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LNJ Logo 証拠は現場にあり〜中国・南京各地の取材から第一報
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中国・南京各地の取材から第一報 寺島栄宏

証拠は現場にあり

名古屋市長が「南京大虐殺は無かった」と発言し、援護した橋下発言まで飛び出した記憶も新しい。安倍総理も似たようなことを外国で言っていた。日本では行政のトップが事実を確認せずに、憶測で発言する傾向が増えている。私は8月15日の敗戦に合わせ「南京大虐殺は無かった」のか現場検証に行った。

このテーマは、私もインターネットで感想を書くことも多いが、それにも関係する。ネットの世界では、他人の発言を受けて事実や出所を明記せずに拡散することがある。書き込むさい1つの手間、つまり再発信する前に事実かどうかの確認は、冒頭の政治家のように陥らないためにも大切だ。私は今回、南京の現場を見聞することで、行政トップの憶測発言や、少なからずネット上に溢れる「南京大虐殺は無かった」という言説の“事実”確認である。

証拠は現場にあり

これは犯罪捜査の鉄則である。南京各地の現場は、日本軍の行為の一環なので、兵士の記録や写真、指令文書や報道、生き残った現地住民の記録も多い。しかし、これらは膨大な記録で最後にコメントする。

このレポートでは、放置された各地の死体の山を、衛生管理上も放置できず集めては埋葬した現地の埋葬碑を1つひとつ訪ね記録を調べてまわった。

まず、地理上の誤解を解いておこう。南京はかつて中国の首都(政府が置かれていた場所)だったので日本軍の攻略も凄かった。同じ首都でも、東京と言えば23区と三多摩を含むように、南京と言えば旧市街だけでなく周辺の南京行政区域も含んでいる。

だから、かつて旧市街の真ん中にある国際安全区に関わる人口「20万の数字」が一人歩きしたことがある。そして「何故、南京で30万人殺せるのか」という笑えない言説も広がったこともあった。事実を調べない言説がネット上に溢れるのだ。

南京市街とその周辺の行政区の話だが、旧日本軍はいわゆる「三光作戦」を展開しつつ南京市街に迫る作戦をした。だから、戦争に伴う死体に対する埋葬と慰霊の碑が、各地に非常に多く建てられていて、死臭がたまらず埋葬した例もある。

これらの埋葬碑は、日本軍の野蛮な行為の事後確証の性格を持つ。これらの多くの事件現場の記録が集積されて「南京大虐殺」約30万人の数字が出てくるのだ。だから、現地へ行って調べず事実の裏づけのない感想・主張・コピーは、すべて空論でしかない。

その他の数々の旧日本軍の「蛮行」に関するネット上の多くの言説も、事実と無関係な印象批評が多く、事実に立脚した解明から離れてしまった、単なる願望の表明が多い。その願望とは、戦前の日本軍の非人道的な行為を隠蔽したいとする願いであり、この場合「南京大虐殺は無かった」と言う願いに留まる。

今回の旅で私は、各地の石碑や虐殺現場に居ながら、からくも生き残った少数の人々に会うにつれ、タイトルの文に、1つの言葉を追加する必要を感じた。

証拠は現場にあり 苦しみも現場にある

戦後70年になろうとしている現在である。進攻してきた日本軍によって、目の前で親や兄弟姉妹を殺された強烈な「心の傷」と、身寄りの無い「暮らしの断絶」を強制され、路頭に迷いつつ人生の道のりを生きてきた人々がいるのだ。極めて希に生き残ったという意味で「幸存者」と言われる少数の人は、今や85〜90才代で、あと数年したらこの世から居なくなる。その人たちに会った。

悪夢のように人生を悩ます幼少の鮮烈な体験を抱えながら、当時の出来事を話すことができる健康な体や記憶、更に話せるような家族関係、知られても大丈夫な地域に住む人は数少ない。年令から言って、ここ数年が「聞き取り」限度であろう。

その意味で、体験者の目撃の記録は、オーラルヒストリーの事実証拠の性格をもち、かつ苦しみの人生の記録でもある。私を含め日本人が「幸存者」に向き合う姿勢いかんが、会ってくれるのか、話してくれるのか、可否を含めて人間としての私自身が問われ、更に人間関係が持続できるかどうかのスタンスを突きつけられる思いがする。だから、侵略戦争をした世代の子や孫である私たちが、やれることは何か考えるのだ。

証拠は現場にあり 苦しみも現場にある
苦しむ人に寄り添うことで、相互の理解の道が開け得る

確かに証拠は加害の現場にあった。しかし、先の大戦の日本軍の残虐行為については、敗戦の軍隊が戦犯に問われないよう、日本軍関係の命令を含む記録文書は焼却された。証拠を戦地に残さないためだ。だから、多くの加害の物証や記録は日本国内に持ち込まれていないので、日本国民の多くは知らない。敗戦時に現地部隊で焼却されたのだ。

だが、日本国内で「残虐行為」は無いとする言説が、政治家を初めとして多く語られれば語られるほど、比例した勢いで中国民衆の体験はよみがえり、証拠を探し出す。私が南京周辺のフィールドワークに、日本から出かけた理由もそこにある。

戦後史を振り返っても、「慰安婦」と呼ばれていた女性が初めて声を上げたことで世界中に知れ渡たり、同時に旧日本軍の戦争時の「恥部」を隠そうとする日本の右翼的言動が起こり、更に、日本軍の残虐行為を教科書記述から排除させる問題にまで広がった。

だが、被害者として体験した中国民衆は、戦時の残虐行為を歴史から消すまいと、日中共同声明を持ち出すまでもなく平和共存に逆行させまいと、民衆レベルにまで記録の発掘と教育展示に拍車がかかる。

関東軍憲兵隊司令部文書の焼却途中の火の消えた記録。最近20万点の一部が刊行され調査研究が進み始めた。

訪れた例の1つ、百家村では村として全村民調査をして、詳細な図面付きの厚い記録を作っていた。だが、皆殺しの場合には記録すらない。

南京関係の膨大な記録や証拠の最も規模の大きな蒐集・研究・展示をしているのが、南京大虐殺受難同胞記念館記念館だ。

私は約10年ぶりに再訪したが、見違えるほどの広さと充実した展示に驚くほどだ。「南京大虐殺」についての私の現在の判断は、幾つかの死者数の主張の違いは日中の調査と研究の専門家に委ねて解明を待ちたいと思う。大事なことは数以前のこと、つまり1人ひとりの人間の命と人生に対する敬意をもって向き合うことだ。


(紫金山)東郊叢葬地

旧南京行政区域には、数多くの虐殺跡がある。そのような土地では、遺体を収容し葬った埋葬の碑が建てらているが、最後にその1つの碑文を紹介する。

「(紫金山)東郊叢葬地紀念碑」碑文。

 1937年12月、侵略日本軍はこの東部郊外一帯で、この世のものとも思えない残虐の限りを尽くした南京大虐殺を行った。無辜(むこ)の同胞が残忍にもたくさん殺され、至る所に死体の山ができ丘陵を覆うほどであった。
 死体を埋葬する人が居なかったために、死体が腐乱し悪臭を放つまでに至った。翌年4月になってやっと、崇善堂などの慈善団体によって中山門外から馬群鎮一帯で遺体の処理が行われ、荒れた丘や野原に埋葬した遺体は33000体を数えた。
 また、まだ埋葬されていない遺体が(見つかり)残されていたため辺りは悪臭が充満し、(確認された)数ヶ月経て1938年12月、傀儡政権の当時の南京市長の命令により衛生局の責任者がこの地にやってきて、馬群鎮、卯(草かんむりに卵)山、馬鞍、霊谷寺などの各地で遺体3000体余りを収集し、霊谷寺の東の郊外に全部まとめて葬る作業が1939年1月まで続けられた。そして「無主孤魂墓碑」(身寄りの無い孤独な魂の墓碑)を建て追悼した。

当時の碑文の拓本は残っているが、残念なことに碑そのものは無くなっていたので、ここに新しい紀念碑(原文)を特別に建て哀悼の意を表した。各地からこの地を訪れる人々に、この事実を知らせたい。

撮影著作 寺島栄宏 2014.8.21記


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