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LNJ Logo 松本昌次のいま、言わねばならないこと(第14回)〜加藤典洋氏の「ねじれ」について
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第14回 2014.5.1 松本昌次(編集者・影書房)

 加藤典洋氏の「ねじれ」について

 安倍晋三首相の靖国神社参拝を契機に、中国・韓国のみならず米国からも“失望”の矢が放たれ、日本の孤立化が深まった根本的原因は何か。それについて、加藤典洋氏が、記者の問いに答える形で語っている。(朝日新聞4月11日付「孤立する日本」)

 加藤氏は、日本は先の戦争に対し、アジア諸国にしっかりと謝罪することが「動かない原則」であるにも拘らず、なぜ、謝れないのかと自問しつつ、それは「敗戦で日本が背負った『三つのねじれ』に正面から向き合」おうとせず、逃げてきたからだと語る。

 その第一の「ねじれ」とはなにか。いうまでもなく靖国神社の問題にかかわる。先の戦争は、通常いわれる「国益」の衝突によるものではなく、民主主義とファシズムの争いで、明らかに日本は間違った悪い戦争をしたのである。しかしだからと言って、その戦争で死んだ自国民を哀悼しないわけにはいかない。その解決策がない、と加藤氏は指摘するのである。

 ではどうすればいいか。いうまでもなく、A級戦犯合祀をやめ、遊就館を撤去することである。加藤氏はそこまで踏みこもうとしないが、一週間後の朝日新聞同欄で米ハーバード大学名誉教授のエズラ・ボーゲル氏はインタビューに答えて、はっきりとそれ以外にないと明言している。氏は、安倍首相の靖国参拝に「失望した」と表明しつつ、日本は、周辺諸国に対し「加害者側としていつまでも謝る必要がある」し、「外国人の目からみると(加害者としての意識が)決定的に足りない」と批判している。ドイツでは、侵略戦争を肯定する「遊就館」とは逆に「加害に関する博物館」を作り、ドイツの指導者は今も謝りつづけているという。見事というほかない。そうしなければ「ねじれ」がほぐれるはずがないことは明白だ。

 第二の「ねじれ」は、憲法だと加藤氏はいう。そして中身はすばらしい、しかし米国から押しつけられた憲法をどうやって自分たちのものとするか。護憲派もこの難題を避け、それゆえ「憲法が政治の根幹として機能しない」という。しかし果たしてそうか。これに対しては、60年も前の今は亡き竹内好さんの「憲法擁護が一切に先行する」(雑誌「平和」1954年5月)を思いおこさざるを得ない。竹内さんも、はじめは「こんなものを勝手に作りやがって」と思ったという。しかしだんだん、たとえアメリカから与えられたとしてもいいものはいいと思うようになり、次のように書いている。

 「日本国憲法を作ったアメリカは作ったことを後悔している。……日本国憲法は、アメリカも捨てたし、日本の支配層も捨てている。……だから日本の人民が、それを自分のものだと宣言すれば、それは日本人民の作りだしたものになる」と。天皇から与えられた戦前の「大日本帝国憲法」が悪いものだったことは、歴史が証明したことであり、いいものは誰からの発案でもいいものなのだ。日本国憲法を米国からの押しつけと言いつのるのは政府支配層であって、そのテに乗って「ねじれ」を増幅させてはならない。ボーゲル氏も、「今の段階で(憲法)改正に踏み切れば日中、日韓関係はさらに悪化する、それは危ない」と警告している。

 さて、第三の「ねじれ」は、「天皇の戦争責任をあいまいにしてきたこと」に基因しており、天皇は存命中に、「戦争に道義的責任がある」と発言すべきだったが、それがなかったために、政治家は自分たちの戦争責任と真剣に取り組まず、「戦争で苦しんだ人々の思いを受け止める倫理観を麻痺させ」たと、加藤氏はいう。そのとおりだろう。しかし死人に口なし、「ねじれ」をときほぐすためには加藤氏の最後の言葉を借りていえば、「政治家の顔が見える、本当の心をともなった謝罪」を、ドイツのように今は亡き昭和天皇に代って、安倍首相が従軍慰安婦をはじめ、多くの戦争被害者へしつづけることである。


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