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「希望の党」ドタバタ劇と「いつか見た風景」〜問われる決意と覚悟

     黒鉄好(安全問題研究会)
*10月1日「反安倍デモ」に参加した枝野幸男議員。写真=ムキンポさん

 「絶望の党」、もとい「希望の党」をめぐるドタバタ劇を見ていて思う。これはいったい誰にとっての希望なんだろう、と。少なくともその対象が私たちでないことだけは確かだ。

 テレビを見ていると、あるコメンテーターの言葉が私の耳に飛び込んできた。「私もこれまでいろいろな政党の離合集散を見てきましたが、ここまでひどい例は今回が初めてでしょうね」。これには文句なく同意する。

 解散に抵抗する前代表が更迭され、新たに就任した組織のトップがみずから組織を解散。海のものとも山のものともしれないが、今より良くなると思えないということだけは確実に言える正体不明の新組織に労働者を再就職させようとするが、新組織は「彼らが新しい組織にふさわしいかどうか、選別させてもらう」と宣言。

 新組織に移れる者、移れない者を選別するため、「採用候補者名簿」が作られる。旧組織の労働者は新組織による「面接」を通じて思想信条で「選別」され、合格した者は新組織へ。採用候補者名簿に載せてもらえなかった不合格者はそのまま旧組織に残り、やがて解雇へ。ドタバタ劇が終わってみると、被解雇者は特定の思想信条を持つ人に集中していた――

 今、民進党をめぐって起きていること、これから起きるであろうことを大まかに述べると、こんな感じだろうか。昔、これと同じ風景を、どこかで見たような気がする。さて、どこだっただろう。記憶の糸をたどってみる。今からちょうど30年前に国鉄で起きたことと同じだ、と思い出す。

 「解散に抵抗する前代表」を仁杉巌総裁に、「新たに就任した組織のトップ」を杉浦喬也新総裁に、「新組織」をJRに、「労働者」を議員・党員に、「旧組織」を国鉄または国鉄清算事業団に置き換えれば、本当にそっくりだ。国会に議席を持つ公党、自民党を別にすれば、(届くかどうかは別にして)最も政権獲得に近い場所にいる野党第1党が、よもやJRばりの「偽装倒産解雇戦術」とは……。しかも、思想・信条で選別し、反対する者を解雇ときている。

 共通の思想信条を持つ者が集まり、共通の政治的目標達成のために行動する団体である政党や政治団体を、企業と単純比較するわけにはもちろん行かないだろう。「共通の政治的目標の達成」を阻害する者は排除されて当然だといわれれば、確かにそうかもしれない。だが、どうも釈然としない。いろいろな、幅広い立場の人を包摂していることで何を決めるにも党内対立がついて回ることがこの党の欠点でもあったが、いろいろな人が集まり多様性があることがこの党の長所であり特色でもあった。ほんのひとときとはいえ旧民主党が政権を獲得できたのは、大きくあることを目指したからだ。

 「共通の政治的目標の達成」を可能にするために、党は緩やかにいろいろな立場の人を包摂し、大きくあるほうがよいのか。それとも決意と確信に満ちた人々のみで構成され、戦闘力があるなら小さくてもかまわないのか。政治の世界ではずいぶん前から論争が続いてきた。党が職業革命家だけで組織されるほうがよいのか否かをめぐって闘われたレーニンとマルトフの論争を思い出す人も多いだろう。答えは、どちらもイエスであると同時にノーでもある。どのような政治情勢かによっても違う。レーニンの言葉を借りるなら「何をなすべきか」によっても左右される。党の目標を国会で議員として活動することだけに置くのか、院外の広範な市民と結んだ闘いまでをも目標に含めるのかによっても異なる。

 野党共闘がイエスという人がいればノーという人もいる。「まとまらなければ自民党を倒せないじゃないか」と言う人がいればそれは正しいし、「考えが違うから別々の党なのであって、同じ候補者を推して闘うなら同じ党になればいい」と言う人がいればそれも正しい。

 インターネット上に、首相の名前は載らなくても民主党〜民進党批判の載らない日はないほど民進党への批判は強い。自公の野合は棚に上げ、「考えが違うのになぜ野合するのか」というご都合主義的批判が与党支持者から投げつけられるのがインターネットの日常だ。日本人には政党は同じ考えを持った人々だけの結社であるべきとの考えの人が多いようだ。案外、レーニン主義者が多いらしい。

 小さくとも一体感、まとまりのある政党による切磋琢磨こそが政治のあるべき姿だと日本人の多くが考えているなら、小選挙区制は最悪の制度であり廃止されるべきだ。比例代表制こそ日本の選挙制度にふさわしい。レーニン主義者の多い日本で完全比例代表制を導入したら、「20党連立政権」のようなものができあがり、小党乱立には慣れっこのイタリア人も腰を抜かすことになるかもしれない。でもそれでいいではないか。現在、閣僚ポストは全部で19。それらのポストに就いている政治家が全員、違う党なんて、想像するだけでも楽しい。

 それはともかく、新組織への採用候補者名簿に載せてもらえず「民進党清算事業団」に送られる「国労組合員」(リベラル派)はどうすればいいのだろうか。解雇撤回を目指して四半世紀、闘い続けた本物の国労組合員のように、どんなにひもじくても、苦しくても、最後まで信念を貫くよう私は求める。議員バッチを守りたいばかりに節を曲げる民進党議員の姿なんて私は見たくも聞きたくもない。たとえ議員バッジを失っても、国会の外で「国民との連立政権」を組めばいい。

 有権者は政治家が思っているほど愚かではない。何十年もかけて闘って、やっと勝ち得た政権交代。弱小政党の一員として非自民連立政権の一角を占め、さあこれからという時に、米軍基地の「県外」を求めて闘っている沖縄を裏切りたくないと、社民党は断腸の思いで政権から離脱した。消費税引き上げに反対し、行革で捻出した予算で「コンクリートから人へ」を実現しようとした小沢一郎氏は、勝手に消費税引き上げを決めた野田政権の下で、「約束を破りたくない」と信念に基づいて離党し、自由党を旗揚げした。それがどうだろう! 民進党が今まさに消えようとしているこの瞬間、社民党も自由党もしっかり残っているではないか!

 安倍首相から「こんな人たち」呼ばわりされた私たちは、彼らとは違う世界に生きている。金も権力もない私たちが大切に守らなければならないのは「命」と「信頼」だ。それこそが私たち唯一の資産だと知っていたからこそ、社民党は沖縄の「命」を優先して政権を捨て、自由党は信頼を優先して与党の座を捨てた。だからこそ今がある。

 議員バッジを守るために節を曲げ、おめおめと生き恥をさらそうとする民進党議員たちよ! 恥ずかしくないのか? 沖縄の命、有権者との信頼のために生きた社民党や自由党、「許せないものは許せない」と四半世紀、1人も職場に戻れなくても闘い続けた本物の国労組合員たちに、このままで顔向けできるのか? もう一度繰り返そう。権力や金などなくていい。政治家が命と信頼のために生きなくて何のために生きるのか? ひとりでも多くの民進党議員たちが、信念を貫き、「こちら側の世界」にとどまることを強く求める。これを求めることは私たちにとって当然の権利でもある。

 最後に、ここを見ている多くの有権者、市民の皆さんにも呼びかけたいと思う。今訪れているのは戦後最大の危機である。安倍と小池の闘いは、ヒトラー対ルペンの闘いであり、原爆と水爆ならどちらがよいかと聞かれているようなものである。今さらじたばたしても仕方がない。私たちにできることは何か? 私たちが持っている小さな決意、小さな覚悟の火をみんなで持ち寄り、右翼を燃やし尽くす大火にすることである。

 私の政治上の「師」でもあった立山学さんは、私にこんな言葉を遺された。「暗闇が深ければ深いほど、小さな闘いの火でもよく見える」。今、私には、あちこちで灯されている小さな火が今までよりもよく見える。ここを見ている多くの人は、おそらくそれぞれが闘いの現場を持っているはずだ。基地と闘う人々。安全な食べ物を口にしたいとの思いで自由貿易に反対する人。世界中の原発と放射能を始末したいと考える人。貧困のどん底に落とし込まれ、生活保護を受ける以前にそのような制度があることさえ知らされず、もがいている仲間を助けたいと思っている人。保育園落ちた、日本死ねと思っている人。結婚すると、男じゃなく女が姓を変えなければならないのはおかしいと思っている人。それぞれに凄絶な現場がある。

 そのような凄絶な現場で格闘しながら、決して大言壮語するのではなく、自分の与えられた持ち場の中で、自分のできることを、自分にできる範囲で、最後までやり遂げよう。この仕事のためなら、自分の身が粉になってもかまわない――ここ10年くらいだろうか。私の周囲でも、それほど政治的な生き方をしているわけでなくても、そんな「自分なりの小さな決意と覚悟」を持った人が、少しずつではあるが、増えている実感はある。このような人々の格闘、奮闘こそが、草の根の民主主義を鍛え、国会情勢がどうあろうとも、憲法を守ることにつながってきたような気がする。そんな小さな決意と覚悟をみんなが持ち寄り、自己保身と差別排外主義に身を堕とした政治家たちを焼き尽くす大火にしよう。たとえ戦後日本が焼け野原になっても、そうすることでしか新日本の再生はない――そう思わざるを得ないほどの崖っぷちに私たちは追い詰められてしまったのだから。

 自分なりの小さな決意と覚悟で、地に足のついた闘いを続ける人たちの灯火は、しばらくの間、明るくともり続けるだろう。それは日本の闇の底なしの深さを物語っている。だがそこに現場がある限り、その火が消えることはあり得ないと断言する。日本の闇がいつ明けるかは私にもわからないが、とりあえず、私はもう少し自分の現場で小さな火を燃やし続けたいと思う。どんなに長く、暗くても、明けない夜はないと信じて。(2017.10.1)


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