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LNJ Logo 太田昌国のコラム「サザンクロス」 : 植民地問題と死刑問題
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 ●第13回 2018年2月10日(毎月10日・25日)  

 植民地問題と死刑問題

 現在ある政治的・社会的・経済的な秩序に疑問を感じ、これを変革するためのさまざまな社会運動に関わる個人がおり、その人びとが集団を作る。基本的には同じ立場の人びとの中にあっても、問題によっては、小さな差異も、場合によっては大きな食い違いが生じることもあるのは当然だから、そこで、その相違点をめぐってどれほどの「豊かな」議論が保障されるかということが、その運動の帰趨を決める大事な要素だと思う。

 私なりの社会運動への関わりの経験の中で、「運動圏」の人びとの理解が、他の課題に比べて、すんなりとはいかない課題が、ふたつあると思える。植民地問題と死刑問題である。前者に関して言えば、アジアで唯一、植民地主義帝国として成り上がった経験を持つ私たちの社会は、その捉え返しも謝罪も不十分なままに、植民地「喪失」から73年目の時を迎えている。この現実がもたらす歪みは、為政者側にのみ見られるのではない。それなりに強力に展開された1950年代〜60年代の反戦・平和の運動が、戦争における被害者意識に大きく依拠していたことは、60年代後半に高揚したベトナム反戦運動の中で、すでに批判的に提起されていた。以後、その限界を克服するための思想運動も実践活動も展開されてきたが、それが社会全体に浸透するまでの力とはならなかった。

 その延長上に、21世紀に入って以降第一次安倍政権の誕生とともに社会の前面に顕在化した民族排外主義の露骨な動きがある。それを私たちが阻止し得ていない現状がある。平昌冬季オリンピック報道の一言一句に、日本国の首相が朝鮮の「高位」代表とひと言二言交わした会話や韓国大統領との会談の模様を報道するマスメディアの姿勢の一つひとつに、継続する植民地主義の拭い難い痕跡を見る。その価値観が、私たちには日々擦り込まれているのである。ここから脱却すること――これは私たちにとって、今後もなお繰り返し深めなければならない課題であり続けると思う。

 二つ目の死刑問題も、なかなかに手ごわい。一般的な感覚からすれば、死刑は自分からはあまりに遠い出来事であり、いわば他人事である。加害者になって自分が死刑囚になることなぞ、あり得ない。むごい事件に被害者の立場で出会ってしまい、否応なく死刑囚となった加害者と向き合う運命なぞも、自分を見舞うはずもない――ごく自然に、誰もがそう思っている。だから、問題を身近には感じない。ひとを殺めてしまう加害者は個人か集団だが、死刑の場合は国家が代行してひと殺しを行なうということ――そこに、どんな問題が孕まれているかという意識が心を過ることはあまりない。そういえば、国家というものは、戦争においても、他国の兵士や(場合によっては)民間人をすら殺害する権限を自国兵士に与えてしまうな、その戦争犯罪のゆえに国家や具体的な個々の兵士が裁かれるケースは、「戦勝国」と「敗戦国」の力関係にもよるが、めずらしいことだな、という事実にも思い当たる。すると、国家は、戦争の発動と死刑という制度を通して、個人には許されない殺人の権限を独占しているのだということになる。国家は国家であるがゆえに正しいと考えるべきだろうか。

 「国家」を「支配者」とか「首相」の語と置き換えてみれば、そんなことがあり得ないことは、私たちの日常感覚だろう。

 確信を持った党派左翼の場合も、複雑だ。20世紀以来の左翼前衛党派主義者にあっては、敵対する者を「粛清」したり「内ゲバ」で消したりすることは「当然の」行為だった。つまり、権力志向の人間にあっては、必要とあらば国家や党や組織の名においてひとを殺してよいとする価値観が内面化しているのだと言える。死刑執行が続き、戦争も露出してきている日本社会の現状の中で、何度でも立ち返って考え抜きたい課題である。

↓関連情報「第7回死刑映画週間」
http://forum90.net/event/archives/13


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