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LNJ Logo 牧子嘉丸のショート・ワールド(43) : 宗教者、共謀罪に反対して立ち上がる!
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    第43回 2017年6月1日

宗教者、共謀罪に反対して立ち上がる!

 5月31日午後2時から「『共謀罪』反対・憲法改悪阻止をめざす宗教者・信者全国集会」が日本教育会館で開かれた。開会あいさつで、「私たちは宗教・宗派の違いをのりこえて集まっているのではない。それぞれの信仰に立ち、その宗教の根本に則って集まっているのだ」という旨の発言があった。民進・近藤、共産・井上、社民・福島氏らの野党代表あいさつがあり、総がかり実行委員会の高田健さんは、今の悪政に抗して政党・市民・宗教者の連帯を呼びかけた。

 基調講演は弁護士の海渡雄一さん。共謀罪は戦前の治安維持法と同じ発想であり、それは共産主義・社会主義者だけでなく、宗教団体にもどのように牙をむいたかを力説。特に最初に治安維持法が適用された第二次大本教事件をとりあげ、そのやり方のあまりの非道さに会場は息を呑んだ。

 1935年(昭和10年)12月8日、京都府の綾部と亀岡にあった大本教の施設を500名の警官が急襲。罪名は不敬罪と治安維持法違反で、987人が検挙、うち61人が起訴され、特高の激しい拷問で16人が死亡したとされる。すでに前年から教団の内偵と教義の調査を行い、出口王仁三郎による大本の教義が天皇制と相容れないと判断し、裁判前に教団施設を破壊し、神殿はダイナマイトで粉砕するというすさまじさであった。この物理的破壊によって、大本教が邪宗であり、また治安維持法と天皇制の畏るべき権威を国民に印象づけるものでもあったという。

 このとき捜査を指揮した唐沢俊樹は、天皇機関説を唱えた美濃部達吉を刑事告発した人物であり、内務次官から貴族院議員になり、戦後公職追放を受けるが、やがて自民党国会議員として復活、岸内閣では法務大臣まで務めた。まさに戦前から戦後へ、特高・公安と続く系譜が今なお命脈を保っていると海渡さんは指摘された。

 その後、各宗派の呼びかけ団体からのあいさつがあったが、なかでも注目を浴びたのは元創価学会員有志の3青年の決意表明であった。元本部職員でもあった3人は現会長ら学会指導部の変節を厳しく批判し、それに追随する公明党の転向を糾弾した。学会員に対して「ネットを見るな」「批判的意見には耳を傾けるな」と、統制を強めているというが、「世界平和・人類の幸福」という創価学会の本来の教義に戻って欲しいと訴えた。その渾身の叫びに満場の拍手が起こった。

 閉会のあいさつでは、「戦争法に反対する宗教者の会」代表が、アベ暴走政治というが、ブレーキどころかアクセルをいっしょになって踏んでいるのが公明党だと批判。宗教がめざす「平和と平等」という永遠不変の理想を失うと、時の権力者に迎合し腐敗していく典型である。最後に、沈黙と無関心こそが最大の罪だというマーチン・ルーサー・キング牧師の言葉を紹介して、諦めずに共謀罪に反対していこうと結ばれた。

 思えば、世界の歴史は宗教弾圧の歴史であり、世界の戦争もまた宗派間の戦争でもあった。日本の歴史もまた宗教弾圧の歴史でもあり、時の為政者に屈服し教義を改変させられてきたともいえる。それは過去の話しではない。将来の宗教弾圧におののかされ、また戦争協力という痛恨の歴史を繰り返すかもしれない。だからこそ、集会アピールは以下の3点(要約)を決議したのである。

1信仰によって、恐怖と萎縮の社会を拒絶する。
2戦争と戦争する国を拒絶する。
3宗教者・信者は再び壮絶な宗教弾圧に遭遇することを拒絶する。

 集会後は、それぞれの宗派の幟を立てて平和行進を行い、神保町を行く人々に共謀罪反対、憲法改悪阻止を訴えた。また、日比谷野音での共謀罪反対集会に再結集した参加者もいた。

 私も日比谷に移動し、共謀罪廃案の集会に参加したが、会場のあふれるばかりの熱気はすごかった。ここでも海渡さんの国連報告の簡潔な紹介があり、各政党・各団体の力強いアピールがあった。

 しかし、私がひとつ残念に思うのは、市民・労働組合・文化団体、また宗教者の立ち上がりに対して、文学者の声が聞こえてこないことだ。集会では表現の自由を抑圧する共謀罪に断固反対するというアピールもあったが、いつもペンクラブ会長の声明だけで終わっていると言ったら言い過ぎだろうか。なぜ多くの作家はその巧みな表現力で雑誌・新聞・講演などでもっと共謀罪反対の意思表明をしないのか不思議である。

 文学者は政治や社会について直接的な発言をしないというなら、そんな作家は完全な文学者失格である。今迫っている危機は、民主主義が窒息するか否かという危機である。自分の内面・表現の自由が奪われかねない時に、それを逃げて作家といえるのだろうか。 多くの宗教者・信徒がその宗派のしがらみを越えて、信仰の自由のために立ち上がっているだけに、表現の自由を求めてもっと作家が声をあげてもいいと思うのだが、どうだろう。そんなことよりノーベル賞の方が気がかりなのだろうか。(無断転用絶対厳禁)


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