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悲しみと怒りは消えていない〜南京大虐殺の現場を訪ねて

     佐々木有美

  *幸存者(大虐殺で生き残った人)の楊翠英さん

動画(太平門虐殺事件のお話 5分)

 12月10日から15日まで、日中労働情報フォーラムが企画する「日中不再戦の誓いの旅」に参加した。主な目的は、12月13日に行われる南京大虐殺犠牲者追悼式典参加と史跡などを訪ねること。北京で国際交流協会や、日中職工対外交流センターとの交流のあと、12日夕方に南京に到着した。現在800万人の人口を擁する南京は、大都市である。駅から市内へバスで向うと、夕闇に包まれた街はあちこちに高層ビルが立ち、夜景が美しい。78年前の大虐殺の面影は、当時街をとりまき、今も一部残る城壁に見られるくらいだ。

 13日朝、追悼式典に向う。活気のある大通りのあちこちに「圆梦中华 勿忘国恥」のパネルがある。意味は「中華の夢をかなえよう 国の恥を忘れるな」。また、「正義必勝 和平必勝 人民必勝」の看板も掲げられていた。昨年から国家行事として行われるようになったせいか、式典の警備は厳重だった。バッグの持ち込みは禁止。金属探知機で一人ひとり検査された。

 式典が行われたのは、虐殺記念館のある巨大なメモリアルパーク。小学生、若者たち、軍人、市民など約1万人が集まった。椅子に座り前列中央にいたのは、30人の幸存者(虐殺で生き残った人たち)だった。日本からも様々なグループが100人くらい参加した。昨年は習近平国家主席が挨拶をしたが、今年は李建国全人代副委員長だった。日本への直接的な批判はなく「いかなる民族、いかなる国家も侵略戦争をしてはいけない」「前のことを忘れず後の戒めとなす。記憶は歴史の教訓だ」と述べた。


 *写真上は「新華社」より

 式典後は、“銘心会 南京”のグループのフィールドワークに合流した。代表の松岡環さん(写真下)は元教員。1980年代末から南京大虐殺の調査活動をすすめるとともに、被害者への「心のケア」として交流会やお見舞いの活動を続けている。生き残ったお年寄りは現在約100人。松岡さんは、日本で大虐殺を否定する人たちがいる今、彼らの願いはただひとつ、「必ず日本の人たちに南京大虐殺の事実を伝えてほしい」ということだと語った。

 最初に訪れたのは太平門の虐殺記念碑。南京市内には、虐殺記念碑が25あるというが、この太平門の虐殺は目撃者が一人も残っていず、研究もされていなかった。97年から松岡さんが始めた日本兵士の聞き取り調査で虐殺の事実が判明し、それをきっかけに唯一人生き残った男性がいたことがわかった。松岡さんの働きかけで2007年この地に虐殺記念碑が建った。

 南京攻防戦では、日本軍は南京城壁を囲み、複数の門の突破を試みた。太平門もそのひとつだった。三重県の歩兵33連隊の第6中隊が太平門に突入したとき、門にはホカホカの饅頭とエンジンをかけたままの車があったという。日本軍は、約400人の男女・こどもを一箇所に集め、最初は地雷でふきとばし、その後はガソリンをかけて火をつけた。それでも生き残った者は、銃剣で喉をついて殺した。「死体の上はグリグリして歩かれんぞ」という元兵士のことばに現実感をもったという松岡さん。400〜500人にのぼる捕虜の中国兵は近くの水の枯れた水路に入れて機関銃で一斉に殺した。(松岡さんはドキュメンタリー映画『太平門 消えた1300人』を制作している)。

 南京には、日本軍侵攻時に欧米人により国際安全区(難民区)が作られた。東西南北数キロ程度で囲まれたエリアで、25の建物が避難所として指定された。今の南京大学(当時の金陵大学)もその一つで、約3万人を収容していた。その一角にも、虐殺記念碑がある。90年前後、大学付近にたくさんの遺骨が発見された。96年にここに記念碑を建てようという話が上がったとき、松岡さんたちは支援を申し入れたが断られたという。

 日本人と一緒に追悼したくないという中国の人たちの意思は固く、それは長い間続いていた。1997年、日本人の呼びかけで南京大虐殺の大シンポジウムが南京で開催された。このときも、共同の追悼は拒否されたが、虐殺記念館の館長の「日本人も一生懸命思って追悼をやるのだ。だから、たとえ心のうちは別でも、同じ場所で追悼しようじゃないか」ということばでやっと追悼は実現した。「泣きました。ほんとうに。10年かかりました」と話す松岡さんの目には涙が滲んでいた。

 南京大学で避難していた人たちはどんな生活をしていたのか。建物の中にもいたが、多くが草ぶきの掘っ立て小屋でザコネをしていた。雨が降るとすごく濡れた。昼間日本兵に会うと必ず殺されるので、避難民は日本兵が宿舎にもどる夜、空き家で食べ物を探したり、家族やその遺体を捜したそうだ。日本兵は安全区の大学にも、ずかずか押し入り女性を拉致し強姦をした。他の避難所でも同様だった。そのため多くの女性は、アメリカ人の女性宣教師ミニー・ボートリンのいる金陵女子文理学院なら大丈夫といううわさを聞き、そこに逃げた。しかし金陵女子大もけっして安全ではなかった。

 金陵女子文理学院は、現在南京師範大学になっている。訪れたときはすでに夕闇が迫っていたが、ミニー・ボートリンの笑顔の銅像(写真上)はわたしたちを暖かく迎えてくれた。安全区委員長のジョン・ラーべは「ボートリンは、中国の女の子たちを、親鳥がひな鳥を守るようにして日本兵の魔の手から守ろうとした」と言っている。しかし現実は、彼女自身も日本兵からなぐられるような事態が起こっていた。病気になり、その後米国に帰ったボートリンは、1941年にガス自殺をする。『ザ・レイプ・オブ・南京』(1997年)を書いたアイリス・チャンも、心を病み拳銃自殺をした。非人間的極限を見た人たちの傷の深さを思った。松岡さんは「南京大虐殺にかかわって事実を掘り起こしたり、中国の女性に同情した女の人たちが、日本軍国主義と闘って、なかなかそれを克服できなかったことが、すごく悲しい」と語った。

 13日の夜は、記念館で追悼のキャンドルナイトが開催された。小学生、中高生、軍服を着た若者たち、市民、それに各国の仏教者たちがいた。その中でひときわ脚光を浴びた幸存者の女性(一番上の写真)。もう90歳は超えているかに見えるがしっかりとキャンドルを持ち、厳しい表情で前方を見続けていた。強く射る様な彼女の瞳を見たとき、南京事件から78年の歳月はわたしの中で消滅した。当日と翌朝のTVは、虐殺記念日を特集的に伝えていた。市内各所で行われた慰霊祭、幸存者の話、定刻にいっせいに街中で行われた黙祷、それと合わせて鳴り響くクラクション。悲しみと怒りは消えていない。


Created by staff01. Last modified on 2015-12-27 22:57:35 Copyright: Default

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