名の下でなら暴力を行使し、殺人をすら行なうことに、何の疑念も躊躇いも抱かなくなったのである。

 この哀しい「殺人者」が生まれることで、29人の死者と6400人もの後遺症に苦しむ人びとが生じた。今回処刑された「罪びと」たちの背後に、この巧みに隠されている事実を探ること――煽情的な報道からは常に離れて立ち、事態を冷静に見つめたいと思う。


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