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LNJ Logo 松本昌次のいま、読みつぎたいもの第6回〜上野英信「私の原爆症」
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第6回 2016年3月1日 松本昌次(編集者)

上野英信「私の原爆症」

 上野英信さん(写真)は、1987年11月、64歳でこの世を去りましたが、その生涯は、戦後日本の経済発展を、まさに、地の底から支え、生き、死に、そして見棄てられた炭鉱夫たちとともに歩むことに捧げられました。戦争中は、満州国立建国大学に学び、戦後は京都大学で中国文学を専攻していた上野さんが、どうして、一介の炭鉱夫として炭鉱に翻然として身を投じ、そこから一歩も退かず、死と背中合せの最も苛酷な労働に従事する労働者たちとその現実を、記録しつづける道を歩むようになったのでしょうか。

 「私の原爆症」は、わずか3ページほどのエッセイですが、そこに、上野さんの決然とした転身の動機が語られているようにわたしには思われてなりません。上野さんは、学徒召集中の1945年8月6日、広島で被爆します。エッセイの冒頭、上野さんは書いています。その日以来「私はアメリカ人をひとり残らず殺してしまいたい、という暗い情念にとらわれつづけてきた。……おそらく、死ぬまでこの情念から解放されることはあるまい。」と。

 “皆殺し”とは、ただならぬ思いですが、被爆からの十日間、上野さんが心に刻印した原爆の惨状はどのようなものであったか。上野さんは“被爆者”であることをなるべく隠そうとします。なぜか。それは、“皆殺し”という、暗く、絶望的で、陋劣(ろうれつ)な、「ついに果たされることのない情念」にとらわれている“私”を、人に知られることを恐れたからです。そして「どんな美しい思想も、建設的な平和の理論も」、上野さんを解放してはくれません。あるのは、「無限の虚無の底からふきあげてくる殺意だけ」です。このような“憎悪”でもなく、“憤怒”でもなく、「救われることのない哀しみ」を直視した上野さんが、どうして、おめおめと、のこのこと、大学になんか行っていられるでしょうか。上野さんはそういう人でした。上野さんは、生涯を賭けて、国家による理不尽な仕打ちによる死者たちを弔いつづけたのです。

 エッセイの中に、絶唱として知られる一首――「大き骨は先生ならむそのそばに小さきあたまの骨あつまれり」など、多くの短歌を遺し原爆症で斃れた正田篠枝さんとの一夜のことが書かれています。すっかり癌に侵され、動くのは右手だけになりながら、最後の力をふりしぼり、正田さんは、原爆の犠牲者の数だけ、死ぬまでになんとしても「六字の名号(めょうごう)」を写したいと、南無阿弥陀仏を唱えながら、一晩中、必死に名号を記しつづけていたといいます。その「称名(しょうみょう)の声」は、のちのちまで、上野さんの耳にあざやかに聞こえつづけてやみません。

  いや、その「称名の声」は、いまなお、広島・長崎・福島のみならず、日本全国を掩いつくし、唱えつづけられているのではないでしょうか。にも拘らず、原発の海外売りこみ・国内再稼働に狂奔する政府・資本家の面々には、その声はどこ吹く風、ちらりとも届かぬようです。彼等を放射能汚染の海に叩きこんでやりたい「情念」に駆られます。上野さんが、エッセイのおわりに書いたことばを、わたしたちはいまいちど、よく噛みしめなければならないと思います。

 「末期の思想を中核としてもたない平和運動は、もはやいかなる意味においても存在理由をもちえないだろう。平和への希求は、いまさらいうまでもなく、それらしい気運に同調してみずからを解消することではないはずである。私は永劫(えいごう)に救われることのない奈落の底にあって、わが殺意のやいばが、われとわが身を切りきざむ熱さにたえるほかはない。」

*「私の原爆症」 初出=「展望」1968年10月。『骨を噛む』1973年4月(大和書房)/上野英信集5『長恨の賦』1986年5月(径書房)/戦後文学エッセイ選12『上野英信集』2006年2月(影書房)にそれぞれ収録。


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